その夜、母はいつもより機嫌がよかった。
リクくんの姿もなく、六畳一間にはめずらしく穏やかな空気が満ちていた。煙草の臭いも、酒の臭いも、今夜はいつもより薄くなっている気がした。
キッチンで小鍋に向かっている母の背中は、どこかウキウキとして見えた。鼻歌まで歌っている。喜逸はその光景を不思議に思いながら、古びた畳の上で膝を抱えていた。
「喜逸、ご飯だよ。お席について」
母が振り返り、にっこりと笑った。こんなふうに笑いかけてもらえることなど、滅多にない。喜逸は戸惑いつつも、言われた通りちゃぶ台の側に座った。
「はい、お食べ」
目の前に、湯気の立つどんぶりが置かれた。醤油のいい香りがする。インスタントラーメンだったけれど、喜逸には十分すぎるほどのご馳走だった。
いただきます、と手を合わせ、ふぅふぅと冷ましながら麺をすすった。
母は喜逸が食べる様子を傍で見守り、ちゃぶ台に肘を付いて小さく笑いながら、「おいしい?」と問いかけてくる。喜逸はうなずき、ようやく少しだけ笑った。
「あのねぇ、喜逸。リクくんとママ、結婚することになったの」
母が煙草の箱に手を伸ばし、一本引き抜く。口に咥えて、火をつけた。
吐き出された煙に少しむせそうになりながら、喜逸は密かに身を強張らせた。それを悟られぬように、黙って麺をすすり続ける。
「喜逸にもパパができるのよ。よかったね。喜逸もリクくんのこと、好きでしょ?」
本当のことなど言えるわけがなかった。今もまだ、殴られた場所がジンジンと痛んでいる。肩や背中の傷を隠すため、プールの授業は仮病を使っていつも休んでいた。
それでも喜逸は、「うん」と言ってうなずいた。母の機嫌を損ねたくなかった。
「そう? よかった」
母は嬉しそうに笑って、再び「おいしい?」と聞いてきた。喜逸はこくんとうなずいた。
「新しいおうちでも、ママが毎日ご飯を作ってあげるからね」
「……あたらしいおうち?」
大きく煙を吐きだしながら、母が歌うような声で「そうよ」と言った。
「来月には、遠くの町へお引越しするの。このアパート、もう古くてボロボロでしょ?」
このアパートは随分と古く、大家から立ち退きの打診がずっと以前から来ていた。
壁はそこらじゅうヒビが入っていて、キッチンの床はベコベコしている。窓枠が歪んでうまく鍵がかからないし、風呂場の排水溝からはしょっちゅう変な臭いがしていた。
いつまでも居続けるわけにはいかないと、母も分かっていたのだろう。
一階も二階も、他の部屋の住人はすでに退去済みだ。つい先日、最後の砦だったお隣さんが引っ越したばかりだった。
「だから、こことはもうお別れ。学校も新しく変わるから、喜逸もお友達にちゃんとバイバイしておくのよ」
母はそう言って、また鼻歌を歌い始めた。
喜逸はラーメンのスープを飲みながら、静かに考えていた。
母の結婚。引っ越し。それによってもたらされる、今よりもっと最悪の未来。
じわじわと、胸の底から冷たく暗い感情が這い上がってくる。
「ラーメン、おいしい?」
三度目の問いかけに、それでも素直にうなずいた。
*
廃神社での一件以来、愛斗と喜逸はすっかり仲良くなっていた。
特に愛斗の懐き方が凄くて、いつものようにみんなで遊んでいたら、他の子にヤキモチまで焼く始末だった。
ぶぅっと頬を膨らませてヘソを曲げるものだから、喜逸は愛斗と二人きりで遊ぶようになった。
いつもの公園とは少し離れた場所にある、今では誰も遊ばなくなった狭くて古い公園が、二人だけの遊び場所になっていった。
ブランコに乗る背を押してやったり、野良猫を追いかけたり。
日が傾いてカラスが鳴き始めるまで、飽きることなく一緒に遊ぶ。それが毎日の楽しみになっていた。
喜逸は学校が終わるとすぐに愛斗の家に迎えに行って、暗くなる前には送り届ける。
今ではすっかり愛斗の母親とも仲良くなってしまい、たまに夕飯をご馳走になることもあった。
帰りが遅くなると叱られて、酷いときには殴られてしまうこともある。
それでも愛斗が喜んでくれるから、時々はお言葉に甘えるようにしていた。
喜逸は愛斗が望むことなら、なんでもしてやりたかった。
その笑顔を見るだけで、胸が幸せでいっぱいになる。あの六畳一間で感じる重苦しさも、リクくんの拳の感触も、母の怒声も。
愛斗の笑顔を見るだけで、全部がどうでもよくなってしまうから不思議だった。
だけどこんな幸せも、長くは続かない。
だって来月には、遠くの町へ行かなくてはならないから。
もう愛斗のそばにいられなくなる。一緒に遊べなくなる。ずっと守ると約束したのに。
(……イヤだな)
胸の底でそう思いながらも、喜逸は愛斗にそれを悟られないように抑え込んでいた。
言えばまた泣かせてしまうかもしれない。そうしたら、きっと自分まで耐えきれずに泣いてしまうと思ったから。
その日も手を繋いで、愛斗を家まで送るために帰り道を歩いていた。
カラスの声が遠くの空から聞こえて、夕日が二人の影を細長く引き伸ばしている。
「ねぇキイチ」
ふいに愛斗が立ち止まった。繋いだ手が引っ張られて、喜逸も足を止める。
「あのね、おねがいがあるの」
「いいよ。言ってみて」
「あのね、ボク、キイチとケッコンしたいの」
「け、けっこん?」
声が引っくり返りそうになるのを抑えながら、喜逸はとっさに聞き返した。
結婚というワードは、今の喜逸にとっては憂鬱なものでしかなかった。それが愛斗の口から飛びだすとは思わず、ついビックリしてしまった。
「ボクね、キイチとケッコンして、おヨメさんになりたいの」
「マナト、ケッコンなんて知ってるの?」
「しってるよ! ケッコンするとね、ずっといっしょにいられるんだって! おかぁさんにおしえてもらった!」
えっへんと胸を張る愛斗の目が、夕陽を受けてキラキラと輝いている。
ずっといっしょ──。
その言葉が、喜逸の中に深く染み渡る。あたたかくて、胸がきゅうっと締めつけられて、もどかしいような何かが、そこから溢れだす感覚があった。
嬉しかった。心がグズグズに蕩けてしまいそうなくらい。
ようやく欲しいものが手に入ったような、そんな気さえしていた。
けれど何も言えずにいる喜逸に、愛斗は不安そうな顔を浮かべた。小さな両手で、ぎゅっと喜逸の手を握りしめ、さらに言い募る。
「どうしてなにもいってくれないの? キイチ、ボクとケッコンするのヤなの?」
「ち、ちがうよ! ヤじゃないよ!」
「ほんと!?」
「うん、ほんと……だけど……」
喜逸は迷っていた。言うべきか、言わないべきか。
もうすぐ遠くへ行かなくてはいけないこと。愛斗のそばを離れなくてはいけないこと。バイバイしなくてはいけないことを。
けれど、それを言えば悲しませてしまうことが分かるから、喜逸はその先をどうしても言うことができない。いつまでも隠しておけるわけじゃないのに。
「ねぇ、じゃあやくそくしよ! おっきくなったら、ぜったいボクとケッコンしてね!」
愛斗は喜逸の言葉を待たずに、すっかりその気になっていた。
小さな両手が離れたかと思うと、今度は右の小指を差しだしてくる。
喜逸は瞳を潤ませながら、それをどこか呆然と見つめた。
愛斗はこんなにも自分を必要としてくれている。まっすぐな気持ちを向けてくれる。それなのに離れなくてはいけないなんて、そんなのは嫌だ。
(他には、なにもいらない。マナトがいたら、それだけでいい!)
母のことも、リクくんのことも、引っ越しのことも。全てがどうでもいいと思えた。
愛斗の「ずっといっしょ」という言葉だけが、今このとき、喜逸にとって世界の全てになっていた。
「いいよ」
次の瞬間には、堪えきれない笑顔と共に自分の小指を絡めていた。
「ずっといっしょ。やくそくだよ、マナト」
ずっとそばにいるために。そのために、どうすればいいか。
絡めた小指を無邪気に揺らす愛斗の笑顔を見つめて、喜逸は静かに『決心』していた。
リクくんの姿もなく、六畳一間にはめずらしく穏やかな空気が満ちていた。煙草の臭いも、酒の臭いも、今夜はいつもより薄くなっている気がした。
キッチンで小鍋に向かっている母の背中は、どこかウキウキとして見えた。鼻歌まで歌っている。喜逸はその光景を不思議に思いながら、古びた畳の上で膝を抱えていた。
「喜逸、ご飯だよ。お席について」
母が振り返り、にっこりと笑った。こんなふうに笑いかけてもらえることなど、滅多にない。喜逸は戸惑いつつも、言われた通りちゃぶ台の側に座った。
「はい、お食べ」
目の前に、湯気の立つどんぶりが置かれた。醤油のいい香りがする。インスタントラーメンだったけれど、喜逸には十分すぎるほどのご馳走だった。
いただきます、と手を合わせ、ふぅふぅと冷ましながら麺をすすった。
母は喜逸が食べる様子を傍で見守り、ちゃぶ台に肘を付いて小さく笑いながら、「おいしい?」と問いかけてくる。喜逸はうなずき、ようやく少しだけ笑った。
「あのねぇ、喜逸。リクくんとママ、結婚することになったの」
母が煙草の箱に手を伸ばし、一本引き抜く。口に咥えて、火をつけた。
吐き出された煙に少しむせそうになりながら、喜逸は密かに身を強張らせた。それを悟られぬように、黙って麺をすすり続ける。
「喜逸にもパパができるのよ。よかったね。喜逸もリクくんのこと、好きでしょ?」
本当のことなど言えるわけがなかった。今もまだ、殴られた場所がジンジンと痛んでいる。肩や背中の傷を隠すため、プールの授業は仮病を使っていつも休んでいた。
それでも喜逸は、「うん」と言ってうなずいた。母の機嫌を損ねたくなかった。
「そう? よかった」
母は嬉しそうに笑って、再び「おいしい?」と聞いてきた。喜逸はこくんとうなずいた。
「新しいおうちでも、ママが毎日ご飯を作ってあげるからね」
「……あたらしいおうち?」
大きく煙を吐きだしながら、母が歌うような声で「そうよ」と言った。
「来月には、遠くの町へお引越しするの。このアパート、もう古くてボロボロでしょ?」
このアパートは随分と古く、大家から立ち退きの打診がずっと以前から来ていた。
壁はそこらじゅうヒビが入っていて、キッチンの床はベコベコしている。窓枠が歪んでうまく鍵がかからないし、風呂場の排水溝からはしょっちゅう変な臭いがしていた。
いつまでも居続けるわけにはいかないと、母も分かっていたのだろう。
一階も二階も、他の部屋の住人はすでに退去済みだ。つい先日、最後の砦だったお隣さんが引っ越したばかりだった。
「だから、こことはもうお別れ。学校も新しく変わるから、喜逸もお友達にちゃんとバイバイしておくのよ」
母はそう言って、また鼻歌を歌い始めた。
喜逸はラーメンのスープを飲みながら、静かに考えていた。
母の結婚。引っ越し。それによってもたらされる、今よりもっと最悪の未来。
じわじわと、胸の底から冷たく暗い感情が這い上がってくる。
「ラーメン、おいしい?」
三度目の問いかけに、それでも素直にうなずいた。
*
廃神社での一件以来、愛斗と喜逸はすっかり仲良くなっていた。
特に愛斗の懐き方が凄くて、いつものようにみんなで遊んでいたら、他の子にヤキモチまで焼く始末だった。
ぶぅっと頬を膨らませてヘソを曲げるものだから、喜逸は愛斗と二人きりで遊ぶようになった。
いつもの公園とは少し離れた場所にある、今では誰も遊ばなくなった狭くて古い公園が、二人だけの遊び場所になっていった。
ブランコに乗る背を押してやったり、野良猫を追いかけたり。
日が傾いてカラスが鳴き始めるまで、飽きることなく一緒に遊ぶ。それが毎日の楽しみになっていた。
喜逸は学校が終わるとすぐに愛斗の家に迎えに行って、暗くなる前には送り届ける。
今ではすっかり愛斗の母親とも仲良くなってしまい、たまに夕飯をご馳走になることもあった。
帰りが遅くなると叱られて、酷いときには殴られてしまうこともある。
それでも愛斗が喜んでくれるから、時々はお言葉に甘えるようにしていた。
喜逸は愛斗が望むことなら、なんでもしてやりたかった。
その笑顔を見るだけで、胸が幸せでいっぱいになる。あの六畳一間で感じる重苦しさも、リクくんの拳の感触も、母の怒声も。
愛斗の笑顔を見るだけで、全部がどうでもよくなってしまうから不思議だった。
だけどこんな幸せも、長くは続かない。
だって来月には、遠くの町へ行かなくてはならないから。
もう愛斗のそばにいられなくなる。一緒に遊べなくなる。ずっと守ると約束したのに。
(……イヤだな)
胸の底でそう思いながらも、喜逸は愛斗にそれを悟られないように抑え込んでいた。
言えばまた泣かせてしまうかもしれない。そうしたら、きっと自分まで耐えきれずに泣いてしまうと思ったから。
その日も手を繋いで、愛斗を家まで送るために帰り道を歩いていた。
カラスの声が遠くの空から聞こえて、夕日が二人の影を細長く引き伸ばしている。
「ねぇキイチ」
ふいに愛斗が立ち止まった。繋いだ手が引っ張られて、喜逸も足を止める。
「あのね、おねがいがあるの」
「いいよ。言ってみて」
「あのね、ボク、キイチとケッコンしたいの」
「け、けっこん?」
声が引っくり返りそうになるのを抑えながら、喜逸はとっさに聞き返した。
結婚というワードは、今の喜逸にとっては憂鬱なものでしかなかった。それが愛斗の口から飛びだすとは思わず、ついビックリしてしまった。
「ボクね、キイチとケッコンして、おヨメさんになりたいの」
「マナト、ケッコンなんて知ってるの?」
「しってるよ! ケッコンするとね、ずっといっしょにいられるんだって! おかぁさんにおしえてもらった!」
えっへんと胸を張る愛斗の目が、夕陽を受けてキラキラと輝いている。
ずっといっしょ──。
その言葉が、喜逸の中に深く染み渡る。あたたかくて、胸がきゅうっと締めつけられて、もどかしいような何かが、そこから溢れだす感覚があった。
嬉しかった。心がグズグズに蕩けてしまいそうなくらい。
ようやく欲しいものが手に入ったような、そんな気さえしていた。
けれど何も言えずにいる喜逸に、愛斗は不安そうな顔を浮かべた。小さな両手で、ぎゅっと喜逸の手を握りしめ、さらに言い募る。
「どうしてなにもいってくれないの? キイチ、ボクとケッコンするのヤなの?」
「ち、ちがうよ! ヤじゃないよ!」
「ほんと!?」
「うん、ほんと……だけど……」
喜逸は迷っていた。言うべきか、言わないべきか。
もうすぐ遠くへ行かなくてはいけないこと。愛斗のそばを離れなくてはいけないこと。バイバイしなくてはいけないことを。
けれど、それを言えば悲しませてしまうことが分かるから、喜逸はその先をどうしても言うことができない。いつまでも隠しておけるわけじゃないのに。
「ねぇ、じゃあやくそくしよ! おっきくなったら、ぜったいボクとケッコンしてね!」
愛斗は喜逸の言葉を待たずに、すっかりその気になっていた。
小さな両手が離れたかと思うと、今度は右の小指を差しだしてくる。
喜逸は瞳を潤ませながら、それをどこか呆然と見つめた。
愛斗はこんなにも自分を必要としてくれている。まっすぐな気持ちを向けてくれる。それなのに離れなくてはいけないなんて、そんなのは嫌だ。
(他には、なにもいらない。マナトがいたら、それだけでいい!)
母のことも、リクくんのことも、引っ越しのことも。全てがどうでもいいと思えた。
愛斗の「ずっといっしょ」という言葉だけが、今このとき、喜逸にとって世界の全てになっていた。
「いいよ」
次の瞬間には、堪えきれない笑顔と共に自分の小指を絡めていた。
「ずっといっしょ。やくそくだよ、マナト」
ずっとそばにいるために。そのために、どうすればいいか。
絡めた小指を無邪気に揺らす愛斗の笑顔を見つめて、喜逸は静かに『決心』していた。
