ボニー・バタフライ・エフェクト

 愛斗はただ呆然と、目の前の光景を見つめていた。

 乱れた黒髪。擦れた泣きぼくろの跡。脂汗で徐々に崩れつつあるメイク。足元にぐしゃりと丸まっている、ピンクブラウンのカツラ。

「なんで、君が……?」

 問いかける声が震えてしまう。信じられなかった。
 あの白いリボンの少女と、メガネくんが同一人物だったなんて。

 メガネくんは忙しなく視線をさまよわせ、ナイフの柄から手を離すと、覚束ない足取りで後退していく。やがてその背中が、屋上へ続く扉にぶつかった。スカートから覗く白い両足が、子鹿のようにブルブルと震えていた。

「違う、違う……こんなはずじゃなかった……先輩を、傷つけるつもりなんか……私じゃない、これは私じゃない、僕は、僕が……」

 大粒の涙を流し、彼はブツブツと呟いた。一層メイクが落ちていく。付けまつ毛も剥がれ落ち、顔がドロドロに崩れてひどい有様になっていた。
 その異様な光景に、愛斗は言葉を失った。

 するとそんな愛斗を尻目に、喜逸が躊躇なく自分の腕から小型ナイフを引き抜いた。

「喜逸……ッ!?」

 愛斗は喜逸に駆け寄り、その身体を支えるようにしがみついた。
 ナイフが突き刺さっていた箇所から、堰を切ったように血が溢れ、ブレザーから覗くワイシャツの袖口を赤黒く染めていく。

 それが床にぽたぽたと垂れ落ちていくのを見て、愛斗は悲鳴に近い声をあげた。

「あぁ……喜逸、喜逸……!!」
「大丈夫だって。意外と大した傷じゃない」

 彼はなんでもないように言い放ち、カランと音を立ててナイフを床に放った。
 薄汚れたタイルに、血が飛び散る。その光景にすら、愛斗はいっそう青褪めた。

「ぜんぜん大したことなくないだろ!? なんでそんな平気な顔ができるんだ!? 血がいっぱい出てるじゃん!!」

 泣きそうになりながら喚く愛斗に、喜逸は困ったように苦笑した。彼は制服のネクタイを緩めて引き抜くと、しっかりと口に咥えながら傷口にきつく巻きつけていく。
 愛斗はただ震えながら、その様子を見つめることしかできない。

 するとドサリ、という音が聞こえてハッとした。

 音の方向に視線をやると、メガネくんが力なくその場に崩れ落ちていた。
 リボンがついたカツラと、血に濡れたナイフを見下ろし、彼は両手を床についていた。肩が小刻みに震えている。

「どうしてこんなことをしたんだ」

 愛斗は絞り出すように言った。怒りと恐怖と、まだ収まらない動揺がいっぺんに押し寄せてきて、声が不格好に震えてしまう。それでもなお、喉から必死で絞り出した。

「どうして、こんなことを……!」

 床を見つめたまま、メガネくんは動かない。
 しかしやがて震える息の間から、かすれた笑い声が漏れ聞こえてきた。

「……どうして、だって?」

 顔をあげた彼の表情に、愛斗は息を呑んだ。
 泣いているのか笑っているのか、もはや判別のつかない、歪みきった顔をしていた。

「アンタのせいでしょ!! ぜんぶぜんぶ、アンタのぉ!!」

 ひび割れたような、悲痛な声だった。

「私は彼と愛し合っていただけなのに! ただ、幸せになりたかっただけなのに……!!」

 怒り、憎しみ、嫉妬と悪意──。

 乱れた黒髪の隙間から、それらの感情が入り混じった瞳が愛斗を貫く。

「アンタさえいなければ、私たちは幸せになれたのに……! アンタが全部、なにもかもぶち壊したんだ!!」
「っ……」

 叩きつけられた激しい憎悪に、愛斗は一歩退いた。

「じゃあ……じゃあボクへの告白は何だったの? ボクのことが好きだって、言ってくれたのは? あんなに心配してくれたのも……」
「ぜんぶ嘘に決まってんだろ! バァーカ!!」

 すっかり開き直ったメガネくんは、ケラケラと声をあげて笑いだした。