ボニー・バタフライ・エフェクト

「また失敗しちゃった……」

 姿見の前にペタリと座り、悲しげに目を伏せる。

 カーテンを閉じた暗い部屋で、目の前の床には化粧道具が散乱していた。
 その中には、刃こぼれを起こしたハサミも混ざっている。

──どうかした?

 背後のベッドで彼が背もたれに背を預けながら、読んでいた本から顔をあげた。

「お化粧。私っていつもこうなの。目元がね、いつもうまくいかなくて」

──見せてごらん。

「いやよ。恥ずかしいもん」

──いいからおいで。

 優しい春風のような声で、彼が手招く。

 私は唇を尖らせながらベッドに近づき、乗り上げるとまたぺたりと腰を落ち着けた。
 彼は私の頬に触れ、じっと顔を覗き込んでくる。右の目元にある、いびつな形の小さな泣きぼくろを。

「あんまり見ないで」

──いいと思うよ。どこが気に入らないの?

「お化粧しないひとには分からないわよ」

 また唇を尖らせた私に、彼は笑った。

──化粧なんかしなくていいのに。

「そんなの無理。私、自分の顔が嫌いなの。本当は一重で、睫毛だって短いし……。すっぴんなんか見たら、きっとガッカリするよ」

──何度も見てるよ。ガッカリしたことなんか、一度もない。

 彼は優しい。だからいつだってこうして、私が欲しい言葉をかけてくれる。

 嬉しくて、つい甘えてしまいそうになるけれど。それでも彼にはいちばん可愛くて、いちばん魅力的な私だけを見ていてほしい。ずっとずっと、好きでいてほしいから。

「ねぇ、私のこと好き?」

 女って面倒くさい。お化粧も、髪やお肌のお手入れも。
 なんの前触れもなく、こんなバカな質問をしてしまうところも。
 だけど彼は微笑みながら、そんな私を受け入れてくれる。

──好きだよ。

「本当に?」

──本当に。

「あの子よりも?」

 私の問いに、彼はわずかに目を丸くした。

「ねぇ、あの子よりも好き? あの子より、私の方が可愛い?」

 彼はなにも言わなかった。ただゆっくりと口角を上げ、目を細めるだけだった。

「お願い、答えて」

 私は襲ってきた不安に押しつぶされそうになりながら、彼に向かって手を伸ばした。大きくて、血管の浮いた白い手の甲に、自分の手を重ねようとする。

 だけどそこには、ただ冷たいシーツがシワを寄せているだけだった。

 彼はいない。
 ベッドの上はもぬけの殻だ。
 彼が読んでいたはずの本すらない。
 そこには最初から誰もいない。

 そう── “最初” から。

 私は下腹に押し当てた両手を握りしめ、肩を震わせながら下唇を噛みしめる。

「どうして? ねぇ、どうしてなの?」

 どうして私じゃダメだったの?

 私は顔を両手で覆うと涙を流した。寂しさと、悲しさと、悔しさ。

 もうすぐ赤ちゃんだって産まれる “はず” なのに。ふたりの愛の結晶が。
 お腹だって、これからどんどん大きくなる。きっと不安でたまらなくなる。そばにいてほしいのに。

「……やっぱり、アイツが邪魔なんだ」

 当たり前みたいな顔をして、彼の隣で笑ってる。アイツが憎くてしかたない。
 アイツを見つめる彼の瞳も、その優しさも、全て私に向けられるべきものなのに。

 私は沈んだ瞳を濁らせて、ベッドからおりると床に投げ出されていたハサミを拾った。少し乱暴に扱ってしまったから、刃がすっかり欠けている。

 柄の部分に指を通して大きく開くと、巻き込まれていた細かな皮の繊維が、ポロポロと足元に散らばった。

「これ、もう使えないなぁ」

 革靴って、思った以上に硬いんだ。
 姉のお下がりのハサミ。小学生の頃から使っていたのに。駄目になっちゃった。もっと別のものを探さなきゃ。もっともっと、よく切れるもの。

 私はふっと微笑んだ。

「今度は、アイツの番」

 私から、大好きな彼(菊川喜逸)へ。
 私から、大嫌いなアイツ(栗坂愛斗)へ。

 Wから、Kへ──。