ボニー・バタフライ・エフェクト

 そして朝がきた。

 必死に寝ようとするほど眠りは遠ざかり、結局は一睡もすることができなかった。
 いつもならまだ惰眠をむさぼっている時間だが、愛斗は早々にベッドを抜け出すと学校へ行く支度をした。

 あんなことがあっても、きっと喜逸はいつも通り迎えに来る。
 もしその顔を見たら、堪えきれずに泣いて縋りついてしまうような気がしたから。

 準備を済ませると、約束があるからと言って朝食もとらずに家を出た。うかうかしていると喜逸と鉢合わせてしまうし、どうしても食欲が沸かなかった。
 母に嘘をついてしまったことには胸が痛むが、とてもそんな気になれなかったのだ。

 ポツポツと人がいるだけの通学路を一人で歩きながら、降り注ぐ朝の光に頭痛がした。一睡もしていない身体が、鉛のように重たく感じる。

 襲ってきた目眩を振り払うように頭を振り、愛斗は喜逸と鉢合わせないルートを選んで学校へ向かった。

(とにかく話してみよう。メガネくんと)

 逃げるように走り去ってしまった男子学生。彼に話を聞くよりほかにない。

 怖くてたまらないけれど、何もせずにいるのは嫌だ。なぜあんな真似をしたのか、その理由をちゃんと知りたい。どうして何も言わずに、いつもただじっと見ているのかも。

(今日はいるかな?)

 校門が見えてくると、愛斗は彼を探してケヤキの木の下へ視線を向けた。
 すると──。

(いた……!)

 メガネくんはやっぱり愛斗を見ているが、いつもと明らかに様子が違っている。
 目が合っても、逃げようとしないのだ。むしろ何か言いたげに唇を震わせているのが、ハッキリと見えた。

 緊張に喉をごくりと鳴らしながら、愛斗は彼がいるケヤキのもとへ近づいた。彼はやっぱり逃げださない。どこか覚悟を決めたように、緊張した様子で顔を強張らせていた。

「ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いい?」

 ある程度の距離で立ち止まり、押し殺した声で問いかけた。
 するとメガネくんは動揺を押し隠した様子で肩を震わせながら、一度大きく喉を鳴らした。眼鏡のレンズ越しに、しきりに目を瞬かせている。

「ぼ、僕も……君に、話したいことがあるんだ」

 彼は「場所を変えよう」と言って歩きだした。愛斗は黙ってついていく。

 向かった先は体育館の裏手で、まったく人気がないことに不安が募る。建物によって翳っているその場所で、湿った土を踏みしめながらメガネくんが足を止めた。

 愛斗は彼がなにか言おうとするより先に、急き立てるように口を開いた。

「君さ、いつもボクのこと見てるだろ。昨日はボクんちの前にいた」

 落ち着かない様子で目を泳がせ、メガネくんはかろうじてうなずいた。

「なんであんなことしたの? あんな、酷いこと」

 怒りで声が震えてしまう。郵便受けの中の写真。ズタズタに切り裂かれた自分の顔。その陰湿さにゾッとする。
 するとメガネくんは疑問符を浮かべたような顔をして、「酷いこと?」と首を傾げた。

「しらばっくれるなよ! 君があの写真を撮って、ポストに入れたんだろ!!」
「しゃ、写真? 写真って、あの封筒の中身のことかい……?」

 彼は本当になにも知らないといった様子で困惑している。けれど愛斗は引き下がることができなくなっていた。

「嘘つかないで、ちゃんと本当のことを言ってくれよ! ボクが何をしたっていうのさ!」

 声を荒げる愛斗に、メガネくんは焦ったように首を横に振った。

「ほ、本当に僕は知らないんだってば!」
「じゃあ誰がやったっていうんだ? 君しか考えられないじゃん」
「……あの女だよ」
「え?」
「ごめんなさい!!」

 メガネくんは急に深く頭をさげ、泣きそうに絞り出した声で謝罪の言葉を口にした。

「僕、ずっと君のことストーカーしてたんだ。こっそり後をつけたり、家のそばで隠れて待ち伏せしたり……」
「す、ストーカー?」

 思わず素っ頓狂な声が漏れる。学校でしょっちゅう見られていたことまでは気づいていたが、そこまでされていたとは知らずに驚いた。

 困惑する愛斗に、彼はバツが悪そうに幾度か目を泳がせた。

「だ、だけど、それだけなんだ。ただ見てただけで、なにかするつもりなんかなくて……本当に、やったのはあの女なんだ。見たんだ……」
「見た、って……なにを?」
「白いリボンの、髪が長い女子生徒だよ」
「っ!?」

 彼はすっかり背中を丸め、弱々しくうつむいたまま先を続ける。

 白いリボンの女は、愛斗の家のポストに茶色い封筒を突っ込んでいた。先回りして身を隠しながら愛斗の帰りを待っていた彼は、それをたまたま目撃してしまったと言うのだ。

 一体なにを入れたのか気になって、彼はポストの中身を確かめようとした。
 そこへ君が帰ってきたのだと、メガネくんはそう言った。

「そんなの……」

 信じられるわけがない──そう言おうとしたはずが、言葉にできなかった。
 どこかでは、そんな予感がしていたのだ。すべての出来事に繋がりがあることを。

 けれど愛斗にはあんな手紙をもらったり、嫌がらせをされる心当たりが全くない。それだけは胸を張って言える。

 しかし彼女の憎しみと悪意の切っ先は、確実にこの自分に向けられているのだ。

(どうして? なんでボクなの?)

 色濃い不安と恐怖が、身体の芯をギリギリと締め上げている。
 見たこともないような恐ろしい怪物が、目の前で大きな口を開けているようだった。

 愛斗はただモルモットのように、意味も分からず怯えることしかできないのだ。