ボニー・バタフライ・エフェクト

 それでもなお納得がいかず、愛斗は他のクラスへも足を運んだ。
 しかしどこへ行っても、誰に聞いても、返ってくる答えは同じだった。

──知らない。見たことない。そんな子、いたっけ?

 誰一人として、心当たりがないと言う。
 念のため、白リボンの女の存在も含めて教師にも聞いてみたが、結果は同じだった。

(……そんなバカなことってある?)

 なら、自分がこれまで見てきたものはなんだったのか。
 早苗の言う通り、幻でも見ていたというのだろうか。

 ぐるぐると頭が回る。足元がふわふわとして、現実感が薄れていくような気がした。

(ボク、頭がおかしくなっちゃったのかな)

 夢と現実の境目が、どこにあるのか分からなくなりそうだった。


 *


 昼休みになると、愛斗は旧校舎へ向かうことにした。

 喜逸と話をしなければならない。謝らなければならない。
 自分の正気を疑うほどの状況にあっても、それだけはやるべきことだと理解していた。

 生徒たちが行き交う廊下を歩きながら、愛斗はひたすら頭の中で喜逸にかける言葉を組み立てる。なんと言えばいいのか。どこから話せばいいのか。何が起こっているのか。

 けれど上手くまとまらない。間違いだらけのパズルのピースを、ただイタズラにいじくり回しているみたいに。

 そのときだった。

 廊下の奥に、見覚えのある後ろ姿が見えた。
 柔らかそうなピンクブラウンの長い髪。純白のリボン。膝丈のスカートと、華奢なブレザーの背中。

(あの子だ……!)

 愛斗はとっさに息を呑んだ。全身に電気のような緊張と興奮が走る。

(やっぱりいるんじゃん!!)

 間違いない。彼女は確かに存在する人物だったのだ。
 白いリボンを揺らし、その後姿は廊下の角へと吸い込まれるように消えていく。

「待って!」

 逃がしてはいけないと、愛斗はその場から駆けだした。
 昼休みの浮かれた空気の中、他の生徒にぶつかりながらもひたすら追いかけていく。

 彼女は決して振り向くことなく、どんどん先へと進んでいった。白いリボンがふわりふわりと揺らめくさまが、まるで掴みどころのない蝶のようだった。

 女は校舎の出口を抜けて、渡り廊下を通って旧校舎へと入っていく。

 誘い込まれているのかもしれない。
 得体の知れないバケモノが、大きく口を開けながら待つその棲家へ。

 ふいに込み上げる不安と恐怖に、足が一瞬、止まりそうになる。けれどありったけの勇気をかき集め、愛斗はその背を追いかけ続けた。

 旧校舎に入り、薄暗い廊下を抜け、ほこりっぽい階段を駆け上がる。上へ、上へと。息を切らして。

 やがて屋上へと続く扉のある踊り場で、ようやく彼女に追いついた。
 女はこちらに背を向けて、ただ静かに佇んでいる。
 静まり返った空間に、愛斗の乱れた呼吸だけがやけに大きく響き渡っていた。

「……やっと、会えたね」

 膝に手をつき、肩を上下させながら、愛斗は彼女の背中を見据えると言った。

「探してたんだ、君のこと。ちゃんと、話がしたいと思って」

 愛斗の言葉に、彼女の肩が小さく揺れた。

 長い髪とリボンを揺らし、ゆっくりと、ゆっくりと身体がこちらに向けられる。

 豊かなピンクブラウンが、薄暗い踊り場の中でもやわらかく光を反射していた。
 右の目元には、あの泣きぼくろ。長い睫毛に縁取られた大きな瞳が、静かに愛斗を見つめてくる。

 振り返った少女は、記憶していたよりもずっと可憐で美しかった。

「君みたいな子が、どうしてあんなことをしたんだ?」

 声を震わせながら、愛斗は続けた。

「靴の中にガラスを入れたり、ズタズタにしたり……写真だってそうだ。文句があるなら、直接言ってくれなきゃ分からないよ。ボクは君のこと、なにも知らないんだから」

 少女はその表情に、柔らかな笑みを称えた。

 その笑顔はどこか作り物めいていて、ひどく空虚に見えた。まるでマネキン相手に語りかけているような気になってくる。

「ねぇ、なんか言って──」

 その瞬間。

 少女の手が、ブレザーのポケットへと滑り込む。
 引き抜かれたそれを見て、愛斗は全身が石になったように硬直した。

 ギラギラと、鈍色に光る刃。

 それは手の平に収まるサイズの、小型ナイフだった。

(あ、これヤバいやつだ)

 これから起こりうる出来事を瞬時に想定し、頭が真っ白になった。

 今すぐ逃げろと、意識の遠くで警報が鳴る。だけど足がすくんで動かない。命の危機を前に、声すら出せない。心臓だけが大きく高鳴り、皮膚が一瞬にして粟立った。

 ナイフを振りかぶり、まっすぐ向かってくる少女の姿が、スローモーションのようにゆっくりとした動きに見えた。

 ああ、このままでは刺されてしまう。
 このまま、ここで──

(死ぬ──!)

 ぎゅっと奥歯を噛み締めながら、愛斗はきつく目を閉じた。

「愛斗ッ!!」

 そのとき背後から、誰に強く腕を引っ張られた。
 衝撃に体勢を崩した愛斗が踊り場の壁に手をついて振り向くと、喜逸が二人の間に立ちはだかっているのが見えた。

「き、きい、ち……?」

 一瞬の出来事に呆然とした。何が起こったのか、とっさに理解することができなかった。
 ただ──喜逸の左の二の腕に、ナイフが深々と突き刺さっている。それだけは分かった。
 
「よかった……間一髪だったな」

 震える息を吐きながら、喜逸が言った。
 こちらに軽く顔を向け、額に汗を滲ませながらも愛斗に笑いかけている。

「ぁ……あぁ……きい、ち、きいち、うで、腕が……っ」

 自分でも情けないくらい、声が上ずっていた。喉の奥がひりつくように乾いて、それ以上の言葉が出てこない。
 全身の毛穴から冷水を流し込まれたような、凄まじい悪寒を覚える。

 ツンと鼻をかすめる血の匂い。
 ナイフが突き刺さっている箇所を中心に、紺のブレザーがジワジワと黒く染まっていく。

 少女もまた、目を見開いて硬直していた。自分の手に握られたナイフと、そこから滲む赤を見て、みるみるうちに顔色を失くしていくのが分かった。
 やがてカタカタと歯の根を鳴らし、彼女はひどく怯えた様子で呼吸を震わせた。

 喜逸はゆっくりと少女の方へ向き直ると、その右頬へ静かに手を伸ばした。

 親指が、目元の泣きぼくろをそっと擦る。するとほくろは、あっけなく皮膚の上を滑った。白かった目元に、流れるような黒い跡だけが残される。

「え……?」

 ほくろは描かれたものだったのだ。愛斗はただ呆然と目を凝らすことしかできない。

 さらに喜逸は、頬をなぞった手をそのまま彼女の頭部へと滑らせた。柔らかなピンクブラウンの髪をそっと掴むと、静かに引いた。

 ズルリ、と。

 髪がまるごと、剥がれ落ちた。
 カツラの下から現れたのは、ワカメのようにモサモサとした黒髪。

「君は、“あのとき” の子だね」

 喜逸が静かに言った。

 少女だったものはガクガクと震えて呼吸を乱し、青褪めた表情で立ち尽くしていた。

 歪みきった表情は、それでもなお化粧の力によって、かろうじて美しさを保っている。けれどそこに存在するかすかな面影に、愛斗はようやく気がついた。

 あの縁なしメガネはかけていないが。そこにいたのは──。

「メガネ……くん……?」