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黒崎を初めて見た時のことを、僕は今でもはっきり覚えている。
高校二年生になったばかりの春の終わり。 高校生活にもすっかり慣れて、毎日をなんとなく消費するように生きていた頃だった。
昼休み、購買部には行列ができる。美味しいと評判のパン屋から学校に納品されているパンは、店主の気前の良さで店頭より五十円安く買うことができる。それを目当てに、販売時間の12時を過ぎると人だかりができる。僕はあまり食に興味がなくて、それを遠くから見ている。自販機でカフェオレを買う。春といえど今日は日差しが強く、自販機の横にできた影に避難する。いつも昼食を一緒に食べている佐々木は、お気に入りのちくわパンとアップルパイを絶対にゲットするのだと意気込んで並んでいるが、売店のパンはどんどんと売り切れていく。行列の真ん中あたりから首を伸ばしてお気に入りのパンが残っているか確認している佐々木が面白くて、ずっと眺めていられる。
しかし、ふとその後ろに目を移した時、そこにいたある生徒に目が釘付けになった。
黒髪の短髪。派手ではないが整っている顔。静かで涼しい目はどこか周りを俯瞰して見ているようにも見える。しかし、冷たい印象は受けない。何気ない仕草が妙に綺麗だった。周りの友人たちに微笑みかけながらも、姿勢正しく凛と立っている姿が美しくて、そこだけ空気が変わっているように見えた。
なんでだろう。目が離せなかった。
「沢野!待たせた!」
「うわっ!」
ふいに佐々木に声をかけられ声を上げる。
「なんだよ、こっちがびっくりするわ」
「ごめんごめん……で、買いたいものは買えた?」
「ちくわパンは買えた!アップルパイはもっと早く来ないとだめだなぁ」
しょんぼりとした佐々木に、僕はダメもとで聞いてみる。
「あの人って知ってる?ほら、手にウーロン茶持ってて、今パンを手に取った……」
しょんぼり顔の佐々木は、その表情のまま目線を上げる。
「ああ、黒崎?」
「えっ知ってんの!?知り合い!?」
僕があまりにも必死に聞いたので、佐々木はアップルパイが買えなかった残念な気持ちが吹っ飛んだようで、おろおろしながら僕の顔を見た。
「知り合いなわけあるか。相手は地元の有名人だぞ。沢野は知らない?」
僕は黒崎から目を離せずに頷いた。
「一年の黒崎。めっちゃ金持ちの息子で文武両道。中学時代は剣道の県大会で優勝してるし、入学試験も最高得点で、入学式は新入生代表のあいさつをしたらしい」
「めっちゃ詳しいじゃん」
「まあゴシップ好きはこんくらい知ってるよ」
僕たちは教室に向かって歩き出す。
「なんか住む世界違うって感じだよな」
佐々木がため息をつきながら横目で黒崎を見る。僕も佐々木の肩越しにもう一度黒崎を見る。
「あっ、悪い。沢野も芸能人の息子だから俺と一緒にされてもって感じだよな」
「お前それいじってるだろ」
僕たちは顔を見合わせて笑った。そして、その時僕はまた少しだけ黒崎を見た。
僕の母は俳優だった。深夜ドラマの脇役などによく出ていて、まあまあ売れていた時期もあるらしいが僕は知らない。僕を産んですぐにシングルマザーになって、今は舞台を中心に活躍している。
僕は舞台上の母が好きだった。母はエネルギッシュな人だったが、演技をしている時はもっと生命力にあふれてきらきらしていた。いつも家で見る母親の顔をした彼女とは別人だった。
「舞台ってね、魔法なの。たった数時間で、人を別の世界へ連れていけるの」
母はよくこんな話をしてくれた。僕はその話が好きだった。
小さい頃にはよく舞台裏に連れていってもらった。共演者やスタッフたちはみんな僕を可愛がってくれた。照明の熱。メイク道具の匂い。開演前のざわめき。全部が特別に思えた。ちなみに僕の初恋は、この時に僕を何回も抱っこしてくれたイケメン俳優だった。おそらく僕が面食いになったのは、初恋がここだったせいもありそうだ。
小学生になれば母の舞台を見に何度も劇場に訪れた。その中で芸能事務所に入ってみないかという話をもらい、僕の子役としてのキャリアがスタートした。
母に憧れていた。母みたいになりたかった。最初は台詞を覚えるのも、オーディションも楽しかった。
でも現実は厳しい。僕は売れなかった。何本か小さな舞台には出た。CMや再現ドラマの端役もやった。でも、それだけだった。
「個性が弱いね」 「悪くないけど印象に残らない」
そんなことを何度も言われた。そのたび、僕は笑って「はい」と答えた。でも本当は少しずつ傷ついていた。
中学に入る頃には、もうわかっていた。自分は特別な人間じゃない。高校受験を理由に芸能活動を辞めた時、母は少し悲しそうだった。
「後悔しない?」
「うん」
僕が母に「自分は男の人が好きかもしれない」と告白した時、彼女は顔色ひとつ変えなかった。「そっか」と言った後「私みたいに悪い男にはひっかからないでよ」と笑った。そんな母だったから、この時の悲しそうな顔はずっと忘れられない。きっと僕が俳優の道をあきらめたのが本当に悲しかったんだ。
僕だってあのきらきらした世界にいられなくなるのは正直さびしい。でも少しだけ、ほっとしていた。もう自分に期待しなくて済む。
高校へ入ってからの僕は、本当に普通だった。目立たないグループで適度に笑って、適度に話して。誰の記憶にも残らないまま日々が過ぎていく。そういう穏やかな生活も悪くないと思いはじめていた。
黒崎はあっち側の人間だ。僕とは違う、きらきらした世界の人。彼に恋をしたとしても、きっと悲しいだけだ。男の自分を好きになる確率だって低いのに、住む世界が違うのならなおさらだ。
だから、これはただの憧れみたいなものだと自分に言い聞かせた。
憧れの世界は遠くから見るくらいがちょうどいい。
