ボニー・バタフライ・エフェクト

「……わかった」

 話し終えると、喜逸はそう言って椅子から立ち上がった。

「オレがどうにかする。愛斗はなにも心配しなくていい」
「どうにかするって、どうするの……?」
「言っただろ。なにがあっても守るって。それだけだよ」

 愛斗は喜逸を見上げ、眉間に深くシワを刻みながら首を左右に振った。

「そんなのいい。喜逸に守ってもらわなくたって、ボクは平気だよ。それに──」

 握りしめていた拳の中で、ぐしゃぐしゃになった手紙が乾いた音を立てる。

「喜逸の、彼女なんだろ?」

 陽が落ちて、部屋のなかの闇が急激に濃くなった。

「聞いたんだ、ボク。君には付き合ってた人がいて、その人のお腹には赤ちゃんがいるって。その手紙に書いてあることと同じ……喜逸が、お父さんなんでしょ?」

 薄ぼんやりとした闇のなかで、翳りを背負った喜逸の表情がよく見えない。

 ふと、ずっと昔にも同じ光景を見た気がした。

 そうだ。朽ちた神社の、社の中だ。迫る夕闇に一人ぼっちで泣いている愛斗を、助けだしてくれたのは喜逸だった。あのときも、こんなふうに彼の表情がよく見えなかった。

 愛斗が喜逸を慕うようになったのは、その出来事があったからだ。それまでは特別でもなんでもなかった。
 愛斗にとって喜逸は、ただの近所の子供たちの中の一人にすぎなかった。

 だけど『あの日』 から、全てが変わった。

 一人ぼっちの孤独と恐怖から、救いだしてくれたから。見つけだしてくれたから。
 そこに現れた喜逸は、まるで救いの神様のようだった。

 だから懐いた。ずっと一緒にいたいと思うようになった。

 なのに今は、その全てが幻のように遠く感じる。
 喜逸がなにも言ってくれないことが悲しい。それが答えだとでもいうかのように、愛斗には感じられた。

 けれど愛斗が泣いてしまう前に、静かな声が沈黙の殻を突き破った。

「愛斗はそれを信じるの?」
「ぇ……?」
「誰から聞いた?」

 暗い影に表情を覆われたまま、伸びてきた手が愛斗の頬に触れる。その指先の冷たさに、愛斗は彼が今どんな顔をしているのかが本能的に分かってしまった。

 屋上で見た、あの別人のような喜逸が今、ここにいる。
 能面のように、なんの感情も読み取れない表情。ガラス玉のような瞳。
 あんな喜逸を、愛斗は知らない。

 だけど、本当に?

 本当に知らないんだろうか。
 朽ちた神社。迫る闇。落陽を背負う、小さな子供のシルエット──。

 遠くでカラスが鳴いている。

「その話、誰から聞いたの?」

 重ねられた問いかけに、メガネくんの顔を思い浮かべた。
 しかし愛斗はなにも言うことができなかった。凍えた空気。冷たい手。

 メガネくんと話していたとき、愛斗は得体の知れない怪物に狙われている恐怖から、ずっと足がすくんでいた。

 だけど今は、喜逸のほうがよほど得体の知れない存在に思えてしまう。
 子供の頃からずっと一緒だった彼は、もうどこにもいないような気がして。

「──お前だけは許さない、か」

 そう言った喜逸が、鼻で笑ったような気がした。

「っ、ぇ……?」
「面白いことをする女だな」
「喜逸……? なにを言って……?」

 突如として彼の口から放たれた、不穏な言葉。その意味を測りかね、けれど心臓が嫌な予感に高鳴った。

「ねぇ愛斗」

 喜逸がベッドに手をつきながら迫ってくる。
 力が入らない身体は、おもしろいほど簡単に押し倒されてしまった。

「き、きいち、なに……?」

 愛斗をベッドに縫いつけて、喜逸が闇に覆われた表情で見下ろしてくる。指先に頬をなぞられ、寒気がした。爪の先から、血が凍っていくような。

「オレは約束を果たすよ」
「ぇ、ぁ……?」
「“あのとき”からお前は俺のもので、俺はお前だけのもの。違う?」
「喜逸が言ってること、よく分かんないよ……! それに、だって……喜逸はあの子と付き合ってるんだろ? 他にも、何人も……ッ」

 触れていた指先が、愛斗の首筋におりてきた。そのまま手を添えられて、なにも言わせないとばかりにゆるくゆるく、締めつけられる。

「どうしてなにも言わなかった?」

 再度の問いかけ。きつく締められているわけではないのに、肺を押し潰されているかのように息ができない。

「ぁぐ、ぅ……き、ち……くるし……っ」
「言ったはずだよ。なにかあればすぐに言えって。どうして隠すの? どうして俺を避ける? 愛斗はオレがいらなくなった?」
「ッ、い、やだ! やめろってば!」

 膨らんだ不安と恐怖が、一気に爆ぜる。同時にひどく混乱していた。
 愛斗は喜逸の手を振り払うと飛び起きて、ベッドの端へと身を寄せる。

「なにも言ってくれなかったのは、喜逸のほうだろ!」

 喜逸はただ翳りの中で身を揺らめかせるだけだった。どんな顔をしているのかも、愛斗にはもう分からない。

 ただ涙で視界がぼやけていた。