ボニー・バタフライ・エフェクト

 夢を見ていた。
 それはずっと昔の、遠い日の夢──。

 初夏の澄んだ空の下を、柔らかな風が吹いていた。
 午後の日差しに満ちた公園は、青い芝生の瑞々しい香りに満たされている。

 愛斗はまだ五歳で、母とこの町に引っ越してきたばかりだった。

 その日は母に連れられて、近所の公園に散歩へ出かけた。
 砂場にブランコ、カラフルなジャングルジム。胸がワクワクと踊るような広い公園では、たくさんの子供たちが駆け回って遊ぶ姿がある。

「ほら愛斗、お友達がたくさんいるわよ。一緒に遊んでもらいましょうね」

 子供たちは見慣れない親子の姿に気がつくと、動きを止めて興味深そうな視線を向けてきた。一斉に注目されたことで、愛斗は緊張から身を強張らせてしまう。

 母が子供たちに愛斗を紹介している間も、モジモジするばかりで何も言えなかった。 

「よかったら、この子ともお友達になってくれない?」

 母が言うと、一番背の高い男の子が頬を赤くしながら、真っ先にうなずいてくれた。それに続いて、他の子供たちも明るい笑顔を見せた。

 つい人見知りをしてしまい、最初のうちは母にしがみついて離れることができなかった。
 けれど優しく背中を押されて、ようやく愛斗は子供たちの輪に加わって遊びはじめた。かけっこをしたり、砂場で遊んだり。

 すると視界の端で、ぐしゃりと音を立てて一人の子供が転んだ。

 愛斗と同じ年くらいの、小さな女の子だった。今にも泣きそうになっているその子を、愛斗は遠目からハラハラしながら見ていることしかできなかった。

 するとすかさず、駆け寄っていく少年の姿が見えた。

「だいじょうぶ?」

 それが喜逸だった。

 彼は女の子の前にしゃがんで立たせてやりながら、心配そうに声をかけていた。
 砂だらけのスカートを、白い手で丁寧に払ってやっている。

 それから、その子の脇腹をこしょこしょっとくすぐりはじめた。すると今にも泣く寸前だった子が、ケラケラと笑いだした。

 すごい、と思った。
 泣きそうになっている子を、一瞬で笑顔にしてしまうなんて。まるで魔法使いみたいだ。

 そのあとも、喜逸はブランコに乗る子の背中を押してあげたり、汚れた手を自分の服で拭ってあげたりして、よく面倒を見ていた。

 うらやましいな、と思った。ボクもあのお兄さんと仲良くなりたいな、と。

 一番大きくてみんなに優しい喜逸は、愛斗の目にはとても立派なお兄さんに見えた。
 話がしてみたかったし、もっと近くで顔が見てみたかった。

 なのにいざ喜逸が近づいてくると、なぜだか胸がドキドキして、目も合わせられなかった。うまく話せる自信がなくて、恥ずかしくて、どうしたらいいか分からなくて。

 こんな気持ちは初めてで、自分でも理由が分からなかった。

 だから愛斗は、わざとプイとそっぽを向いた。喜逸が近くに来ると、慌ててそこから逃げだした。
 それでも喜逸は、めげずに話しかけてきた。

「マナトくん、すべり台でいっしょにあそばない? オレが下で受けとめてあげるから」

 差し出された手は、愛斗のものより一回り大きかった。

 愛斗はその手を、力いっぱい振り払った。
 本当は嬉しくて仕方がないくせに、どうしてか同じくらい、心がチクチクして仕方なかった。

「ボク、キミのことキライ。だから、あそばない! あそんであげない!」

 言った瞬間、お兄さんの顔が固まった。ショックを受けたような、呆然とした顔だった。
 胸がズキッと痛んだのを覚えている。本当はそんなこと、ちっとも思っていないのに。ぜんぜん逆のことを言ってしまった。

 言ってから、とても後悔した。
 お兄さんは、きっとすごく傷ついたに違いない。

(ボクって、すっごくイヤなこだ……!)

 悲しくて、悔しくて、こんな自分が嫌いで。
 お兄さんの顔が見られなくて、愛斗はそこから駆けだした。


 *


 ぼんやりとした意識が、ゆっくりと浮き上がってきた。

 目を開けると、見慣れた天井がある。カーテンの隙間から差し込む朝の光が、部屋の空気に浮遊するほこりを白く照らしている。

 愛斗は天井を眺めたまま、しばらく動けなかった。

(……夢、か)

 アラームが鳴る前に目が覚めるなんて、愛斗にとっては奇跡に近い。いつもならスマホが鳴るまで起きないし、鳴ってからも止めて二度寝してしまうのに。

 愛斗は天井を眺めながら、さっきまで見ていた夢のことを思い返した。
 あれは、初めて喜逸と出会った日のことだ。まだほんの5歳だった頃の、幼い記憶。

 愛斗がついた、小さな嘘。

「どうして忘れてたんだろう……?」

 喜逸と初めて出会った日のことは、ぼんやりとでも覚えているつもりだった。
 けれどそのとき何を言ったかまでは、すっかり頭から抜けていたのだ。

 だけど愛斗の脳は、ちゃんと記憶していたらしい。
 だからこそ、あんなにも鮮明な夢を見た。苦い記憶だったから、無意識に心の奥底にしまい込んでいたのだろう。

 幼い喜逸の心を傷つけてしまったことから、ずっと目を背け続けていたのだ。

「なんてこと言っちゃったんだろう……」

 罪悪感に溜息をこぼしていると、枕元のスマホがけたたましく鳴りだした。
 とっさに手を伸ばし、アラームを止める。そして思いだしたようにガバッと飛び起きた。

「そうだ! 今日は大事な日なんだった!」

 愛斗はいつもの倍の速さで布団を跳ね除け、部屋から飛びだした。ドタドタと洗面所に直行して、歯磨きや洗顔を済ませると身支度を整える。

「あら、珍しい。土曜日なのに、こんなに早くに起きてくるなんて」

 キッチンではエプロン姿の母が、すっかり目を丸くしながら驚いていた。
 愛斗は椅子を引いて座ると、「うん!」と元気よく答えた。

「喜逸くん、今日だっけ?」
「そう! だから今日はボクが喜逸を迎えに行くんだ!」

 母がトースターから取り出したパンを皿に乗せて、テーブルに置いてくれた。愛斗はそれにジャムを塗り、大急ぎで平らげていく。

「いつもこうだったらいいのにねぇ」

 母がグラスに牛乳を注いでくれながら、クスクスと笑った。

「これからはそうなるよ! ボクだっていつまでも子供じゃないんだからさ!」
「はいはい、そうだといいわね」

 全然信じていない顔で相槌を打つ母に、愛斗はむぅっとふくれっ面をした。
 けれどすぐに気を取り直し、パンの最後のひとかけらを牛乳と一緒に飲み込むと、椅子を引いて立ち上がる。

「それじゃ、いってきます!」
「気をつけていってらっしゃい。喜逸くんによろしくね」

 玄関を飛びだすと、朝の空気が頬を撫でる。
 高く澄んだ空は、初めて喜逸と出会ったあの日と同じく、どこまでも青かった。