ボニー・バタフライ・エフェクト

「あ! キイチくんみっけー!」

 とうにカウントダウンを終えていた鬼の子供が、嬉しそうに喜逸を指さした。

 隠れもせずにノコノコと姿を現した喜逸に、鬼の子は何の疑問も抱かず得意げだった。
 それに笑いかけてやりながら、残りの子供たちを探す手伝いをした。

 一人、また一人と見つかっていくなか、当然ながら愛斗の姿を見つけ出せる子供はいなかった。
 やがて夕暮れが差し迫り、子供たちが「またね」と言って去っていく。

「マナトくん、いなかったね~」
「先に帰ったんじゃないの?」

 そんな無責任な言葉を残し、公園から人の気配が消えた。

 静かな住宅街に、カラスの鳴き声だけがこだましていた。そこらじゅうからカレーや肉じゃがのような、美味しそうな匂いがしている。

 いいなと思った。
 優しい母親が、当たり前のようにご飯を作って、待っていてくれるような家。みんなそこへ帰っていく。

 だけど残念ながら、喜逸はそんなものとは無縁だ。
 今日も帰ったらリクくんがいるかもしれない。また何でもないことで叱られて、酷いことをされるかもしれない。

 そう思うと、喜逸の足は自宅アパートから遠のいてしまう。
 行く宛もなく、自然とあの廃神社に向かっていた。

 鬱蒼とした木々が茂る境内は、色濃いオレンジに染まりきっていた。カラスの鳴き声さえも止んでいる。遠くの空から、青い闇が迫ろうとしていた。

 そんな中、幼い泣き声だけが辺りに響き渡っていた。

「うぅぅ……っ、わあぁぁん……ッ! おかあさんっ、おかぁさぁん!!」

 ほこりとカビ、そして古い木の匂いに包まれた空間で、愛斗は自分が世界から切り離されたことを悟ったのだろう。恐怖の深さが、泣きすぎて掠れた声から伝わってくる。

 その悲痛な叫びを聞いた瞬間、思いだしたように罪悪感が込み上げた。

 なんてバカなことをしたんだろう。こんな小さい子を閉じ込めて、こんなに泣かせて。
 愛斗にだって待っている母親がいるのに。愛斗が帰らないと知ったら、きっとすごく心配して、悲しい思いをするだろう。

「マナト!」

 格子窓に駆け寄って、その名を呼んだ。
 カビ臭い拝殿の奥で、幼い気配が息を呑むのが分かった。

「だ、だれ? ねぇ、たすけて! おねがい、ここからだして……!」
「もう泣かなくてだいじょうぶ、いま出してあげるから」
「ほんと? ほんとに……?」
「うん」

 格子越しに縋り付いてくる、愛斗の細くて真っ白な指。喜逸はそれをじっと見つめ、今にも泣きだしそうな顔をした。

「ごめんな、マナト。ごめん……ごめんなさい……」

 こんな悪いことを平気でやれるような子供だから、自分は母親から嫌われているのかもしれない。だから愛斗にだって、嫌われて当然だったのだと思う。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」

 腐りかけの格子ごしに、喜逸は愛斗の指先に縋りながら涙を流した。
 今までずっと堪えていたものが、ここに来て何もかも噴き出したようだった。

 生まれてきてごめんなさい。悪い子でごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
 だからもう殴らないで。酷いこと言わないで。嫌いにならないで。

 ぐじゅぐじゅに腐った、オレンジみたいな濃い(だいだい)。沈みかけの夕陽。

 それを背負った喜逸の泣き顔は、きっと愛斗からは見えていない。だけど愛斗はふいに、格子の向こうにいるのが誰であるかを理解したようだった。

「キイチくん、なの……?」

 喜逸は何も言えなかった。ただ小さくしゃくりを上げながら、「ごめんなさい」とだけ繰り返した。

「キイチくん、なんでそんなにあやまるの? キイチくん、なにかワルいコトしたの?」
「うん……ぜんぶ、ぜんぶオレがわるいんだ」
「なんで? どうして? ボクがキライって、いったから……?」

 すると今度は、愛斗の瞳にもジワジワと涙が浮かんだ。
 これまでも散々泣いただろうに、すっかり腫れて赤くなった目元で、彼はまたひどく泣きだした。

「ごめん、キイチくん……ごめん……キライっていって、ごめんなさい……!」
「ちがう、マナトはなにも悪くないよ……!」

 喜逸はひどく焦りながらも、閂を引き抜いた。

 やっとのことで開かれた扉から、弾かれたように愛斗が飛び出してくる。そして、喜逸にぎゅっとしがみついてきた。それをとっさに受け止める。

 その勢いがあまりにも強かったものだから、二人してぺしゃんと床に座り込んだ。

「キイチくん、なかないで! ボク、キイチくんのことキライじゃないよ! ほんとはちっとも、キライじゃないの!!」
「ッ、……ホント、に?」

 わんわんと声をあげて泣きながら、愛斗は何度もうなずいた。

「だって、しってるもん……キイチくんがやさしいの、ボク、しってるもん」

 抱きしめた身体は、ビックリするくらい熱かった。
 喜逸は震える背中を強く抱き返しながら、またボロボロと涙が溢れて止まらなかった。

 嬉しかった。愛斗に嫌われてない。それが分かっただけで、喜逸はもう十分だった。

 喜逸は愛斗が泣き止むまで、ずっと背中をさすり続けた。
 やがてしゃくりあげる勢いが弱まってきたころ、いつもの小さい子をお世話するお兄さんの顔に戻った喜逸が、愛斗の頭をポンポン撫でた。

「もうおそいから……はやく帰らないと、マナトのお母さんが心配するよ」
「うん……でも、キイチくんは?」
「オレはいいんだ」

 すると愛斗は「やだ!」と言った。

「キイチくん、まだないてるから。キイチくんがなきやむまで、ボクずっとここにいる」
「お、オレもう泣いてないよ」
「ないてるよ。だからボクが、ぎゅってしててあげる。キイチくんがごめんなさいしなくていいように、ボクがずっとまもってあげる」

 そう言って、愛斗は喜逸の肩に顔を埋めながら強くしがみついてきた。

 喜逸はただ呆然とその言葉を受け止める。
 母親ですらそんなこと言ってくれない。リクくんに殴られたり、蹴られたりしてるとき、母親はずっと無視をして、どこか遠くを見ているだけだ。

 愛斗のまっすぐな優しさに、また泣きたくなってきてしまう。
 喜逸はズビビと鼻をすすりながら、そんな愛斗の柔らかな髪に頬ずりをした。

「ありがとう、マナト……」

 この子を守りたい──そんな思いが、喜逸の胸いっぱいに込み上げた。
 ずっと傍にいて、何があっても守るのだと。そのためなら、きっと死ぬのだって怖くない。

「オレも、マナトのことをずっと守るよ。もうコワい思いなんかさせないから」
「じゃあボクたち、これからずっとなかよしだね」

 顔をあげた愛斗が、生えかけの白い前歯を見せながら笑った。
 喜逸はまた泣きたいような気持ちになりながら、うん、と大きくうなずいた。