母が死んだ。
夜の仕事に向かうとき、アパートの階段から転げ落ち、頭を打って死んだ。
葬式には母方の祖父母と、小学校の先生と、母の勤め先のホステスが数名やってきた。
リクくんは来なかった。後日、母の通帳から全額引き出されていたことが分かった。
それだけだった。きっともう二度と会うことはない。
黒い服を着た大人たちが、口々に「可哀想に」とか、「まだ若いのに」とか言いながら、喜逸の頭を撫でていった。
喜逸はその度にお礼を言いながらうつむいた。泣けなかった。涙が出なかった。ただ、インスタントラーメンの味だけを思いだしていた。
喜逸はそこで、初めて祖父母と対面した。
母から話だけは聞いたことがあったが、これまで一度も会ったことはなかった。
何があったかは知らないけれど、母と彼らはもう何年も絶縁状態であったらしい。
「こんな大きな孫がいたなんてなぁ……ワシらは、それすら知らずにいたんだなぁ……」
喜逸の頭をポンポンと撫でて、祖父が悲しげに呟いていた。
「なにも心配ないからね。これからは、おじいちゃんとおばあちゃんと暮らそうね」
祖母に抱きしめられながら、喜逸はただぼぅっとするばかりだった。
彼らは喜逸を引き取ってくれるのだという。幸いなことに、祖父母の家は同じ町内にある。喜逸はそのことも、母から聞いて知っていた。
同じ町内にいるのに、お互いがどうしていたかも知らないなんて。
血の繋がりというものの薄さを、喜逸は幼いながらにひどく虚しく感じてしまった。
*
誰も知らない。
あのボロアパートの階段の踏み板が、いつからか傾いていたことを。
一番上の段から数えて三段目。体重をかけるたびに、ギシ、ギシ、と不穏な音を立てていたことを。
外れかけていたボルトが、ある日ふと、喜逸の靴先に触れた。
コツン、という小さな感触。それからカラン、という乾いた音。気がついたら、ボルトがどこかに飛んでいた。
喜逸はそれに“気づかなかった”。
だからこれは、『不幸な事故』だ。
昼間から酒を飲んで酔っていた母が、ふらふらの足取りで階段をおりていったことも。体勢を立て直す間もなく、転がり落ちてしまったことも。頭の打ちどころが悪かったことも。
すべてはただの『偶然』で、喜逸は何も“知らなかった”のだ。
仕方のないことだった。遅かれ早かれ、いずれはこうなっていただろう。
だからこそ、大家さんはずっと以前から立ち退きの打診をしてきていた。それを無理やりごねて、居座っていたのは母の方だ。
もしこの世に神様がいるのなら。
そうなるべくして、仕組んでくれたことなのかもしれない。今までずっと喜逸を無視していた神様が、初めて願いを聞き入れてくれたのかもしれない。
だってそのおかげで、喜逸は遠くへ引っ越さなくてもよくなった。
住む場所と家族が変わるだけで、学校も今まで通りでよくなった。
もう喜逸を殴ったり、蹴ったりする人間もいない。そして何より、愛斗と離れずに済む。
これからも、ずっと一緒にいられる。
絡みついた小指の感触。夕焼けの道で交わした約束。可愛い愛斗の、可愛い笑顔。
そのあたたかなぬくもりだけが、喜逸の胸をいっぱいに満たしている。
だから──。
「バイバイ、お母さん」
小さく呟いた言葉は誰の耳にも届くことなく、ただ静かに空中へと滲んで消えた。
夜の仕事に向かうとき、アパートの階段から転げ落ち、頭を打って死んだ。
葬式には母方の祖父母と、小学校の先生と、母の勤め先のホステスが数名やってきた。
リクくんは来なかった。後日、母の通帳から全額引き出されていたことが分かった。
それだけだった。きっともう二度と会うことはない。
黒い服を着た大人たちが、口々に「可哀想に」とか、「まだ若いのに」とか言いながら、喜逸の頭を撫でていった。
喜逸はその度にお礼を言いながらうつむいた。泣けなかった。涙が出なかった。ただ、インスタントラーメンの味だけを思いだしていた。
喜逸はそこで、初めて祖父母と対面した。
母から話だけは聞いたことがあったが、これまで一度も会ったことはなかった。
何があったかは知らないけれど、母と彼らはもう何年も絶縁状態であったらしい。
「こんな大きな孫がいたなんてなぁ……ワシらは、それすら知らずにいたんだなぁ……」
喜逸の頭をポンポンと撫でて、祖父が悲しげに呟いていた。
「なにも心配ないからね。これからは、おじいちゃんとおばあちゃんと暮らそうね」
祖母に抱きしめられながら、喜逸はただぼぅっとするばかりだった。
彼らは喜逸を引き取ってくれるのだという。幸いなことに、祖父母の家は同じ町内にある。喜逸はそのことも、母から聞いて知っていた。
同じ町内にいるのに、お互いがどうしていたかも知らないなんて。
血の繋がりというものの薄さを、喜逸は幼いながらにひどく虚しく感じてしまった。
*
誰も知らない。
あのボロアパートの階段の踏み板が、いつからか傾いていたことを。
一番上の段から数えて三段目。体重をかけるたびに、ギシ、ギシ、と不穏な音を立てていたことを。
外れかけていたボルトが、ある日ふと、喜逸の靴先に触れた。
コツン、という小さな感触。それからカラン、という乾いた音。気がついたら、ボルトがどこかに飛んでいた。
喜逸はそれに“気づかなかった”。
だからこれは、『不幸な事故』だ。
昼間から酒を飲んで酔っていた母が、ふらふらの足取りで階段をおりていったことも。体勢を立て直す間もなく、転がり落ちてしまったことも。頭の打ちどころが悪かったことも。
すべてはただの『偶然』で、喜逸は何も“知らなかった”のだ。
仕方のないことだった。遅かれ早かれ、いずれはこうなっていただろう。
だからこそ、大家さんはずっと以前から立ち退きの打診をしてきていた。それを無理やりごねて、居座っていたのは母の方だ。
もしこの世に神様がいるのなら。
そうなるべくして、仕組んでくれたことなのかもしれない。今までずっと喜逸を無視していた神様が、初めて願いを聞き入れてくれたのかもしれない。
だってそのおかげで、喜逸は遠くへ引っ越さなくてもよくなった。
住む場所と家族が変わるだけで、学校も今まで通りでよくなった。
もう喜逸を殴ったり、蹴ったりする人間もいない。そして何より、愛斗と離れずに済む。
これからも、ずっと一緒にいられる。
絡みついた小指の感触。夕焼けの道で交わした約束。可愛い愛斗の、可愛い笑顔。
そのあたたかなぬくもりだけが、喜逸の胸をいっぱいに満たしている。
だから──。
「バイバイ、お母さん」
小さく呟いた言葉は誰の耳にも届くことなく、ただ静かに空中へと滲んで消えた。
