東条祭まであと10日(水曜日)
今日はいつもより早く起きた。急いで支度をして、台所にいるであろう母に顔を出す。
「あら? 今日は早いね」
母親は両手に目玉焼きが乗った皿を持っている。テーブルには家族三人分のトーストが並んでいた。父親はいない。
「うん、ちょっと早く出る」
「昨日言ってくれればよかったのに」
「ごめん。昨日、寝る前に学校の用事を思い出して。朝にやっておきたかったから」
「せっかくごはん作ったのに」
「急いで食べるよ」
大口でトーストと目玉焼きを食べると、息が詰まりそうになる。苦しそうな俺を見た母親が笑いながら牛乳の入ったコップを差し出す。俺はそれを一気飲みして、ほっと息を吐いた。
「どうしたの?」
母が笑いながらそう言った。
「どうって?」
「なんか久しぶりに悠馬の明るい顔見たから」
「えっ? 別に何もないよ」
「そう?」
何もやましいことはないのに、いたたまれない気持ちになって母から顔を背ける。
俺は「じゃあ、行ってくる」と言って足早に玄関を出た。
「いってらっしゃい」
背後からした声はまだ笑っていた。俺は得体の知れない恥ずかしさで、顔が赤くなるのを感じた。
校庭にはまだほとんど生徒の姿が見えない。朝練に勤しむ数名の運動部員の姿がある程度だ。
グラウンドを通って校舎の裏にまわり、理科準備室を下から見上げる。昨日のカーテンがガラス窓越しに見える。
「おーい」
俺は手を筒状にして口に当て、控えめな声で叫んだ。
変なことをやってる自覚はある。大声で叫べば誰か来るかもしれない。でも、小声で言っても沢野には聞こえないかもしれない。
何も起きない。もう一度声をかけてみる。
「そこにいる?」
さっきより少し大きな声を出した。
やっぱり変わらない。
(ダメか)
そう思った時、微かにカーテンが揺れた気がした。
俺はじっと見つめる。頭の中で強く念じる。
返事してくれ!
さっきよりもカーテンが揺れた。窓は開いていない。誰かがカーテンを触っている様子もない。
やっぱり沢野は、ずっとそこにいるんだ。
夜だけじゃない。ずっとそこにいる!
俺はにやける口元を必死で抑えながら、理科準備室を目指す。
廊下を足早に歩いていると先生とすれ違い、「どうしたんだ、こんな早くに」と不審がられたが、「東条祭の準備でーす」と答えながら去っていくと、「あんま無理すんなよー」と言われた。
こういう時に言い訳をすんなり信じてもらえるのが優等生の強みだ。
理科準備室の前に来ると、深呼吸をして気持ちを整える。周りを見回して扉に手をかける。
(開け!)
ゆっくりと扉を引く。鍵がかかっている可能性の方が高い。開かなくてもともとだ。
しかし、するすると開いていく。
俺は信じられない思いで途中まで開けると、もう一度周りを見渡し、誰もいないことを確認して急いで中に入り、扉を閉めた。
朝の光を浴びたカーテンは、夜とはまた違う輝きを放っていた。光の粒がカーテンを彩り、ラメみたいにきらきら輝いている。
そこに人影はない。しかし、ふわっとカーテンが揺れた。人影はないのに、俺には確かにそこに沢野がいて、こちらを見ているように感じた。
「いる?」
カーテンが揺れる。
俺は無意識ににやける口元を必死で抑える。
「また今夜来るよ」
また揺れる。
ドアの外に人がいないことを確認して廊下へ出る。
ふと顔を上げると、隣のクラスの生徒がちょうど階段を上がってきたところで、数メートルの距離で目が合う。
(理科準備室から出てきたの、バレたかな)
俺はなんでもない風を装って「おはよう」と声をかける。相手も特に気にする様子はなく、「おはよう」と返す。それで終わった。不審がっている様子もない。
俺は叫びたかった。
みんなが「安心安全な優等生」だと思っている黒崎は、今日朝早くに鍵のかかった理科準備室へこっそり忍び込んだんだ!こんなくだらないことなのに、とても気持ちよかった。
きっと誰にも理解されないかもしれない。大人になって、この幽霊のこともどうでもよくなった時、バカなことをしたと思うかもしれない。それでも今の俺には、危険を冒しても会いたい人がいることが、すごく誇らしかった。
ロミオもこんな気持ちだったのかもしれない、なんて思ったりした。
昼休みは図書室へ行って、インターネット利用の申し込みをする。
俺のスマホは通信量が制限されているため、自由に使えない。図書室のパソコンは建前上「勉強に関することだけ」という決まりはあるが、申し込みをすれば一時間インターネットを使用することができる。
まず、幽霊が一定の場所から動けないということは、呪縛霊の可能性がある。
しかし、呪縛霊に関する情報は「なぜ呪縛霊になるのか」「呪縛霊を成仏させるには」といったものしかなく、「呪縛霊を動けるようにするにはどうするか」という情報は皆無だった。
まぁ当たり前か。
そして、ずっと調べておきたいと思っていたことを、この機会に調べておく。
「科学 幽霊」「脳 幽霊」で検索する。
沢野は、俺が作り出した現象ではないのか? ということだ。しかし、科学的に説明できる霊現象と沢野は全く違う。風もないのに揺れるカーテンや、黒い人影くらいならまだわかる。しかし俺は、しっかりとした人間に近い幽霊と会話までしているのだ。
俺の脳が、これまでの記憶の中の名前や色々な人の顔、エピソードをごちゃ混ぜにして沢野という存在を作り出し、幻覚として見て会話している可能性はある。
だが、やはり一番説明がつかないのは、鍵がかかっているはずのドアが開いたり、また鍵がかかったりする現象だろう。
やっぱり沢野は「いる」のだ。
どこかほっとしている自分がいる。
科学的に見て幽霊はいません、という言葉に安心する人はいても、幽霊が存在していることにほっとする人なんて、ほとんどいないだろう。俺は自分がおかしくて、声に出して笑ってしまいそうになった。
口を押さえて、パソコン越しにカウンターに座っている学校司書の女性を見る。
厳格な彼女は、いつも生徒を見張るように目を光らせている。少しでもおしゃべりをすれば注意し、このパソコンも娯楽目的で使っていないか常に監視している。
しかし、姿勢良く難しい顔をしながらパソコンを見ている俺には、すっかり警戒を解いているようで、カウンター内のパソコンで事務作業に集中していた。
俺はこの状況もなんだかおかしくなって、また笑いそうになったので、早々に席を立ち、真面目な顔をして「ありがとうございました」と司書に会釈をして図書室を出た。
そして廊下を通り、人通りの少ないところまで来て、抑えてきたものを吐き出すように笑った。
今日はいつもより早く起きた。急いで支度をして、台所にいるであろう母に顔を出す。
「あら? 今日は早いね」
母親は両手に目玉焼きが乗った皿を持っている。テーブルには家族三人分のトーストが並んでいた。父親はいない。
「うん、ちょっと早く出る」
「昨日言ってくれればよかったのに」
「ごめん。昨日、寝る前に学校の用事を思い出して。朝にやっておきたかったから」
「せっかくごはん作ったのに」
「急いで食べるよ」
大口でトーストと目玉焼きを食べると、息が詰まりそうになる。苦しそうな俺を見た母親が笑いながら牛乳の入ったコップを差し出す。俺はそれを一気飲みして、ほっと息を吐いた。
「どうしたの?」
母が笑いながらそう言った。
「どうって?」
「なんか久しぶりに悠馬の明るい顔見たから」
「えっ? 別に何もないよ」
「そう?」
何もやましいことはないのに、いたたまれない気持ちになって母から顔を背ける。
俺は「じゃあ、行ってくる」と言って足早に玄関を出た。
「いってらっしゃい」
背後からした声はまだ笑っていた。俺は得体の知れない恥ずかしさで、顔が赤くなるのを感じた。
校庭にはまだほとんど生徒の姿が見えない。朝練に勤しむ数名の運動部員の姿がある程度だ。
グラウンドを通って校舎の裏にまわり、理科準備室を下から見上げる。昨日のカーテンがガラス窓越しに見える。
「おーい」
俺は手を筒状にして口に当て、控えめな声で叫んだ。
変なことをやってる自覚はある。大声で叫べば誰か来るかもしれない。でも、小声で言っても沢野には聞こえないかもしれない。
何も起きない。もう一度声をかけてみる。
「そこにいる?」
さっきより少し大きな声を出した。
やっぱり変わらない。
(ダメか)
そう思った時、微かにカーテンが揺れた気がした。
俺はじっと見つめる。頭の中で強く念じる。
返事してくれ!
さっきよりもカーテンが揺れた。窓は開いていない。誰かがカーテンを触っている様子もない。
やっぱり沢野は、ずっとそこにいるんだ。
夜だけじゃない。ずっとそこにいる!
俺はにやける口元を必死で抑えながら、理科準備室を目指す。
廊下を足早に歩いていると先生とすれ違い、「どうしたんだ、こんな早くに」と不審がられたが、「東条祭の準備でーす」と答えながら去っていくと、「あんま無理すんなよー」と言われた。
こういう時に言い訳をすんなり信じてもらえるのが優等生の強みだ。
理科準備室の前に来ると、深呼吸をして気持ちを整える。周りを見回して扉に手をかける。
(開け!)
ゆっくりと扉を引く。鍵がかかっている可能性の方が高い。開かなくてもともとだ。
しかし、するすると開いていく。
俺は信じられない思いで途中まで開けると、もう一度周りを見渡し、誰もいないことを確認して急いで中に入り、扉を閉めた。
朝の光を浴びたカーテンは、夜とはまた違う輝きを放っていた。光の粒がカーテンを彩り、ラメみたいにきらきら輝いている。
そこに人影はない。しかし、ふわっとカーテンが揺れた。人影はないのに、俺には確かにそこに沢野がいて、こちらを見ているように感じた。
「いる?」
カーテンが揺れる。
俺は無意識ににやける口元を必死で抑える。
「また今夜来るよ」
また揺れる。
ドアの外に人がいないことを確認して廊下へ出る。
ふと顔を上げると、隣のクラスの生徒がちょうど階段を上がってきたところで、数メートルの距離で目が合う。
(理科準備室から出てきたの、バレたかな)
俺はなんでもない風を装って「おはよう」と声をかける。相手も特に気にする様子はなく、「おはよう」と返す。それで終わった。不審がっている様子もない。
俺は叫びたかった。
みんなが「安心安全な優等生」だと思っている黒崎は、今日朝早くに鍵のかかった理科準備室へこっそり忍び込んだんだ!こんなくだらないことなのに、とても気持ちよかった。
きっと誰にも理解されないかもしれない。大人になって、この幽霊のこともどうでもよくなった時、バカなことをしたと思うかもしれない。それでも今の俺には、危険を冒しても会いたい人がいることが、すごく誇らしかった。
ロミオもこんな気持ちだったのかもしれない、なんて思ったりした。
昼休みは図書室へ行って、インターネット利用の申し込みをする。
俺のスマホは通信量が制限されているため、自由に使えない。図書室のパソコンは建前上「勉強に関することだけ」という決まりはあるが、申し込みをすれば一時間インターネットを使用することができる。
まず、幽霊が一定の場所から動けないということは、呪縛霊の可能性がある。
しかし、呪縛霊に関する情報は「なぜ呪縛霊になるのか」「呪縛霊を成仏させるには」といったものしかなく、「呪縛霊を動けるようにするにはどうするか」という情報は皆無だった。
まぁ当たり前か。
そして、ずっと調べておきたいと思っていたことを、この機会に調べておく。
「科学 幽霊」「脳 幽霊」で検索する。
沢野は、俺が作り出した現象ではないのか? ということだ。しかし、科学的に説明できる霊現象と沢野は全く違う。風もないのに揺れるカーテンや、黒い人影くらいならまだわかる。しかし俺は、しっかりとした人間に近い幽霊と会話までしているのだ。
俺の脳が、これまでの記憶の中の名前や色々な人の顔、エピソードをごちゃ混ぜにして沢野という存在を作り出し、幻覚として見て会話している可能性はある。
だが、やはり一番説明がつかないのは、鍵がかかっているはずのドアが開いたり、また鍵がかかったりする現象だろう。
やっぱり沢野は「いる」のだ。
どこかほっとしている自分がいる。
科学的に見て幽霊はいません、という言葉に安心する人はいても、幽霊が存在していることにほっとする人なんて、ほとんどいないだろう。俺は自分がおかしくて、声に出して笑ってしまいそうになった。
口を押さえて、パソコン越しにカウンターに座っている学校司書の女性を見る。
厳格な彼女は、いつも生徒を見張るように目を光らせている。少しでもおしゃべりをすれば注意し、このパソコンも娯楽目的で使っていないか常に監視している。
しかし、姿勢良く難しい顔をしながらパソコンを見ている俺には、すっかり警戒を解いているようで、カウンター内のパソコンで事務作業に集中していた。
俺はこの状況もなんだかおかしくなって、また笑いそうになったので、早々に席を立ち、真面目な顔をして「ありがとうございました」と司書に会釈をして図書室を出た。
そして廊下を通り、人通りの少ないところまで来て、抑えてきたものを吐き出すように笑った。
