ボニー・バタフライ・エフェクト

「ぅ……うぅ……おかあさん……おかあさぁん……」

 朽ちた神社の社の中で、幼い愛斗は膝を抱えて泣いていた。

 腐りかけの格子扉の隙間から、どろりとした色濃い夕陽が差している。
 はやくお帰りと急かすようなカラスの声は、不安に押し潰された愛斗の心をより追いつめていくだけで、なんの慰めにもなりはしない。

「たすけて……こわいよぉ、おかぁさん……っ」

 愛斗はもうずっと、ここで母を呼びながら泣き続けていた。
 ただみんなとかくれんぼをして遊んでいただけなのに。ここから出られなくなって、もうどれくらい経つだろう。

 隠れたときには、鍵なんかかかっていなかった。だけど気づいたときには、扉がピッタリと閉じたまま開かなくなっていた。愛斗は閉じ込められてしまったのだ。

「うぅぅ……っ、わあぁぁん……ッ! おかあさんっ、おかぁさぁん!!」

 愛斗は力を振り絞り、わぁっと大きな泣き声をあげた。
 ほこりっぽい社の中を、少しずつ闇が飲み込もうとしている。いつしかカラスの声も聞こえなくなっていた。

 もうここから出られないのかもしれない。このままずっと一人ぼっちで、大好きなお母さんにも、友達にも、二度と会えないまま死んでしまうのかもしれない──そう思うと、怖くて怖くてしかたがなかった。

──ガタンッ

 そのときだった。
 ピクリともしなかった格子扉が、大きく揺れて音を立てた。

「マナト!」

 涙をいっぱいに浮かべた瞳で、扉を見上げた。誰かが息を切らしながら、格子扉にしがみついてこちらを見ている。だけど色濃い夕焼けを背負っていて、その顔はよく見えない。
 子供の形をした影が何か言っているけれど、声すらうまく聞き取れなかった。

 けれど愛斗は、その闇に光を見たような気がした。
 胸が熱くなって、また涙が溢れた。

「もう泣かなくてだいじょうぶ、いま出してあげるから」

 ああ、よかった──ずっとこのまま、一人ぼっちなのだと思っていた。すごくすごく、怖かった。

 だけどもう大丈夫。もうなにも怖くない。だって見つけてくれたから。ちゃんと見つけてくれたから。だから。

「……と、……まな……、と」

──ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。

「愛斗、おい愛斗ってば。いい加減起きなって」
「……ふぁ?」

 意識の外側から聞こえてきた声に、愛斗はパチリと目を開けた。

 そこには菊川喜逸(きくかわきいち)の見慣れた呆れ顔がある。無造作に流れる黒髪に、白皙の美貌。赤いネクタイをきっちり締めたブレザー姿の彼は、ベッドに手を付いて愛斗の顔を見下ろしている。

「やっと起きた」
「きぃち……? あれ……かくれんぼは……?」
「寝ぼけてないで、早く起きないと遅刻するよ」
「ちこ、く……? えっ、もう朝!?」

 飛び起きてスマホを見ると、時刻はとうに朝食を済ませていなければならない頃だった。
 窓からは朝の白い光が差し、小鳥がチュンチュンと元気にさえずる声がしている。

「う、嘘!? ちゃんとアラームかけたのに!?」
「いつも通り、止めて二度寝したんだろ」
「うえぇ! なんでもっと早くに起こしてくんないんだよ!?」

 大慌てでベッドから飛び出した愛斗に、喜逸は「何度も起こしたよ」とため息交じりに言いながら、机の上に散らばっている教科書やノートを学生カバンに詰めている。もちろん、それらは愛斗のものである。

 細かな支度はすっかり喜逸に任せ、愛斗は半泣きでバタバタと身支度した。
 洗面所で洗顔と歯磨きを雑に済ませ、ネクタイもまともに締めないままキッチンでパンを口に詰め込む頃、喜逸が愛斗のカバンとブレザーを持って下りてくる。

「いつも起こしてもらってごめんなさいね、喜逸くん」

 物凄い勢いでワタワタと朝食をとる愛斗を尻目に、母がエプロンで手を拭きながら申し訳無さそうに喜逸を見た。

 彼はこうして毎朝のように愛斗を迎えにやってきて、ついでに朝の支度も手伝っている。
 愛斗の家は母子二人暮らしで、母は仕事を持っているため多忙な身だ。愛斗が小さな頃から、喜逸には何かと世話になってばかりだった。

「オレは別に。好きでやってることですから」
「喜逸くんには頭が上がらないわ。愛斗、あなたももう少ししっかりしてちょうだい」
「母さん牛乳おかわり! もっとちょうだい!」
「もう……あなたって子は……」

 口の周りにパンくずをつけ、空のグラスをグイッと差し出す愛斗を見て、母が呆れを通り越した様子でため息をついた。