今日の放課後は、体育館の壇上でできるだけ本番通りの通し稽古をやる予定だ。
東条祭二週間前からは希望すれば体育館を使うことができる。この期間中運動部が試合間近で体育館を使いたい場合は、地域の体育館へ移動して練習するらしい。それほどこの期間は学校が東条祭一色になるのだ。他のクラスでも体育館で出し物のリハーサルをしたいという日があるため、俺たちが自由に使えるわけではない。一応一年A組に割り当てられたのは今日と明日、そして東条祭前日の3日だ。限られた日でどれだけ練習ができるかが鍵だ。
俺が一番心配していたのは田中のことだった。しかし、俺の心配をよそに、彼女は何事もなかったかのように体育館に現れた。俺と視線が合うと、少し微笑んで「私、がんばってみる」と小声で言った。何があったのかはわからないが、彼女が自信を取り戻してくれたのは幸いだ。
しかし、順調に思えたのもそこまでで、稽古は波乱続きとなった。
東条祭まで、あと一週間ほど。その事実が日に日にクラスの空気をぴりつかせていた。
「だからその板はもっと右だって!」
「いや無理だろ、サイズ足りねぇし!」
体育館は怒号とため息で満ちている。
壇上では、大道具係が半壊しかけた背景パネルを支えていた。教室で見た時にはそれなりの出来に見えた舞台セットも、体育館の壇上で見ると貧相に見える。しかも、ここまで運ぶ間に半壊しているのだからなおさらだ。しかも、舞台セットのことで手いっぱいで、衣装までまだ準備できていないらしい。照明担当は脚立の上で配線に悪戦苦闘している。吉川ご希望の舞台を劇的に照らせるようなスポットライトはないため、吉川の自宅にあった間接照明を利用している。
「吉川、大丈夫だよな」
ガムテープでセットを直していた吉川は、目線を向けないまま「なんとかする」と言った。“なんとか”ってどうするんだ。吉川自身にもわかっていないのだろう。
その後、舞台セットはともかく、演者たちだけで通し稽古をすることになった。シェークスピアの脚本をそのまま演じるプロの舞台なら、上演時間は二時間程度らしい。その原作から、ストーリーに直接関係ない部分や学生には不適切な部分――性的なシーンや下ネタなど――をカットして、うちのクラスが演じるのは一時間程度となる。
演者が入れ替わり立ち替わり現れる一時間。出番のタイミングやセリフ忘れ、言い間違いさえなければ形になるだろうと思っていた。
しかし、それが大間違いだったことに気づく。
実際、客席側から見ていた俺の感想としては、このレベルの劇を一時間見せられるのは相当きつい。出来の悪いコントを延々と見せられているようで、かなりつらかった。これが本番で上演されるかと思うとぞっとする。しかし、演者ではない俺からは、なかなか強くダメ出しもしづらい。
一時間弱の芝居が最後まで終わったあと、みんなで講評をした。その顔色から、そこにいた全員が俺と同じような感想を抱いていることは想像できた。
俺はみんなのモチベーションが下がらないよう努めて、明るい声を出す。
「今日の反省会をしようか。みんな、思ったことどんどん言ってみて」
「声、全然聞こえない」
「もっと感情込めないとだめかも」
「身振り手振りを大きくしないと伝わらなくない?」
「セリフの間が空きすぎ」
「逆に被ってるところもあった」
「あと舞台に出るタイミングとかも考えないと変な感じする」
「音響のタイミングももっと打ち合わせした方がいいと思う」
「あと、那須のキスシーン下手すぎ」
名指しの批判に那須が大きな声をあげる。
「おいっ、個人攻撃はやめろ!キスシーンってするふりなんだから、やっぱりぎこちなくなるって!もうちょっと、角度とか動きとか研究すればいいんだろうけど……そんな悠長なこと言ってられないし」
一度ダメ出しが始まると止まらなかった。それだけみんなが真剣に取り組もうとしているのは喜ばしいことだ。しかし、現実として「じゃあどうする?」となった時、誰にも対策がわからず途方に暮れていた。
「やっぱさ、お手本が欲しいよな」
那須が口を開く。
「この中でロミオとジュリエットの舞台、見たことある人いる?」
皆が顔を見合わせ、首を振る。
「でしょ? だからさ、わかんないんだよね。正解が」
確かに一理ある。しかし、近くで都合よく舞台公演をやっているわけもない。レンタルビデオにあるだろうか。ネット配信とか?でも探すのも一苦労だし、みんなで見るとなると時間もかかる。
どうしようもない。そこにいるメンバーたちの不安が、手に取るようにわかった。何とかしなければ。
俺はまた、みんなの気持ちを盛り立てるように大きな声を出す。
「とにかく!まだ時間はあるから、みんなそれぞれいい劇にするために頑張ろう!」
俺の空元気を見透かしたような目で、みんながこちらを見てくる。
そんな目で見るなよ。俺だって必死なんだから。
通し稽古はそこで終わり、あとは自主練となった。特に音響係は、ここでしか音出しのタイミングを練習できないため、かなり念入りに確認をしていた。舞台セット係の吉川たちも、修復作業に集中している。
そんなクラスメイトを見ながら、俺はゆっくりと体育館を離れる。
理科準備室へ向かう。校舎裏へ続く廊下は静かで、さっきまでの騒がしさが嘘みたいだ。窓ガラスに映る自分の顔は、思っていたより疲れて見えた。実際、ひどく疲れている。だからこそ沢野に会いたい。
理科準備室の前に立つ。いつものようにドアは開いていて、月の光が廊下へ漏れている。薄暗い室内。カーテン越しに差し込む月明かり。その白い光の中に沢野はいた。俺が来るのを待っているみたいに。
俺は沢野に歩み寄り、その隣に並ぶ。カーテンがふわりと揺れた。
「今日は体育館にいたね」
優しい声が、静かな部屋に溶ける。
「……見えてたの?」
「ここから見える」
彼は窓の外へ視線を向けた。俺もつられてそちらを見る。
グラウンドの向こうに体育館の窓明かりが浮かんでいた。暗闇の中でそこだけがぼんやり光っていた。
「ほんとだ」
「ここ、いろんな景色が見えるって言ったでしょ」
俺はその横顔を見つめる。その顔を見ていると、胸の奥が妙にざわつく。
俺はその気持ちを振り切るように本題に入る。
「あのさ、昨日言ってたことなんだけど」
「ん?」
「沢野をカーテンから出す方法」
言った途端、沢野は「ああ」と小さく笑った。
「調べてくれたんだ」
「ネットとか本とか見たけど……」
俺は苦笑する。
「全然わかんなかった」
期待させたくなかった。けれど何も成果がないのが悔しくて、自然と声が沈む。
「別にいいよ」
沢野はあっさり言った。
「でも……」
「黒崎、めちゃくちゃ残念そうな顔してる」
くすくす笑われて、俺は思わず眉を寄せる。
「笑うなよ」
「だって、本気で探してくれてたのわかるから」
その言い方が妙に優しくて、逆に胸が苦しくなる。
「土日にもう少し調べてみる」
「ほんと気にしなくていいって。それより、東条祭までの時間……会える時間を大事にしたい」
穏やかにそう言いながら、不意にこちらへ向けられた目に心臓が跳ねた。
近い。数センチ先に沢野の顔がある。なぜだろう。昨日もこのくらいの距離で会話していたはずなのに、今日は一段とドギマギしてしまう俺がいる。
「あ……うん」
返事が遅れる。そんな俺を沢野が不思議そうに覗き込む。
「黒崎、疲れてる?」
「えっ?」
「なんか顔しんどそう」
一瞬、動揺を見抜かれたのかと思った。けれど沢野は本気で心配しているらしい。俺は慌てて誤魔化す。
「まぁ、ちょっと。演劇、思ったより大変で」
「そんなに?」
「演者は演技のやり方がわかんないって言うし、舞台セットも進んでないし。クラスの空気も微妙だし」
言葉にすると、改めて胃が重くなる。すると、黙って聞いていた沢野が少し考えるような仕草をしたあと、口を開いた。
「あのさ、黒崎が劇やるって聞いて、ちょっと思い出したことがあるんだよね」
沢野の目線が窓の下に落ちる。俺もつられてそちらを見る。
「あそこ、見える?」
校舎の真下から少し離れた場所に、長屋のような建物が見える。おそらく初めて見る建物だ。
「あー、あれ何?初めて見るかも。」
「昔使ってた部室らしい。何個かの部屋に分かれてて、それぞれ部活が割り当てられて使ってたみたい。何年か前に部室が新築されて移動したんだけど、まだ取り壊されないで残ってる」
「あれがどうしたの?」
「あの一番左端の部室って演劇部の部室なんだ。でね、演劇部自体はもう何年も前に廃部になったんだけど、その時使ってた衣装とか舞台セットが残ってると思う。今回の芝居で使えるかはわからないけど」
俺は沢野が指差した建物へ目を凝らす。外が暗いこともあって、どんな建物なのかよくわからない。しかし、長く使われていないせいか、上に乗った赤いトタン屋根が錆びて今にも崩れ落ちそうなのはわかった。
それより気になることがある。
「……なんでそんなこと知ってるの?」
俺が聞くと、沢野はあっさりと答えた。
「思い出したから」
「え?」
「昼間、ぼーっと外見てたら急に映像が浮かんできた」
さらっと言われて、俺は息を呑む。
「思い出した!? 他には!?」
「いや、断片的だよ。本当にちょっとだけ」
けれど、それでも大きな進歩だった。沢野は少しずつ、自分の過去を思い出している。俺は思わず身を乗り出す。
「その調子でどんどん思い出そう!」
「黒崎、食いつきすぎ」
沢野は呆れたように笑う。
「なんでそんなに僕に思い出してほしいの?」
「なんでって……知りたいから。単純に沢野のこと知りたい」
沢野はかすかな笑みを残しながらも少し俯いた。
「でもさ、本当の沢野って人間は黒崎が期待してるような人間じゃないかも」
「期待?俺は別になんの期待もしてない。ただ、本当の沢野が知りたいってだけ」
「なんで知りたいの?」
沢野が目線だけ上に向けて俺を見る。その目はとても不安そうで俺はなんと答えるのが正しいのかわからない。
(好きだから)
俺の心に浮かんだ文字は流石に言えなかった。そのまま黙ってしまう。二人の間に沈黙が流れる。
「まあ、明日部室行ってみてよ。きっと使えるものあると思うから」
沈黙を破ったのは沢野だった。妙に確信めいた口調だった。
俺はさっきまでの気まずい空気を払拭したくてわざとらしいくらい明るい声をだした。
「沢野、もしかして演劇部だったとか?」
「どうだろ」
沢野は窓の外を眺める。
「沢野が役者だったら、絶対人気出てたと思う」
「なんで?」
沢野が静かに聞き返す。俺は何気なく答えた。
「だって、すごく綺麗だから」
言った瞬間、自分で固まった。しまった、と思った。頭より先に口が動いていた。
一瞬の静寂。遠くで風が窓を鳴らした。
「……ありがと」
小さな声。
恐る恐る顔を上げる。沢野は少し照れたように笑っていた。月明かりが頬を白く照らしている。本当に綺麗だった。
「沢野が、生きてる時に出会いたかった」
気づけば、そんな言葉がこぼれていた。沢野の目が少し見開かれる。
「俺がここに来れるのは、東条祭の当日までだ」
「……うん」
「沢野はしょうがないって言うけど、俺は嫌だ。会えなくなるの、嫌だよ」
言葉にするほど、自分の感情がはっきりしていく。沢野と一緒にいたい。その気持ちだけが、胸の中で大きく膨らんでいく。
沢野はしばらく黙っていた。そして口を開く。
「僕も、黒崎とずっと一緒にいられたらって思うよ」
その声は悲しいほど優しかった。
「でもさ、僕たちって違うじゃん」
沢野はゆっくり言葉を選ぶように話す。
「僕は曖昧な場所にいる。でも黒崎はちゃんと現実を生きてる。黒崎と話してるとわかるよ。黒崎は特別な人だ。きっとこれからもずっときらきらした人生を送る人だからさ」
真っ直ぐ見つめられる。
「だから黒崎は、現実を優先しなきゃだめだよ」
胸が冷えていく。
「そのほうが、僕も嬉しいから」
沢野は正しい。でも俺は正しいことなんてもう、うんざりなんだ。
「沢野も、俺をつきはなすんだな」
子供じみた捨て台詞だった。でも、ここで大人の顔をして別れるなんてできなかった。俺が今どんなに傷ついたかわかってもらいたかった。
「ごめん、そんなつもりじゃ……」
沢野の慌てた声だけ聞いて背中を向ける。
「……明日、部室行ってみる。教えてくれてありがとう」
やっとそれだけ言って逃げるみたいに扉へ向かった。
「黒崎――」
振り返れなかった。振り返ったら、多分戻ってしまう。
本物の幽霊と仲良くなれて、自分がホラー映画の主人公になったみたいだった。沢野といる時だけは、東条祭の準備に対するプレッシャーや、息苦しい家から解放されている気がした。幽霊と秘密を共有する、その非日常に酔っていただけなのかもしれない。俺は沢野に逃げて、彼の優しさに甘えていた。
だけど、どんなに逃げても、俺が生きているのはこの現実なのだ。
だから、沢野の言うことは正しい。でも、その正しさを彼本人から伝えられたことが、ひどく悲しかった。
ロミオとジュリエットは、住む世界が違うのに激しく恋をしてしまった。そして無謀な恋の末に若くして死んでしまう。お互い、それぞれに相応しい場所で暮らし、相応しい相手と結婚し、子孫を残せば、きっと穏やかな人生を送れたはずなのに。
――いや、違うな。
俺の状況はもっと悲惨だ。
ロミオだけがジュリエットを忘れられないんだ。ジュリエットは予定通り婚約者のパリスと結婚し、ロミオはティボルトを刺し殺した罪で町を追われる。
そんな気持ちだ。
ジュリエットは何事もなかったように別の誰かと生きていくのに、ロミオだけがジュリエットを忘れられないまま、ひとり罰を受け続ける。
(やっぱり俺は沢野が好きなんだな)
俺はこれまでほとんど恋をしたことがなかった。今まで女の子に抱いてきた恋心も今となっては友情の延長線だったような気がする。沢野は男だし、幽霊だし、恋をするなんて思わなかった。そしてこの気持ちは恋だと気づいた時にはもう遅かった。俺は好きになってはいけない相手を好きになってしまった。重く沈んだ足を引きずるように、体育館へ戻る廊下を歩いた。
東条祭二週間前からは希望すれば体育館を使うことができる。この期間中運動部が試合間近で体育館を使いたい場合は、地域の体育館へ移動して練習するらしい。それほどこの期間は学校が東条祭一色になるのだ。他のクラスでも体育館で出し物のリハーサルをしたいという日があるため、俺たちが自由に使えるわけではない。一応一年A組に割り当てられたのは今日と明日、そして東条祭前日の3日だ。限られた日でどれだけ練習ができるかが鍵だ。
俺が一番心配していたのは田中のことだった。しかし、俺の心配をよそに、彼女は何事もなかったかのように体育館に現れた。俺と視線が合うと、少し微笑んで「私、がんばってみる」と小声で言った。何があったのかはわからないが、彼女が自信を取り戻してくれたのは幸いだ。
しかし、順調に思えたのもそこまでで、稽古は波乱続きとなった。
東条祭まで、あと一週間ほど。その事実が日に日にクラスの空気をぴりつかせていた。
「だからその板はもっと右だって!」
「いや無理だろ、サイズ足りねぇし!」
体育館は怒号とため息で満ちている。
壇上では、大道具係が半壊しかけた背景パネルを支えていた。教室で見た時にはそれなりの出来に見えた舞台セットも、体育館の壇上で見ると貧相に見える。しかも、ここまで運ぶ間に半壊しているのだからなおさらだ。しかも、舞台セットのことで手いっぱいで、衣装までまだ準備できていないらしい。照明担当は脚立の上で配線に悪戦苦闘している。吉川ご希望の舞台を劇的に照らせるようなスポットライトはないため、吉川の自宅にあった間接照明を利用している。
「吉川、大丈夫だよな」
ガムテープでセットを直していた吉川は、目線を向けないまま「なんとかする」と言った。“なんとか”ってどうするんだ。吉川自身にもわかっていないのだろう。
その後、舞台セットはともかく、演者たちだけで通し稽古をすることになった。シェークスピアの脚本をそのまま演じるプロの舞台なら、上演時間は二時間程度らしい。その原作から、ストーリーに直接関係ない部分や学生には不適切な部分――性的なシーンや下ネタなど――をカットして、うちのクラスが演じるのは一時間程度となる。
演者が入れ替わり立ち替わり現れる一時間。出番のタイミングやセリフ忘れ、言い間違いさえなければ形になるだろうと思っていた。
しかし、それが大間違いだったことに気づく。
実際、客席側から見ていた俺の感想としては、このレベルの劇を一時間見せられるのは相当きつい。出来の悪いコントを延々と見せられているようで、かなりつらかった。これが本番で上演されるかと思うとぞっとする。しかし、演者ではない俺からは、なかなか強くダメ出しもしづらい。
一時間弱の芝居が最後まで終わったあと、みんなで講評をした。その顔色から、そこにいた全員が俺と同じような感想を抱いていることは想像できた。
俺はみんなのモチベーションが下がらないよう努めて、明るい声を出す。
「今日の反省会をしようか。みんな、思ったことどんどん言ってみて」
「声、全然聞こえない」
「もっと感情込めないとだめかも」
「身振り手振りを大きくしないと伝わらなくない?」
「セリフの間が空きすぎ」
「逆に被ってるところもあった」
「あと舞台に出るタイミングとかも考えないと変な感じする」
「音響のタイミングももっと打ち合わせした方がいいと思う」
「あと、那須のキスシーン下手すぎ」
名指しの批判に那須が大きな声をあげる。
「おいっ、個人攻撃はやめろ!キスシーンってするふりなんだから、やっぱりぎこちなくなるって!もうちょっと、角度とか動きとか研究すればいいんだろうけど……そんな悠長なこと言ってられないし」
一度ダメ出しが始まると止まらなかった。それだけみんなが真剣に取り組もうとしているのは喜ばしいことだ。しかし、現実として「じゃあどうする?」となった時、誰にも対策がわからず途方に暮れていた。
「やっぱさ、お手本が欲しいよな」
那須が口を開く。
「この中でロミオとジュリエットの舞台、見たことある人いる?」
皆が顔を見合わせ、首を振る。
「でしょ? だからさ、わかんないんだよね。正解が」
確かに一理ある。しかし、近くで都合よく舞台公演をやっているわけもない。レンタルビデオにあるだろうか。ネット配信とか?でも探すのも一苦労だし、みんなで見るとなると時間もかかる。
どうしようもない。そこにいるメンバーたちの不安が、手に取るようにわかった。何とかしなければ。
俺はまた、みんなの気持ちを盛り立てるように大きな声を出す。
「とにかく!まだ時間はあるから、みんなそれぞれいい劇にするために頑張ろう!」
俺の空元気を見透かしたような目で、みんながこちらを見てくる。
そんな目で見るなよ。俺だって必死なんだから。
通し稽古はそこで終わり、あとは自主練となった。特に音響係は、ここでしか音出しのタイミングを練習できないため、かなり念入りに確認をしていた。舞台セット係の吉川たちも、修復作業に集中している。
そんなクラスメイトを見ながら、俺はゆっくりと体育館を離れる。
理科準備室へ向かう。校舎裏へ続く廊下は静かで、さっきまでの騒がしさが嘘みたいだ。窓ガラスに映る自分の顔は、思っていたより疲れて見えた。実際、ひどく疲れている。だからこそ沢野に会いたい。
理科準備室の前に立つ。いつものようにドアは開いていて、月の光が廊下へ漏れている。薄暗い室内。カーテン越しに差し込む月明かり。その白い光の中に沢野はいた。俺が来るのを待っているみたいに。
俺は沢野に歩み寄り、その隣に並ぶ。カーテンがふわりと揺れた。
「今日は体育館にいたね」
優しい声が、静かな部屋に溶ける。
「……見えてたの?」
「ここから見える」
彼は窓の外へ視線を向けた。俺もつられてそちらを見る。
グラウンドの向こうに体育館の窓明かりが浮かんでいた。暗闇の中でそこだけがぼんやり光っていた。
「ほんとだ」
「ここ、いろんな景色が見えるって言ったでしょ」
俺はその横顔を見つめる。その顔を見ていると、胸の奥が妙にざわつく。
俺はその気持ちを振り切るように本題に入る。
「あのさ、昨日言ってたことなんだけど」
「ん?」
「沢野をカーテンから出す方法」
言った途端、沢野は「ああ」と小さく笑った。
「調べてくれたんだ」
「ネットとか本とか見たけど……」
俺は苦笑する。
「全然わかんなかった」
期待させたくなかった。けれど何も成果がないのが悔しくて、自然と声が沈む。
「別にいいよ」
沢野はあっさり言った。
「でも……」
「黒崎、めちゃくちゃ残念そうな顔してる」
くすくす笑われて、俺は思わず眉を寄せる。
「笑うなよ」
「だって、本気で探してくれてたのわかるから」
その言い方が妙に優しくて、逆に胸が苦しくなる。
「土日にもう少し調べてみる」
「ほんと気にしなくていいって。それより、東条祭までの時間……会える時間を大事にしたい」
穏やかにそう言いながら、不意にこちらへ向けられた目に心臓が跳ねた。
近い。数センチ先に沢野の顔がある。なぜだろう。昨日もこのくらいの距離で会話していたはずなのに、今日は一段とドギマギしてしまう俺がいる。
「あ……うん」
返事が遅れる。そんな俺を沢野が不思議そうに覗き込む。
「黒崎、疲れてる?」
「えっ?」
「なんか顔しんどそう」
一瞬、動揺を見抜かれたのかと思った。けれど沢野は本気で心配しているらしい。俺は慌てて誤魔化す。
「まぁ、ちょっと。演劇、思ったより大変で」
「そんなに?」
「演者は演技のやり方がわかんないって言うし、舞台セットも進んでないし。クラスの空気も微妙だし」
言葉にすると、改めて胃が重くなる。すると、黙って聞いていた沢野が少し考えるような仕草をしたあと、口を開いた。
「あのさ、黒崎が劇やるって聞いて、ちょっと思い出したことがあるんだよね」
沢野の目線が窓の下に落ちる。俺もつられてそちらを見る。
「あそこ、見える?」
校舎の真下から少し離れた場所に、長屋のような建物が見える。おそらく初めて見る建物だ。
「あー、あれ何?初めて見るかも。」
「昔使ってた部室らしい。何個かの部屋に分かれてて、それぞれ部活が割り当てられて使ってたみたい。何年か前に部室が新築されて移動したんだけど、まだ取り壊されないで残ってる」
「あれがどうしたの?」
「あの一番左端の部室って演劇部の部室なんだ。でね、演劇部自体はもう何年も前に廃部になったんだけど、その時使ってた衣装とか舞台セットが残ってると思う。今回の芝居で使えるかはわからないけど」
俺は沢野が指差した建物へ目を凝らす。外が暗いこともあって、どんな建物なのかよくわからない。しかし、長く使われていないせいか、上に乗った赤いトタン屋根が錆びて今にも崩れ落ちそうなのはわかった。
それより気になることがある。
「……なんでそんなこと知ってるの?」
俺が聞くと、沢野はあっさりと答えた。
「思い出したから」
「え?」
「昼間、ぼーっと外見てたら急に映像が浮かんできた」
さらっと言われて、俺は息を呑む。
「思い出した!? 他には!?」
「いや、断片的だよ。本当にちょっとだけ」
けれど、それでも大きな進歩だった。沢野は少しずつ、自分の過去を思い出している。俺は思わず身を乗り出す。
「その調子でどんどん思い出そう!」
「黒崎、食いつきすぎ」
沢野は呆れたように笑う。
「なんでそんなに僕に思い出してほしいの?」
「なんでって……知りたいから。単純に沢野のこと知りたい」
沢野はかすかな笑みを残しながらも少し俯いた。
「でもさ、本当の沢野って人間は黒崎が期待してるような人間じゃないかも」
「期待?俺は別になんの期待もしてない。ただ、本当の沢野が知りたいってだけ」
「なんで知りたいの?」
沢野が目線だけ上に向けて俺を見る。その目はとても不安そうで俺はなんと答えるのが正しいのかわからない。
(好きだから)
俺の心に浮かんだ文字は流石に言えなかった。そのまま黙ってしまう。二人の間に沈黙が流れる。
「まあ、明日部室行ってみてよ。きっと使えるものあると思うから」
沈黙を破ったのは沢野だった。妙に確信めいた口調だった。
俺はさっきまでの気まずい空気を払拭したくてわざとらしいくらい明るい声をだした。
「沢野、もしかして演劇部だったとか?」
「どうだろ」
沢野は窓の外を眺める。
「沢野が役者だったら、絶対人気出てたと思う」
「なんで?」
沢野が静かに聞き返す。俺は何気なく答えた。
「だって、すごく綺麗だから」
言った瞬間、自分で固まった。しまった、と思った。頭より先に口が動いていた。
一瞬の静寂。遠くで風が窓を鳴らした。
「……ありがと」
小さな声。
恐る恐る顔を上げる。沢野は少し照れたように笑っていた。月明かりが頬を白く照らしている。本当に綺麗だった。
「沢野が、生きてる時に出会いたかった」
気づけば、そんな言葉がこぼれていた。沢野の目が少し見開かれる。
「俺がここに来れるのは、東条祭の当日までだ」
「……うん」
「沢野はしょうがないって言うけど、俺は嫌だ。会えなくなるの、嫌だよ」
言葉にするほど、自分の感情がはっきりしていく。沢野と一緒にいたい。その気持ちだけが、胸の中で大きく膨らんでいく。
沢野はしばらく黙っていた。そして口を開く。
「僕も、黒崎とずっと一緒にいられたらって思うよ」
その声は悲しいほど優しかった。
「でもさ、僕たちって違うじゃん」
沢野はゆっくり言葉を選ぶように話す。
「僕は曖昧な場所にいる。でも黒崎はちゃんと現実を生きてる。黒崎と話してるとわかるよ。黒崎は特別な人だ。きっとこれからもずっときらきらした人生を送る人だからさ」
真っ直ぐ見つめられる。
「だから黒崎は、現実を優先しなきゃだめだよ」
胸が冷えていく。
「そのほうが、僕も嬉しいから」
沢野は正しい。でも俺は正しいことなんてもう、うんざりなんだ。
「沢野も、俺をつきはなすんだな」
子供じみた捨て台詞だった。でも、ここで大人の顔をして別れるなんてできなかった。俺が今どんなに傷ついたかわかってもらいたかった。
「ごめん、そんなつもりじゃ……」
沢野の慌てた声だけ聞いて背中を向ける。
「……明日、部室行ってみる。教えてくれてありがとう」
やっとそれだけ言って逃げるみたいに扉へ向かった。
「黒崎――」
振り返れなかった。振り返ったら、多分戻ってしまう。
本物の幽霊と仲良くなれて、自分がホラー映画の主人公になったみたいだった。沢野といる時だけは、東条祭の準備に対するプレッシャーや、息苦しい家から解放されている気がした。幽霊と秘密を共有する、その非日常に酔っていただけなのかもしれない。俺は沢野に逃げて、彼の優しさに甘えていた。
だけど、どんなに逃げても、俺が生きているのはこの現実なのだ。
だから、沢野の言うことは正しい。でも、その正しさを彼本人から伝えられたことが、ひどく悲しかった。
ロミオとジュリエットは、住む世界が違うのに激しく恋をしてしまった。そして無謀な恋の末に若くして死んでしまう。お互い、それぞれに相応しい場所で暮らし、相応しい相手と結婚し、子孫を残せば、きっと穏やかな人生を送れたはずなのに。
――いや、違うな。
俺の状況はもっと悲惨だ。
ロミオだけがジュリエットを忘れられないんだ。ジュリエットは予定通り婚約者のパリスと結婚し、ロミオはティボルトを刺し殺した罪で町を追われる。
そんな気持ちだ。
ジュリエットは何事もなかったように別の誰かと生きていくのに、ロミオだけがジュリエットを忘れられないまま、ひとり罰を受け続ける。
(やっぱり俺は沢野が好きなんだな)
俺はこれまでほとんど恋をしたことがなかった。今まで女の子に抱いてきた恋心も今となっては友情の延長線だったような気がする。沢野は男だし、幽霊だし、恋をするなんて思わなかった。そしてこの気持ちは恋だと気づいた時にはもう遅かった。俺は好きになってはいけない相手を好きになってしまった。重く沈んだ足を引きずるように、体育館へ戻る廊下を歩いた。
