ボニー・バタフライ・エフェクト

 物心ついた頃から、喜逸は心も身体も生傷が絶えなかった。

 六畳一間のボロアパートの二階。畳も布団もどこか湿っぽくて、タバコと酒の臭いが染み付いている。そこが喜逸の生きる世界だった。

 母はシングルマザーで、夜は派手なドレスと香水に身を包んで仕事へでかける。ホステス、というものをしているらしい。

 機嫌がいいときには頭を撫でたり、インスタントラーメンを作ってくれたりもするが、ひとたび不機嫌のスイッチが入ると、態度は急変してしまう。

 喜逸は彼女にとって、『自分の人生を台無しにしたゴミ』でしかないらしい。

「あんたさえいなければ、私はもっと自由でいられたのに……ッ」
「産まなきゃよかった! 子供なんて邪魔なだけ!」
「あぁなんで産んじゃったんだろう!? あんたを産んでから全部おかしくなった!!」

 ヒステリックに投げつけられる言葉は、幼い喜逸の心を刃物よりも鋭く切り刻む。

 産んでほしいなんて頼んでないのに──そんなこと、口が裂けても言えやしないけど。
 子供心に、母が自分を忌み嫌っていることだけは理解していた。

 そんな生活を送るなか、いつからか部屋に金髪の若い男が出入りするようになった。母と同じく、酒と煙草の臭いをまとわせた無精髭の男だった。
 母は男のことを、「リクくん」と甘ったるい声で呼んでいた。

 リクくんは母のヒステリーに便乗し、喜逸に暴力をふるうことがあった。

 顔や腕などの目立つ場所は避けて、肩や背中を蹴り、殴り、時には切り傷を量産する。煙草の火を押し付けられることもあった。

 殴られている間、喜逸は頭の中でひたすら数を数えることにしていた。
 痛みに気を取られると、自分が壊れてしまうことが分かっていたから。

 天井のシミや、外を走る車のエンジン音へと意識を集中させて、心をどこか遠くに飛ばすこともあった。

 その間、母は煙草と缶ビールを手にぼうっと窓の外を見ているだけだった。
 母もまた、現実を見ていない。喜逸にはそれが、なんとなく分かっていた。

 昼夜を問わず、母はリクくんと粗末な布団で折り重なって、獣のような声を発することがあった。そんなとき、喜逸はアパートの外階段に座って空を眺めて過ごす。

 鉄の階段は、冬には骨まで凍るほど冷たく、夏には刺すような熱気を孕んでいた。それでもあの部屋の生臭い空気よりは、ずっとマシに思えるから不思議だった。

 そんな絶望的な環境下で、喜逸は他人の顔色を伺う子供になっていった。

 家の中には居場所がなくて、自分はただの邪魔なお荷物だ。だからせめて外では誰からも好かれるよう、優しく賢く、親切に振る舞うよう努力した。

 そうやって『いい子』を演じて笑っているときだけは、少しだけ心が楽になるから。

 殴られたり、蹴られたりするのは家の中だけで十分だった。外でくらい、怖い思いも痛い思いもしたくない。誰かに好きになってほしかった。嫌われるのが怖かった。

 だから必死でもがいていたのに。

 愛斗の『キライ』は、喜逸の心をズタズタに打ちのめした。
 自分のなにが悪いのか、どんなに考えても分からなかった。

 どうして、どうして、どうして──?

 オレってそんなに悪い子なの?
 生まれてきただけで悪いことなの?
 同じ子供なのに、よその子たちと、なにが違うの?

 許せなかった。こんなにがんばっているのに。優しくしようとしてるのに。
 自分より小さいくせに、そんな愛斗を怖いと思った。心がバラバラに砕けそうだった。

 本当は『いい子』を演じることにも、少し疲れていたのかもしれない。