ボニー・バタフライ・エフェクト

「喜逸が? なんで?」

 喜逸はいつだって大人で、完璧で、一人で何だってこなせるものと思っていたから。
 愛斗のまん丸の瞳を見て、彼は眉を下げながら苦笑する。

「愛斗が思うほど、オレは出来た人間じゃないよ。愛斗がいなかったら、何もかもどうでもよくて、学校すらとっくにやめてるかも」
「うそだぁ」
「本当だよ。愛斗がいなきゃ、生きてる意味なんてない」

 なんでもないことのように紡がれた言葉の重たさに、返す言葉が見つからなかった。
 喜逸は困り眉の笑顔を浮かべ、愛斗の濡れた頬を優しくなぞる。

「だから、好きって言ってもらえて……嬉しかった」
「……っ!」

 愛斗の顔が一気に火照る。踊り場での必死の叫びを思い出して、逃げだしたいほどの羞恥が襲ってきた。
 あんな形で想いを告げるつもりなんかなかったのに。つい勢いで告白してしまった。

 けれどそれ以上に込み上げる罪悪感から、愛斗は眉根を寄せながらうつむいた。

「……ボク、本当に喜逸のこと好きでいいのかな」
「どうして?」
「だってボク、喜逸のこと疑ったんだよ。突っぱねて、酷いことも言った。今までだってずっと、迷惑ばっかりかけちゃって……」

 メガネくんが言っていたことは本当だ。愛斗は喜逸に守られて、大切にされることに少しも疑問を抱いていなかった。幼い頃から、ずっとそれが当たり前だったから。

 これまで喜逸のために、何か一つでも努力しようと考えたことなど、あっただろうか。

「それなのに喜逸は、どうしてこんなボクなんかのこと……」
「……愛斗はさ、オレが毎朝迎えに行って、朝の支度を手伝ったり、困ったことがあるといつも助けてくれるから、だからオレのこと好きになったの?」
「違うよ! そんなんじゃ……っ」

 反射的に否定して、それからすぐにまたうつむいた。
 じゃあ、自分はどうしてこれほどまでに彼に惹かれているのか。

 愛斗の脳裏に、幼い日の記憶が蘇る。

 夕暮れの神社。閉じ込められた恐怖。カラスの鳴き声──。
 世界から見捨てられたように取り残された愛斗を、喜逸が助けてくれたこと。

「……小さい頃、みんなでかくれんぼをしたでしょ?」

 愛斗は過去の記憶をなぞりながら、ポツリポツリと語り始めた。

「ボクはあのとき、神社の建物に隠れてて」
「うん」
「だけど、扉が開かなくなっちゃって……」

 入ったときには、鍵なんかかかっていなかった。扉の建付けが悪かったわけでもない。それなのに、どうしてか突然、固く閉ざされてしまった。

 それは誰かが、故意に閉じ込めでもしない限り──。

 なぜだか急に、モヤがかかったように頭がぼうっとしてきた。目眩がして、喜逸の肩にもたれかかる。

「そのあと……そう、そのあと……喜逸が来てくれて」
「うん。それで?」

 喜逸の指先が、優しく愛斗の髪をくすぐる。

「それで……」

 格子扉にしがみつき、こちらを覗き込む黒い影。幼い喜逸のシルエット。
 彼はあのとき、なんと言ったのだったか。
 自分はそれに、なんと答えたんだっけ。

──ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。

 思いだせない。

 だけど、これだけは確かだ。
 彼は閉ざされた扉を容易く開けて、泣きじゃくる愛斗を抱きしめてくれた。

 あの温もりだけは、絶対にウソじゃない。

「あのとき、どうしてかボクは、ボクには喜逸しかいないって……そう思ったんだ」

 世界中のどこにいたって、喜逸だけは愛斗のことを見つけてくれる。もう大丈夫。なにも心配はないのだという絶対的な信頼と安心が、幼い愛斗の胸を満たした。

 それまでの愛斗にとって、喜逸は何人かいる遊び友達のうちの一人でしかなかったはずなのに。いや、むしろ──。

──ボク、キミのこと『✕✕✕』。

「そっか」

 喜逸は短く言って、懐かしそうに目を細めた。

「愛斗、覚えてるか? 初めて会ったとき、愛斗がオレに言った言葉」
「え?」
「神社でのことがあるより、ずっと前。まだ、そこまで仲良くなかった頃」
「覚えてない。ボク、何か言ったっけ?」

 喜逸の肩から顔を上げ、愛斗はこてん、と首を傾げた。

 いつの間にか、頭の中の不思議なモヤは晴れていた。にも関わらず、まったく思いだすことができなかった。5歳かそこらの記憶なんて、そんなものだろう。
 けれどこうしてわざわざ問いかけてくるということは、何か重要なことに違いない。

 喜逸はいつもの、あのからかうような目をして口角を上げる。

「覚えてないなら、別にいい」
「な、なんだよそれ! 気になるじゃん、教えてよ!」

 身を乗り出して詰め寄った、その時だった。

 柔らかな唇の感触が、愛斗の言葉を封じた。
 一瞬、何が起きたのか分からず、思考が真っ白に染まる。

「……ッ!?」

 唇はすぐに離れていった。
 鼻先が触れ合うほどの至近距離で、喜逸は蕩けるような甘い瞳で微笑んでいる。

「好きだよ、愛斗……オレと結婚しよう?」
「ッ、~~!!」

 火を噴きそうなほど顔が熱くて、まともに声が出なかった。

 結婚──ずっと彼が口にしてきた、いつもの決まり文句。鉄板のネタ。
 少し前までは、それを聞くたびに『できない約束』を突きつけられているようで、胸がチクチクと痛んだ。だけど、今は違う。

 愛斗は恥ずかしさに耐えるようにぎゅっと目を閉じたあと、上目遣いで彼を見た。

「……いいよ。してあげる」

 遠くで響くチャイムの音が、世界の終わりと始まりを告げているようだった。

──キライって言って、ごめんなさい。