ボニー・バタフライ・エフェクト

「傑作だよ、本当に! 可愛い可愛い愛斗くん? 僕の言うこと、ぜーんぶ信じちゃってさ! 君ってほんっとうに、バカで情けないガキだよねぇ!!」

 愛斗は唇をきつく噛み締めた。
 踊り場には吐き気がするほど醜悪な憎悪が満ち満ちている。

「ストーカーしてたのは本当だよ? 僕はずっと君を見てたんだ。家の前にも行った。写真を撮って切り刻んで、ポストに入れたのも私。靴にガラスを入れたのも、ズタズタにしたのも、ぜんぶぜんぶ僕が……私がやったことだよ!」

 彼が言葉を吐きだすたびに、血が冷えていくような感覚があった。

「全部アンタを菊川先輩から引き離すためだった。アンタに先輩の隣にいる資格はない。アンタには分からないんだ! 先輩がどれほど特別な人か……アンタはただ幼馴染ってだけで、なんの努力もせずに先輩の隣に居座って……反吐が出るよ!!」

 愛斗は唇を噛み締める。
 言葉のナイフは、確実に急所を狙って突き立てられていた。愛斗がもっとも言われたくなかったこと。自分でも嫌気が差していたこと。

 だからこのままでは駄目だと思っていた。
 だから一人でなんとかしようとした。
 だけど、結果はこれだ。

 喜逸に守ってもらった。怪我をさせた。自分のせいで、彼は傷つき血を流した。一歩間違えれば、死んでいたかもしれない。

 打ちのめされて何も言えなくなった愛斗を鼻で笑ってから、メガネくんは今度は喜逸に縋るような目を向けた。

「ねぇ、菊川先輩……覚えてますよね? 私のこと……先輩と想いあった日のこと、私ずっと忘れてなかった。ハンカチ、ずっと大事にしてたんです。リボンにして、髪に結んで……可愛いって、褒めてくれましたよね?」

 喜逸は黙っていた。ただ静かに、メガネくんを見下ろしている。

「たくさんたくさん、愛し合いましたよね? 約束してくれましたよね? 高校を卒業したら、結婚するって! 一緒に赤ちゃん育てようって!」

 泣き笑いの表情で、メガネくんは自分の下腹に両手で触れた。

 愛斗はあの気味の悪い手紙の内容を思いだした。子供が宿っていると書かれていた。あれもまた彼の行き過ぎた妄想にすぎないのだと思うと、全身にゾワゾワと怖気が立った。

「先輩のために、私、女の子になったんです。先輩の隣に立っても恥ずかしくないように。先輩にもっと愛してもらえるように。ずっとずっと、頑張ってきたの……!」

 メガネくんはよろよろと立ち上がり、喜逸へ向かって両手を伸ばしながら一歩踏みだす。

「でも、そいつは何もしてない。何もかも当たり前だって思ってる。先輩の優しさにつけこんで、つきまとって……先輩が迷惑してるってこと、気づきもしないで! そんなやつに騙されないで! 私の方が、絶対に先輩を幸せにできるから! だから──」

「ふざけんな」

 メガネくんの言葉を遮ったのは、怒りに震える愛斗の声だった。

 愛斗はズカズカとメガネくんへ向かって歩きだしていた。自分でも気がつかないうちに、身体が動いていた。

「ふざけんなよ、お前……!!」

 渾身の力で、その顔に拳を叩きつけた。

「うぐ……ッ!!」

 メガネくんの身体がよろめき、壁に叩きつけられる。

「言われなくたって、ボクがダメな奴だってことはボクが一番分かってる! 喜逸に迷惑ばっかりかけてることも……だけど……っ!」

 殴った拳が痛かった。生まれて初めて、人を殴った。多分、こんなに怒ったのも初めてだと思う。目の奥が熱くて、視界が歪む。

「ボクだって喜逸が好きだ! 結婚できなくたって、赤ちゃんができなくたって、それでも好きになっちゃったんだよ! だから君の気持ちも、否定はしない!」

 気を抜くと、声がひっくり返ってしまいそうだった。
 感情が抑えきれずに、涙が溢れる。

「でも、だからって人を傷つけていい理由にはならないだろ!? お前がやったことは、何もかも最低で、最悪だよ!!」

 無人の校舎に、愛斗のどこか拙い叫びが響き渡る。急に大声を出したものだから、喉がヒリヒリと痛んでいた。それでも思いをぶつけずにはいられない。

 彼が愛斗を許さないと言うのなら、そっくりそのまま返してやりたかった。

「ボクはお前のこと、絶対に許さない!!」

 頬を腫らしたメガネくんは、壁にもたれたままズルズルと床へ崩れ落ちていく。

「愛斗」

 そのとき、愛斗の肩にそっと手が置かれた。
 涙に濡れた瞳を向けると、喜逸が微笑んでいた。ネクタイを巻きつけた腕から、じわりと血が滲んでいる。それなのに彼はいつもと同じ、優しげな瞳を愛斗に向けた。

「喜逸……」

 彼は「うん」と安心させるようにうなずき、そのまま愛斗の肩を引き寄せた。
 そして床に崩れ落ちたメガネくんへ視線を向けて、静かに口を開く。

「例え君が本当に女の子だったとしても、オレは君を選ばなかったよ」

 低く、冷たく、それでもどこか穏やかさを含んだ声だった。

「死ぬまで添い遂げたい相手は、もうずっと昔から決めてるんだ」

 愛斗は喜逸を見上げた。
 喜逸はさらに強く愛斗の肩を引き寄せて、自分の方へ抱き込んだ。

「二度とオレの愛斗に手を出すな。オレから君に言えるのはそれだけだ」

 愛斗の頬が、喜逸の胸に押しつけられる。
 ネクタイを失った首元から、喜逸のシャツ越しに、確かな温もりが伝わってきた。

 どうしようもなく込み上げた安堵に胸がいっぱいになって、愛斗は何も言えなかった。

「う……ううぅぅぅ……っ、……うあぁぁぁ……ッ!!」

 踊り場の冷たい床に、メガネくんの涙がポツポツとシミを作った。
 こらえようとする様子もなく、子供みたいに声をあげて、ただひたすら泣いていた。

 その泣き声だけが、旧校舎の薄暗い踊り場に、長いあいだ響き渡っていた。