ボニー・バタフライ・エフェクト

「喜逸! 着替え持ってきたよ!」

 愛斗は息を切らして、保健室に駆け込んだ。

 手には喜逸の教室からひったくるように持ってきた体操着の袋がある。彼のブレザーとワイシャツは、見るに堪えないほど赤黒く汚れてしまったから。

 保健室には先生もおらず、他に利用している生徒の姿もない。昼時の喧騒だけが、遠くから聞こえてくるだけだった。

 中央の長椅子では、上半身を裸にした喜逸が左腕の傷をガーゼとピンセットで消毒している。薬液の香りが、ツンと鼻孔を刺激した。

「……っ」

 喜逸の白い肌に刻まれた、あまりにも鮮やかで深い傷。愛斗は思わず息をのむ。
 血はあらかた拭われていたが、パックリと開いたその痕跡は、愛斗の胸を抉るには十分すぎるほどの鋭さを持っていた。

「ありがとう、助かるよ」

 喜逸がいつも通りの穏やかな声で、体操着の袋を受け取ろうとする。愛斗はその手を遮るようにして、彼の隣に勢いよく座り込んだ。

「ボクがやる……喜逸はそのまま座ってて」

 袋はすぐ脇に置き、喜逸の手から一式を奪う。
 震える手で消毒液を浸したガーゼを押し当てると、喜逸が「イタタ」と小さく声を漏らして苦笑した。

「愛斗、ちょっと乱暴かも」
「ご、ごめ……でも、手が震えちゃって……」

 出血は止まっているが、あまりにも痛々しいその刺し傷に、愛斗の視界が涙で滲む。

 この傷を負うべきだったのは自分だ。自分がもっとしっかりしていれば、喜逸をこんな目に合わせずに済んだのに。自責の念が、下唇を噛む力に変わる。

 愛斗は溢れそうになる涙をこらえ、傷口にしっかりと薬を塗り込んだ。その上からガーゼを当てて、これでもかというほど包帯を巻きつける。

「……できた」
「ありがとう」
「病院、本当に行かなくていいの?」

 あのあとすぐ、泣き崩れるメガネくんを他所に、愛斗は救急車を呼ぼうとした。けれど大事にするのは面倒だと言って、喜逸がそれを拒んだのだ。

 本来なら警察沙汰でもあるし、これほどの傷を負いながら、たかだか学校の保健室で手当を済ませてしまうなんて。普通ならありえないことだと思うのだが。

「大丈夫だって。見た目ほど酷くはないんだ。ナイフが小型で助かった。それに、これくらい慣れっこなんだよ、オレは」

 喜逸が袋から取り出したジャージの上を羽織り、ジッパーを上げながら言った。

「慣れっこって……?」

 彼がさらりと漏らした言葉に、愛斗は嫌な引っ掛かりを覚えた。
 そしてよくよく見てみれば、喜逸の身体には他にもうっすらと傷痕が残っていることに気がついた。

 肩や脇腹。もしかしたら、もっと他にも。切り傷だとか、火傷のような痕がある。
 どれもかなり古いもののようで、目を凝らさなければ見逃してしまう程度には、薄くなっているけれど──。

「ねぇ喜逸……それって……?」

 しかし疑問を口にする前に、喜逸の右手が愛斗の頬に伸ばされる。

「それより愛斗は? どこか怪我してない?」

 心配そうに顔を覗き込まれ、また少し泣きたくなった。こんなときぐらい、自分の心配をすればいいのに。

「ボクは平気。どこも怪我なんかしてないよ」

 さりげなく喜逸の手を遠ざけ、目を逸らす。そのままうつむいてしまった愛斗の横顔を、喜逸がじっと見つめてくる。

「愛斗?」
「……ボクのせいだ」

 込み上げる後悔に、膝の上で拳を握った。

「ボクがもっと上手く立ち回ってれば、喜逸にこんな怪我させずに済んだのに……」

 ポタポタと、堪えきれなくなった悔し涙が握った拳の上に落ちる。

「愛斗……」
「もしこれが心臓だったら……今ごろ喜逸は死んでたかもしれない……そう思うと……」
「いいよ。愛斗が無事なら、それでいい」
「よくない! ちっともよくないよ!」

 すると喜逸の右手が、愛斗の肩を引き寄せた。その温もりを感じた途端、愛斗の感情はいよいよ決壊した。喜逸の首筋に顔を埋め、子供のように泣きじゃくってしまう。

「ボク……ッ、ボク駄目だった……喜逸がいなくても、ちゃんと何でもできるようにって……自分でなんとかしようって、そう思ったのに……なのに、やっぱり駄目だった……! ボク、喜逸がいないと……っ」

 情けなくて、申し訳なくて、言葉が途切れ途切れになる。
 すると、頭上に喜逸の低く優しい声が降ってきた。

「……オレもだよ」
「え……?」
「オレも同じ。愛斗がいないと、きっとオレは生きていけない」

 その言葉に、愛斗は思わずポカンとして顔を上げた。