ボニー・バタフライ・エフェクト

 翌日はあいにくの雨だった。
 いつも通り喜逸と一緒に登校した愛斗は、下駄箱で彼と別れると自分の靴箱に手を入れる。すると──。

「痛っ!」

 右の人差し指に鋭い激痛を覚え、とっさに引っ込める。その拍子に、靴箱からくしゃくしゃに丸められた紙切れが、コロリと落ちていくのが見えた。
 指先はパックリと割れたように傷つき、プツプツと血が滲みだしている。

「え、な、なんで……?」

 青ざめながら恐る恐る靴箱の中を覗き込んだ。
 傷ついていない方の指を上履きの踵に引っ掛けて、少しだけ引き出してみる。靴の中では、幾つものガラスの破片が鈍く輝いていた。

「!?」

 喉の奥からひゅうという乾いた悲鳴を漏らし、しばしのあいだ呆然とした。
 喜逸はすでに教室へ向かってしまったあとで、周りにはもうほとんど人がいない。不気味なほどにしんと静まり返ったなかに、雨音がザァザァと響き渡っている。

 愛斗の頭の中は白く染まっていた。指先は脈打つような熱を持ちはじめている。決して大きな傷ではないが、出血が止まらない。

 カラカラに乾いた喉を鳴らしながら、足元に落ちた紙切れを拾い上げる。
 紙に血が滲んでいくのも構わず、震える指先で開いてみると、そこには昨日と同じ桜の便箋に



 と、真っ赤な文字で大きく書き殴られていた。


 *


 雨の日は屋上に出られない。
 愛斗はちょうど屋上に続く扉に背を向ける形で、階段の一番上に座って膝を抱えていた。

(なんで、あんな酷いこと……)

 靴の中のガラス片。添えられていた手紙。ガラスは捨てたが、細かな破片が残っているようで履く気になれず、忘れてきたことにして職員室でスリッパを借りた。

 手紙はとっさに制服のポケットに押し込んだ。
 愛斗は息を震わせ、抱え込んだ膝頭に顔を埋めた。巻き付けた絆創膏には血が滲み、ジクジクと鋭い痛みを放っている。

(多分あの子だ。だって昨日の手紙と、同じ便箋だったもん)

 あの女子生徒は、愛していたはずのKをそれほどまでに憎悪しているのだろうか。
 だけどそんなこと愛斗には関係ないし、こんな仕打ちを受ける謂れもない。だって人違いなのだから。

 頭では分かっているのに、言い知れぬ不安が後を絶たない。
 まるでその矛先が、自分に向けられているような錯覚に陥ってしまう。

(でも、ボクは知らない……人違いだよ……)

 消えてしまえ──なんて。

 ドロドロとした悪意に引きずり込まれた心が、ひどくショックを受けている。
 全身の血液が凍りついたようになっていた。耳をうつ雨音にすら不安を覚え、膝を抱く腕に力を込める。身体の震えが止まらない。

「愛斗、どうした?」
「……っ!」

 雨音にばかり気をとられ、足音に気がつかなかった。顔をあげると、下の段から喜逸が心配そうに見上げている。
 その顔を見た瞬間、愛斗は張り詰めていた心と一緒に涙腺が緩んでいくのを感じた。

 喜逸は、なにかあればすぐに言えと言った。
 必ず守るからと。だからきっと、彼に相談すれば──。

――だってあんたって、菊川先輩がいなきゃ一人じゃなーんもできなさそうじゃん。

(あ……)

 胸に刺さった早苗の言葉。こういうことなのだと、愛斗は思った。
 小学生の頃、クラスの男子に意地悪をされたときも、夏休みの宿題が終わらないときも、自分でどうするか考えるより先に、いつも喜逸に泣きついていた。

 それが当たり前だった。今まで、ずっと。

(ダメだ。このくらい、自分でなんとかしないと!)

 やるべきことは分かっている。
 早くあの白いリボンの少女を探しだし、人違いだと言えばそれで済む。たったそれだけで片付く話だ。わざわざ喜逸に助けてもらうまでもない。

「どうもしない! なんでもないよ!」

 愛斗は目元を乱暴に拭うと、首を左右に大きく振った。

「なんでもないって顔じゃない」

 喜逸は少し怒ったような顔をして、それからすぐに愛斗が上靴を履いていないことに気がついた。

「愛斗、靴は? どうしてスリッパなんか履いてるの?」
「あっ、これはその……ちょっと、汚しちゃったっていうか」
「汚したって、なにをしててそうなった?」
「べ、別になにも」

 うまい言い訳が思いつかず、愛斗はただ目を泳がせるばかりだった。

 さらに喜逸は、愛斗の右手の人差し指に巻かれた絆創膏にも気づいたらしい。
 彼は残りの階段を駆けのぼり、持っていた売店の袋を床に置いた。愛斗の横に腰を下ろし、右手首を掴むと引き寄せる。

「ッ、ぁ!」
「……これは? どうしたの?」

 鋭く問い詰められ、思わず顔を背けた。掴まれている手が震えてしまう。嘘をつくのは苦手だ。だけど本当のことも言いたくない。

「紙で切っただけだよ」
「嘘だ。紙で切ったくらいで、ここまで血は滲まない」
「……ッ」
「愛斗」

 咎めるように名前を呼ばれ、愛斗は強く目を閉じた。喜逸には全て見抜かれてしまう。けれど彼に心配されればされるほど、愛斗は意固地になっていくばかりだった。

 とっさにその手を振り払い、立ち上がると喜逸を睨みつけて声を荒げる。

「もう! いちいちうるさいな! 喜逸には関係ないだろ!?」

 驚いて見開かれた瞳に、チクリと胸が痛んだ。
 けれどそれ以上に、愛斗の心は焦りともどかしさに支配されていた。

 自分が大人になれないのは、きっと喜逸のせいだ。愛斗のことを、いつまでも子供みたいに扱うから。なんでもしてくれようとするから。甘やかそうとするから。

 床に置かれたビニール袋からは、フルーツオレのパックが顔を覗かせている。

 昨日、愛斗はブラックコーヒーを美味しいと感じることができなかった。それは愛斗が子供だから。だから彼は、今日も当たり前のようにフルーツオレを買ってきたのだ。

 コーヒーも飲めない、問題を一人で対処するだけの力もない、か弱くて幼稚な存在なのだと、そう思っているから。

「ボクはもう小さな子供じゃない! なにかあっても、ちゃんと自分でなんとかできる! だからもうほっといて!」

 雨音をかき消すほどの大きな声が、冷たい階段に響き渡った。
 愛斗は喜逸の顔を見ることができず、床に置き去りにしていた弁当箱の包みを乱暴に掴むと、そのまま階段を駆け下りる。

「愛斗!!」

 名前を呼ばれても、振り返ることすらできなかった。