ボニー・バタフライ・エフェクト

 その日一日を、愛斗はどうやって過ごしたかよく覚えていない。
 なにをしていても上の空で、ぼんやりと窓の外を眺めているだけだった。

 昼間はもちろん、旧校舎へは行かなかった。今は喜逸に会いたくない。
 その顔を見たら、自分がどんな言葉を彼にぶつけてしまうのか、まるで想像がつかなかった。

 なにも教えてくれなかったことを責め立てるのか。あるいはただ泣きべそをかいてしまうのか。どっちにしたってカッコ悪いし、喜逸だって困るだろう。

 勝手に裏切られたような気になっているけれど、喜逸が誰を好きでいようが、どんな恋愛をしていようが、愛斗には関係のないことだ。

 だって自分たちはただの幼馴染で、なにもかもを隠さず共有しなければいけない理由なんか、ひとつもない。それが分からないほど、愛斗だってガキじゃないのだ。

 それに今は、考えなくてはいけないことが他にもあった。
 メガネくんから得られた情報は大きなものだったが、まだ分からないことがある。

 いちばん最初にもらったあの手紙。

 YからKへ──『K』が喜逸であることはほぼ確定として、なぜ彼への想いを綴った手紙を、わざわざ愛斗の下駄箱に入れる必要があったのだろう。愛斗への恨み言が綴られていたなら、話は分かるが。

 それと、もうひとつ──

(もしあの手紙に書いてあることが本当なら、喜逸はあの子に酷いことをしたってことになる……)

 結婚を誓ったと、あの手紙には書いてあった。深く愛し合い、子供が宿ったと。

 だけど喜逸はその約束を果たそうとせず、彼女から離れてしまった。相手をとっかえひっかえして遊んでいたという話が、途端に現実味を帯びてくる。

 そして彼女は喜逸の裏切りを、愛斗がいるせいだとでも思い込んでしまったのだろう。

 けれど愛斗にはどうしても信じられなかった。あの喜逸が、本当にそんなことをするだろうか。
 愛斗が子供の頃からよく知る彼は、誰かを傷つけるような真似は絶対にしない。

 ましてや女の子を裏切って悲しませるなんて、そんなこと。

(でも……)

 愛斗が知らない顔を、喜逸が持っていることは確かだった。

 屋上で見た彼の表情。平坦で、まるで感情を失くしたような冷えた声。怖かった。よく知る人物の皮を被った、まったく知らない他人のようで。あんな喜逸を、初めて見た。

(……嫌だ、こんなの)

 疑いたくなんかないのに。ちゃんと信じたいのに。振り切れない自分がいることが悲しい。喜逸のことを、本当はなにも知らないという事実が。

 だからこそ、確かめなくてはいけないと思った。

 だってまだ喜逸の口から、ちゃんと聞いたわけじゃない。喜逸がそんな真似をする人間じゃないってことを。

 きっとなにか深い理由があるのだと──あって欲しいと、そう思う。
 それをちゃんと、確かめなければ。

 愛斗はあれだけ避けていたはずの喜逸と、会って話をする決意をした。


 *


 放課後。

 目の下にくまを作りながら、フラフラとした足取りで愛斗は下駄箱へ向かった。
 まともに寝ていないし、食べてもいない。昼食だってほとんど喉を通らなかった。そろそろ活動限界が近い。それでも愛斗は靴箱の前で喜逸を待つことにした。

 昨日は先に帰ってしまったが、いつも帰りに落ち合うのはこの場所になっている。待っていれば、きっとそのうち来るはずだ。

 ぼんやりとした意識で、愛斗は靴を履き替えておこうと自分の下駄箱へ手を伸ばした。
 無防備だった。あんなことがあったばかりなのに、なんの警戒もせずに、手を突っ込んでしまった。

 そして指先に感じた違和感に、鳩尾が凍るような衝撃が走った。

「ッ――!?」

 手を引っ込めた拍子にゴロリと転がり落ちた二足の革靴は、ハサミかなにかでボロボロになるまで切りつけられていた。
 見る影もないその光景は、まるで「次はお前がこうなる番だ」とでも言わんばかりで。

 冷たい恐怖が競り上がり、まばたきすらできなかった。

(なんで……?)

 なんで、なんで、なんで──?

「なんでこんなことするんだよ!?」

 あまりにも理不尽な逆恨み。

 こんな嫌がらせをしたところで、彼女の得になるようなことは一つもない。
 だって喜逸にとって愛斗はただの幼馴染で、たったそれだけの存在で、お嫁さんになれるわけでもないのに。

 ずっと一緒にはいられないのに。

 だからこんなことをしたって、なんの意味もないのに。

(もう嫌だ! 気持ち悪い……!)

 恐怖と嫌悪で吐き気がする。耳鳴りがして、グラグラと世界が回るような感覚を覚えた。

「愛斗……?」

 今にも崩折れそうになったとき、背後から愛斗を呼ぶ声がした。
 愛斗は真っ青な顔で肩を跳ねさせる。振り向けば喜逸がいた。

「どうしたんだ、その顔!?」

 喜逸は愛斗のひどい顔色に驚きながら、血相を変えて駆け寄ってきた。話をしなければと身じろいだ身体が、ぐらりと傾く。その二の腕を、喜逸が掴んだ。

「愛斗! 愛斗、しっかり!」

 嫌だと思った。喜逸の顔なんか見たくない。本当は話をするのだって──だけどその顔を見て、声を聞いた途端に、愛斗は心の芯が緩んでいくのを感じた。

 そのまま、意識がどんどん遠のいていく。

(喜逸、喜逸、喜逸……)

 本当はずっと、そばにいてほしかった。