ボニー・バタフライ・エフェクト

 彼と恋に落ちたのは、一年前の春だった。

 僕が高校に入学して、新しい生活をスタートさせたばかりの頃。
 うららかな陽気にあてられることもなく、僕はただ冴えない顔をして、枯れ草のような日々を過ごすだけだった。

 勉強には飽き飽きしていたし、気の合う友達は一人もいない。地味な僕は誰からも見向きもされず、いつまでたっても周りと馴染めないままでいた。

 そんなときに出会ったのが彼だった。

 彼は校門脇にある大きなケヤキの木の下で、何人かの女子生徒に囲まれていた。ひとりひとりの声に耳を傾けて、優しそうに微笑みながら時おり相槌を打っていた。

 二年生にはファンクラブができてしまうくらいカッコいい先輩がいて、女の子たちの間で取り合いになっているって噂は聞いていた。

 きっとあの人のことなんだろうなって、そんなことを思いながらふと足を止め、気づけば目が離せなくなっていた。なんて綺麗な笑い方をする人だろう。

 誰かに見惚れるなんて初めての経験で、僕は夢見心地でそこから動けなくなっていた。

 そうしたら、彼と目が合った。

 それはほんの一瞬だったけど、黒曜石みたいな綺麗な瞳が、確かに僕の姿を捕えた。
 まるで時が止まったみたいだった。その些細な一瞬が、永遠にも感じられるほど。

 あの瞬間、僕は恋に落ちてしまった。

 ほんの一瞬、目が合った。
 たったそれだけのことで、世界のすべてが変わった気がした。

 彼は一つ年上の、二年生の先輩だった。
 女の子に凄く人気があって、勉強もスポーツも万能で、非の打ち所がない人気者。

 そんなスーパーマンみたいな人が、僕なんかに見向きもするはずがない。自分が釣り合うとも思っていなかった。
 だから遠くから、そっと見守るだけ。それだけでよかったのに。

 運命のときは、とつぜん足音もなくやってきた。

 それは放課後のことだった。
 僕は掃除中、教室の花瓶を割って指を切ってしまった。急いで保健室に行ったけど、鍵がかかっていて先生もいないようだった。

 しょうがなく戻ろうとしたとき、彼が──菊川先輩が、その場を通りかかった。

「指、切ったの?」

 男なのに、どこか透明感のある声だった。春風のように優しくて、澄んだ空のように爽やかで。
 僕は言葉を失って、動けなかった。

「ああ、血が出てる。可哀想に」

 菊川先輩は僕の手を取り、傷口から溢れる血を見て眉をひそめた。
 彼の手が、僕の手に触れている。傷の痛みなどどうでもよくなるくらい、触れられている場所が燃えるように熱かった。

「保健室、開いてない?」

 声がうまく出せず、僕はただこくこくと頷いた。

「ちょっと待ってな」

 先輩はブレザーのポケットから白いハンカチを取り出すと、僕の手にそっと握らせる。

 清潔そうな白いハンカチに、どんどん血が染み込んでいく。まるで先輩を穢してしまったみたいで、僕は震えながら青褪めた。

「ぁ、あ……、ハンカチ、あの、弁償……っ」
「いいってそんなの。すぐに鍵を開けてもらえるように、先生を呼んでくるから。君はここで待っていて」
「あっ、あの……!」

 先輩は僕を安心させるみたいに微笑んで、職員室の方へ行ってしまった。

 すぐに先生が鍵を持って駆けつけてくれたが、先輩は一緒じゃなかった。先生に声がけをしたあと、すぐに帰ってしまったらしい。

 保健室で手当を受けながら、僕はずっと熱に浮かされたままだった。血で汚れてしまったハンカチを、強く胸に押し当てながら。

 そして、理解してしまった。

 僕はずっと先輩が好きだった。ただ見つめているだけで十分だった。
 けれど、それはきっと先輩も同じだったのだろう。あの日、あのとき、ケヤキの下で目が合った。そのときから、僕らの恋は始まっていた。

 あの瞬間、先輩もまた、僕のことを──。

 だってそうじゃなきゃ、あんなふうに優しくしてくれるわけがない。地味で目立たない、どこにでもいるような一年生の後輩なんかに。

 この白いハンカチは、僕の思いに対する先輩からの答えなのだ。
 純白を血で染め上げるほど、僕らの恋は深くて熱い。先輩は、そう言っているんだ。

 目が合ったあの瞬間、あれは僕らにとっての永遠だった。

 たったそれだけの些細な出来事が、世界を変えた。
 小さな蝶の羽ばたきが、やがて竜巻を起こすみたいに!

 ああ、なんて幸せなことだろう!

 先輩を取り囲む女子たちが知ったら、嫉妬に狂って死んでしまうかもしれない。
 僕は優越感に酔い痴れた。ファンクラブができるほど人気の先輩。その心を、僕が独占しているなんて!

 だけど、愛されるためには相応の努力が必要であることを、僕は知っている。ただ指を咥えているだけでは駄目なんだ。先輩の隣にいて、恥ずかしくない自分にならなくては。

 僕は帰宅すると、今では物置になっている姉の部屋へ入り込んだ。
 姉は昨年、遠くに嫁いで家を出ている。結婚式で見た、姉の白いドレス姿が忘れられない。僕もいつか、あんなふうに先輩と──。

「……あった」

 すっかりほこりをかぶっている引き出しから、姉が高校時代に着ていた制服を引っ張り出した。今とデザインは変わらない。赤いネクタイに、紺のブレザーとプリーツスカート。

 僕はそれを自室へ持ち込み、すぐに着替えた。姿見の前に立って、女子の制服に身を包む僕の姿は、まるで化粧っ気のない女の子のようだった。

 そう、僕は女の子。女の子になる。先輩好みの女の子に。学校で一番の美少女に。
 嫉妬することすらバカバカしいくらい、可愛い女の子に。先輩の期待通りに。

 母の化粧道具をこっそり拝借し、メイクの勉強を始めた。
 ネットで調べて、熱心に研究した。少しずつ手慣れてきた頃、貯め込んでいたお小遣いで、自分専用のメイク道具を揃えた。

 研究する過程で、泣きぼくろは顔の個性を印象付けることを知った。

 リキッドアイライナーで、右の目元に小さな黒い点を描いた。可愛かった。セクシーで、どこかアンニュイで。先輩に似合いの女の子の顔が、そこにはあった。

 ピンクブラウンのウィッグも買い、先輩にもらったハンカチをリボンに見立て、髪をまとめた。スカートは膝丈で。先輩は、下品な女は好まない。
 可愛い可愛い、女子高生。姿見の前で微笑んでいる、可憐な美少女。

 こうして僕は──『私』は、生まれた。

「ねぇ、似合う?」

 ふわりとスカートを揺らして、私は姿見越しに問いかけてみた。
 すると『彼』は答えてくれた。

──よく似合うよ。思った通り、リボンも可愛い。

「ふふっ、嬉しい」

 幸せだった。学校では他の女子たちが邪魔で、なかなか二人きりにはなれないけれど。

 この部屋での秘密の逢瀬は、私たちだけの大切な時間だった。何度も何度も、愛を確かめあった。今はこれで十分──そう思っていたのに。

 目が合って、互いに恋に落ちたあの日から、一年が過ぎた頃。
 先輩の隣をまるで当たり前のように、『アイツ』が独占するようになるまでは。