放課後。東条祭の準備が始まる。
ロミオとジュリエットの名シーンの一つにバルコニーに出たジュリエットと外の物陰に隠れたロミオ、二人が密会を楽しむシーンがある。吉川はそのバルコニーを作っていた。段ボールを使って試行錯誤している。手先が器用で、こういう工作も意外と上手い。
「――って話を田中に言われたんだけど。どう思う? 俺は全然、田中の配役合ってると思うんだけど」
俺は吉川の隣に座り、昼休みに田中から相談されたことを話した。教室の床に部品を並べ、接合前の最終確認をしていた吉川は、視線を落としたまま答える。
「私もそう思う。ジュリエット役は絶対、田中ちゃんだよ」
「でもさ、本人のモチベーションが下がってるんだよ。俺にはどう説得すればいいかわからん」
「そっか。じゃあ、私に任せて」
「えっ、いいの?」
「男どもにはわかんないのよ。女の子のことは。田中ちゃんが最高のジュリエットなんだって、私がわからせてやるから。吉川様の手腕を見てらっしゃい」
そう言って、吉川は俺の背中をばんばん叩いた。妙な頼もしさがある。今日は田中の姿は教室にないが、またジュリエット役としてやる気を出してくれるだろう。
そんな吉川の横で、俺は紙粘土と一時間ほど格闘して短剣を作っていた。
田中の件が少し落ち着くと、またあの幽霊のことが頭をよぎる。俺はそれを振り払うように作業へ集中する。昨日の夜から、俺の頭の中にはあの幽霊が住み着いてしまっていた。ふとした瞬間に俺をじっと見ていた目を思い出す。何か俺に訴えかけるような、俺は特別な存在なんじゃないかと感じてしまうような強い視線。早く忘れてしまった方がいいのかもしれない。それなのに、忘れようとすればするほど、もう一度会ってみたいという好奇心もむくむくと湧いてくる。
(あの幽霊に取り憑かれちゃったのか?)
こんな感情になったことがなく、俺自身どうしていいかわからなかった。
「これ、短剣に見える?」
俺はダメ元で、自称“短剣”を吉川に見せる。
「見えない。皮を剥いたバナナみたい」
手を真っ白にしながら作った作品は、どうやら駄作らしい。
しかし、吉川はその皮を剥いたバナナをじっと観察する。
「手で形作っただけだからちゃちく見えるんじゃない?乾かして硬くなったら、カッターで刃先を削って尖らせて、全体をやすりで滑らかにして、最後に色塗れば、遠目には短剣っぽく見えるかも」
「なるほど」
「吉川すごいな。俺、そんなの思いつかなかった」
吉川は得意げに親指を立てた。
「私、そういうの好きだから。これどうしたらもっと良くなるだろうとか、可愛くなるだろうとか、私に似合うだろうとか、ずっと考えてる」
彼女の爪には小さな飾りがたくさん付いていた。ピンクの下地の上に、パールやきらきらした石がジェルで固められている。よくこんな爪で生活できるな、と感心する。
「ちなみにこれも自作」
吉川が自身のスマホの背面をみせる。爪同様、彼女のスマホケースもスマホ本体が埋もれるほどごてごてとピンクのもので装飾されていた。
「あっ、ついてにこれも見てもらおうかな」
吉川はスマホを操作し、俺に画面を見せる。
そこには、プロの俳優たちが『ロミオとジュリエット』を演じている舞台写真が映っていた。画面をスライドすると、歴代の俳優たちによる名シーンが次々と現れる。
「これ集めたんだ」
「ネットの拾い画だけどねぇ」
吉川は楽しそうに続ける。
「この話ってさ、ストーリーそのものが面白いっていうより、印象的なシーンがいっぱいあるのが魅力って感じじゃない? あっ、異論は認める。私はそう思うってだけね」
そして、スマホ画面を指差した。
「その中でも、やっぱロミジュリって言ったら、この『ああ、ロミオ。あなたはどうしてロミオなの』って、ジュリエットがバルコニーから言うシーンじゃん?下にはロミオがいてさ」
吉川は身振り手振りを交えながら熱弁する。
「大きい舞台なら、本当に高いバルコニーを大道具さんが作るんだろうけど、うちらには無理じゃん?だから思ったわけ。バルコニーの柵だけ作るの」
「うん」
「舞台は真っ暗。右端にジュリエット、その前にバルコニーの柵。左端にロミオ。ジュリエットは下を向いて話しかけて、ロミオは上を向いて話しかける。で、二人だけにスポットライトを当てるの。そうすれば二人の高低差を演出できるっしょ」
「いいね。体育館の壇上のライトで、スポットライトみたいにできるか聞いてみようか?」
俺がそう言うと、吉川は、眉をへの字に曲げて唇を突き出した。
一瞬で不機嫌になったのがわかる。
「そんなの、もう聞いたよ。上の蛍光灯は、一斉につけるか消すかしかできないって」
「じゃあダメじゃん」
「だからさ、自分たちでスポットライト持ってくるしかない!」
「持ってるの?」
「持ってない!」
吉川は机をばんっと叩いた。
「黒崎って人脈ありそうじゃん。舞台関係に知り合いとかいないの?」
「いるわけないだろ」
「ああもう!予算少なすぎ!」
幼児みたいに駄々をこねる吉川に、俺は呆れた視線を向ける。
「他のクラスも同じ予算で喫茶店とかお化け屋敷とかやってんの。そこそこのもん完成させるには妥協しなきゃ」
「そこそこのもんって。せんせーみたいなこと言いやがる」
俺のつまらない小言に、吉川は背を向け、そのまま床へ寝転がった。
「おいおい、その短いスカートでそんな寝転び方するな」
「どうせ黒崎しか見てないし」
「俺が見てるのが問題だろ」
「なんか黒崎って、モテるのにモテないよね」
「なんだよそれ」
吉川はこちらへ向き直り、肘をついて頭を支えながら俺を見上げる。
俺の方が立場的には見下ろしているのに、なぜか吉川の方が威圧的に見えた。
「なんかさ、付き合うまではめちゃくちゃいい男に見えてたのに、付き合ったら思ってたんと違うってなりそう」
「それ悪口じゃん」
「んー、そうでもないよ。なんか黒崎って、私のパンツ見ても何も思わなさそうっていうか」
「まあ、何も思わないね」
「人を好きになったことある?この女エロっ!とか思ったことある?」
俺は過去を思い返す。だが、ここで何を答えても、吉川に言い負かされる未来しか見えなかった。
「教えない」
「えーん。黒崎くんがいじわるする!」
吉川が顔を覆って泣き真似をする。こんなくだらない話をしている場合じゃないんだけど。
俺はゆっくり立ち上がり、手に持っていた短剣もどきをそっと机の上へ置いた。しばらくここで乾かそう。
教室の窓は開いている。白いカーテンが、ゆらゆらと揺れていた。時計の針は午後八時を指している。
「ちょっと手、洗ってくる」
俺は教室を出た。手を洗いたかったのは本当だ。でも、それを口実に教室を出たかったのも事実だった。
――あの理科準備室へ行くために。
教室から少し離れた廊下の手洗い場で手を洗う。冷たく柔らかな水が、皮膚の上を滑っていく。石鹸のいい香りが鼻をくすぐる。ハンカチで手を拭きながら顔を上げると、昨日と同じ光景が広がっていた。
今朝、目を覚ました時は、昨日の出来事は夢だったのかもしれないとぼんやり考えていた。だが、意識がはっきりするにつれ、あれは現実だったのだと思いなおした。
午前の授業中も、ずっとそのことを考えていた。昼休みには理科準備室を確認しに行った。その後も、今この瞬間も、ずっとカーテンの幽霊のことを考えている。
そして今、昨日の出来事が鮮明によみがえる。昨日からずっと脳裏にいた幽霊の姿が、だんだん輪郭を持っていく。
(また会いたい)
もう一度会って、俺が見たものが何だったのか確かめたい。俺の足は、迷いなく理科準備室へ向かっていた。
部屋のネームプレートは相変わらず暗くて見えない。でも、理科準備室の場所はわかる。その部屋だけ扉が開いていて、廊下へ綺麗な月明かりが差し込んでいたからだ。
高鳴る胸を押さえながら、部屋を覗き込む。
――いた。
一応、声を掛けてみる。
「いる?」
カーテンの端から顔が覗く。
「いるよ」
俺の気持ちの変化のせいか、彼は昨日より人間らしく見えた。そのせいで、恐怖心がさらに薄れていくのがわかる。俺は無言のまま歩み寄った。幽霊は困惑したような顔で、わずかに後ずさる。生きてる人間みたいな反応。ますます恐怖心がなくなっていく。その代わり、胸の中は好奇心でいっぱいになる。
二人の距離が数十センチほどになった時、俺は改めて思う。
(普通の人間みたいだ)
昨日は「幽霊」という固定観念のせいで不気味に見えていた青白い肌は今日は血色よく見える。長い前髪の隙間からはあの綺麗な目が見えている。全体的に柔らかい印象を与える雰囲気をしている。これが本当に幽霊なんだろうか?
「幽霊なの?」
幽霊に向かって「幽霊なの?」と尋ねている状況は、傍から見れば馬鹿みたいだろう。でもそれくらい幽霊に見えなかった。彼は自分の体をまじまじと見下ろした。その仕草があまりにも人間らしくて、少し笑いそうになる。彼の柔らかい印象も相まって魅力的でもある。
「そうなのかな?」
「いつからここにいるの?」
「たぶん、少し前かな」
「ずっとここにいるの?」
「わかんない」
俺の好奇心はどんどん膨らんでいく。そもそも、幽霊ってこんなに意思疎通できて、普通に会話するものなのか?
「ここの鍵を開けてるのも君なの? いつもは鍵かかってるだろ?」
「そうなのかな?」
「そうだよ。だって俺、昼間あの扉を――」
そこまで言って、俺は振り返った。さっき入ってきた扉を指差そうとしたのだ。
だが、その扉は閉まっていた。俺は早足で扉へ駆け寄り、引き戸に手を掛ける。鍵がかかっている。
「鍵かかってる。お前がやったのか?」
やっぱり、俺を誘い込んで悪さをしようとしてるヤバい幽霊なのか?
「違う違う。僕は何もしてないよ。鍵を開けたこともないし、扉を開けたこともない。ただ、ずっと……ここにいるだけ」
狼狽えて弁明する姿も、最後に少し寂しそうに視線を落とす様子も、あまりにも人間らしかった。
俺は疑り深い人間だから、彼が“いい幽霊”なのか“悪い幽霊”なのか、まだ決めきれない。でも、どこかで「そんなことどうでもいい」と思い始めている自分にも気づいていた。静かな視線だけが交わされる。
俺は彼へまた近づく。その足取りはさっきとは違っていた。一歩一歩、確かめるように、彼へ近づきたいと思いながら歩く。
カーテンの前まで来る。カーテンに包まれた幽霊は、俺をじっと見つめたまま動かない。
彼まであと一メートル。あと五十センチ。そして俺は、カーテンの端を持ち上げた。彼と同じように、カーテンの中へ入り込む。
本当におもしろい状況だ。俺の感覚では、二人の男がカーテンに包まれている。体と体が触れ合っているはずなのに、隣の彼は俺の目に見えているのに、物体としてそこに存在していない。俺は手に持っていたカーテンの端をさらに巻き込み、その中をより密にした。
もう数センチ先に幽霊の顔がある。そして、俺の体に触れているのはカーテンだけ。彼も俺の行動を不思議に思っているのか、その綺麗な目をずっと見開いて俺を見ている。
ふと、空気がひどく澄んでいることに気づく。ここは教室の中より、家の中より、息がしやすかった。誰も俺に干渉しない。誰も俺に命令しない。でも、ひとりじゃないから寂しくない。逆に言えば、俺はずっと息苦しい場所で生きていたのだと再確認した。
「こんなに生きてるみたいなのに」
また彼へ手を伸ばし、目の前にある形を掴もうとして空を切る。信じられなくて、バカみたいな行為を何度も繰り返す俺を見て、ついに幽霊がぷっと噴き出した。
「何回やっても掴めないよ」
「いや、なんか本当に不思議で」
「ほら、僕もカーテンを掴めない」
幽霊はひょいっと目の前のカーテンを掴もうとする。しかし、カーテンは微動だにせず、彼の手だけが空を何度も掴んだ。
「そっか。君もこっちの世界のものを掴めないのか」
「そう。だから僕も――」
幽霊は、さっきまでカーテンを掴もうとしていた手を、ふいに俺の前へ持ってくる。その手は俺の頬に優しく触れた。いや、触れたように思っただけで、何の感触もない。
「君に触れられない」
俺はほんとうに、この幽霊を愛おしく思った。特に理由はない。ただ、そう思った。
「……俺の名前は黒崎」
幽霊はそれを聞いて、また驚いた。そのあと、少し嬉しそうにはにかんで「黒崎くん」と言った。
「黒崎でいいよ。君は?」
幽霊は少し考えるような顔をした。
「えっと……わからない」
「何にも覚えてない?生きてる時の記憶とか」
「うん……」
「ここが学校だとかこれがカーテンだとかはわかる?」
「あっ、うん、そうかな」
「じゃあ、意味記憶はあってエピソード記憶がない状態だ。出来事や体験は忘れてるけど、日常で使ってたものの知識や名前なんかは覚えてるっていう。例えば……」
幽霊は早口でまくしたてる俺をしばらくじっと見ていたが、その後くすくすと笑い出した。今の話の何がおかしかったのだろう。俺が怪訝そうな顔をしていると彼は「ごめんごめん」と謝った。
「なんか黒崎って見た目と中身が全然違うっていうか」
「どう違う?」
「見た目はめちゃくちゃクールなイケメンって感じなのに、喋り方が面白い…なんていうか」
「オタクっぽい?」
「いや、そういうわけじゃないけど……ふふふ」
俺はさっきの吉川の「モテるけどモテない」と言う言葉を思い出した。不貞腐れた俺は少し視線を落として、ある発見をした。
「沢野だ」
「えっ!?」
俺が幽霊をみるとさっきまで笑っていた顔は一変して心底驚いた表情で固まっていた。その驚き方に俺の方がびっくりした。
俺は彼の胸の辺りを指した。
「今、君が着てるのはここの制服。胸に名字が刺繍してある。君が誰かの服を借りているんじゃなければ、沢野って名前なんじゃない? あと、数年前に微妙に制服が変わったんだけど、その制服は新しいやつ。だからここ何年か……五、六年前くらいかな。君が亡くなったのは、そんなに昔じゃない」
彼はじっと自分の胸にある刺繍を見て、「……ああ、そうか」と呟いた。
「なんか思い出した?」
「思い出せそうだけど……まだよくわからない」
沢野がうつむく。せっかく名前が判明したのに、逆にがっかりさせてしまったかもしれない。
「黒崎が僕のこと知ってたのかと思った」
きっと俺と沢野が知り合いだったら何か思い出すきっかけがきけるかもしれないと思ったのだろう。沢野は自分の名前の刺繍を見ながら少し微笑んだ。でも、その微笑みは少し悲しそうでなにか言わなくてはと思った。それなのに、気の利いた言葉ひとつでてこない俺が焦っていると沢野が小さく呟いた。
「黒崎のこと教えてくれたら、なにか思い出せるかも」
「なんでだよ」
「別に本当になにか思い出したいってわけじゃない。ただ僕の暇つぶしに付き合ってよ。」
「えー」
沢野はくすくす笑いながら、俺が口を開くのを待っている。
「俺は一年A組で学級委員長をやってる。で、あと二週間後には東条祭……東条祭はわかる? まあ文化祭みたいなもので、うちのクラスは演劇をやるんだ。それで、この時間まで残ってる。ほら、普段はこの時間って誰もいないだろ?でも東条祭の二週間前からと東条祭当日は九時まで学校があいてるんだ。気づいてた? へぇ、気づいてなかったんだ。人がいるから、この部屋のドアを開けたのかと思った。なるほど、本当にここの扉を開けたり閉めたりは沢野がやってるわけじゃないんだ。あーそれで、えっと、向こうの教室で芝居の練習したり道具作ったりしてる。『ロミオとジュリエット』。いやぁ、全然ダメ。やっぱり演技をしたこともない素人がやるのはけっこう大変。俺は一応、学級委員長ってことで……みんなをまとめる役みたいなことやってる。演者とか舞台セット担当の進捗もちゃんと確認しとかないと、あいつらだらだらして全然進めないから」
俺がベラベラ喋るのを、沢野はずっと相槌を打ちながら聞いていた。
「委員長、大変そう」
「大変だけど……まあ、なったからにはちゃんとやらないとね」
「えらいね」
「えらくないよ。当たり前のことやってるだけ」
「でも、当たり前のことをできない人って多いじゃん。えらいよ」
俺は少し恥ずかしくなって、ははっと笑った。
この「えらいね」は、ただの相槌の一種だ。だけど嬉しかった。こんなにまっすぐ褒められるなんて久しぶりだった。俺は、できて当たり前で、失敗したらみんなをがっかりさせる人間だったから。
「なんだろ。俺って、そういう褒め言葉を上手く受け取れないっていうか。謙遜したり、自虐したり、逆に嫌味かなって思ったり。でもなんか、沢野の言葉はすっと入ってくる。不思議。沢野が幽霊だからかな」
「幽霊だと、すっと入ってくるの?」
「上手く説明できないけど、違う世界の住人だから、利害関係がない感じ?」
「友達だって利害関係なくない?」
「うちの家ってさ」
俺はじっと床を見つめたまま話し続ける。変な感じだ。話しているというより、口からぽろぽろと言葉が溢れてくる感じ。こんなこと、今までなかったのに。俺はそれを抑えようともせず、「ああ、俺の中にはこんなにも出したくても出せない言葉が詰まってたのか」と思ったりしていた。
「今の俺の周りって、俺に期待する家族と、競争相手のクラスメイトしかいないんだよね。父さんがよく言うんだ。この世の中はいつだって弱肉強食だって。お前は恵まれたところに生まれたんだから、当然強者側にいるべきだって。そこからこぼれ落ちることは負けだ。強者で居続けるためには、学校の生徒たちも敵だと思って行動しろって。どんな理屈だよって思うだろ?」
俺は少し暗い話をしすぎたかと思って笑ってみせた。沢野は横でじっと俺の話に耳を傾けていたが、俺の笑いにつられて少し微笑んだ。俺はそれに少し安心して話を続ける。
「もちろん、クラスのみんなのことは嫌いじゃないし、普通の話をしてる時は楽しい。でもさ、この学校にいる限り、いつかは敵になるんだよ。試験の順位、進学する大学のランク、就職する企業。もし同窓会に参加すれば、どんな人と結婚したとか、どんな子供がいるとか、ずっと競争しなきゃいけないんだろうなって。俺たちは、いつまでも競争から降りられない。それがなんていうか……寂しい。つらい。俺はこの先、ずっと心を許せる人ができないんじゃないかって。誰かといても、ずっとひとりぼっちな気がする」
こんな話するつもりなかったのに。
「情けないよな」
俺の言葉に、沢野のやわらかい声が重なる。
「そんなことないよ」
そして「僕も気持ちわかる」と続けた。
「わかるわけねぇだろ。生きてた頃の記憶もないくせに」
俺が少し怒気をはらんだ声でそう言うと、沢野は俺をじっと見た。俺はやっぱり、この綺麗な目が苦手だ。美しすぎて怯んでしまう。
「もちろん、完全にわかるわけじゃないし、同じ境遇じゃないけど……僕も今、ひとりぼっちだから」
そう言って、彼ははにかむように微笑んだ。
「黒崎が見つけてくれてうれしかった」
泣いてしまいそうだった。昨日会ったばかりの幽霊なのに、ずっと深い絆を持った人のように感じた。
俺は気持ちを切り替えたくて話をそらした。
「沢野はさ、ずっと意識があるの?」
「うーん、多分」
「昼も?」
「うん。なんていうか、ずっと夢の中にいるような感じ。記憶も断片的で……」
「学校中をふわ〜って飛んでたり?」
「それがさ、このカーテンから出られないんだ」
沢野はカーテンにふわっと触れた。もちろん触っても、その手はカーテンをすり抜ける。
「マジで?」
俺はカーテンから一歩出て、その布を掴んで大きくうねらせるように仰いでみる。沢野は困ったように俺を見た。
「風圧でこっちに出られたりしない?」
「あのね、俺が空気みたいに触れないからって、風で飛んじゃうようなものじゃないからね」
「だめか」
落胆した俺を見て、沢野は困ったように笑った。
「僕、別にこのカーテンの中が嫌いじゃないよ」
「狭いだろ」
「狭くないよ。幽霊だもん」
俺はまたカーテンの中へ入る。沢野がガラス窓の外を見ていたので、俺もそちらへ視線を移した。
「ここからの景色もいいし。正門も見えるし、グラウンドもよく見えるから結構楽しい。みんなが学校に来たり帰ったり、体育の授業やったり、部活やったり」
「その中で、沢野の存在に気づく人いないの?」
「んー、『あれっ?』みたいに見る人はいるけど。それだけかな」
「でも今、話題になってるよ」
「何が?」
「夜に東条高校のある教室の窓を見ると、カーテンに人影が見えるって」
「えーマジで?それ僕?有名人じゃん!」
沢野は楽しそうに笑いながら話しているが、俺にはそれが本心には思えなかった。
「でもさ、本当は沢野もここから出たいんじゃない?」
沢野の表情は変わらない。
「そりゃそうだよ。でもしょうがない」
俺は、沢野の表情が変わらず笑顔なのが悲しかった。しょうがないって諦めることの辛さは、俺にも理解できたから。
「あのさ、さっき沢野が俺の喋り方オタクっぽいって言ったけど、実際そうなんだよね。あんまり人には言ってないけど」
沢野は急に話題が変わったので首を傾げた。
「実は俺、ホラー映画オタクなんだ」
俺の趣味に興味をもってくれたようで、「へぇ、それで?」と続きを促す。
「全部のホラー映画が好き。ジャパニーズホラーのじめっとした感じも好きだし、アジア系のリアルにグロい感じも、ヨーロッパ系のゴシックなのとか、変に明るい不気味さがあるのとか。あとアメリカの笑っちゃうくらい潔くグロい系ね。キャラクター系も面白いし。フィギュアとか何個も持ってる。あと、バカだなーって笑えるやつも好き。昔の映画の質感も好きだし、最新の撮影技術とか加工を使ったのも最高だよ。」
俺が早口でまくし立てるのを、沢野はうんうんと頷きながら聞いていた。多分、ほとんど理解していないと思うけど、こうやって俺の話に耳を傾けてくれている。
「って別にそれはどうでもよくて、それくらい俺は色んなホラー映画を観てきたし、ストーリーを知ってる。だから一般の人より幽霊には詳しい、だから……」
明確な言葉が出てこない。それでも、なんとか気持ちを伝えたくて、言葉を振り絞る。
「このホラー界隈に精通した俺が、沢野がどうやったらカーテンから出られるか検証する!」
俺はそう宣言した。その勢いのまま、ぽかんとした顔の沢野の手を取ろうとしたがすり抜ける。そうだ、触れないんだ。沢野があまりにも幽霊っぽくないので、時々忘れる。
「カーテンから出る方法ってあるの?」
「今から考える!」
「それって成仏みたいなこと?」
「あー、いや、成仏もしてほしいけど、そういうことじゃなくて……」
俺はこの気持ちをなんとかオブラートに包んで言いたかった。しかし、ずっと口から言葉がポロポロこぼれていたせいで、つい思ったことをそのまま言ってしまう。
「もっと沢野と一緒にいたいと思って。カーテンから出られたら、もっといろんな所に二人で行ける。」
溢れる言葉は止まらない。
「なんか沢野と会ったのって運命な気がする」
沢野は今日一番驚いた顔をした。そして、その後、微かに頬と耳が赤くなったように見えた。それから、顔が歪む。俺、気持ち悪いこと言ったかな。
そんな後悔をしはじめた俺に沢野は満面の笑みを見せた。
「めっちゃ、嬉しい」
そう言って顔を覆った。沢野に拒否反応をしめされたわけではないと分かると、今度は俺の顔が恥ずかしさで火照る。なんだかいたたまれなくなって、片手で顔を覆った。
その時だった。
「黒崎〜?どこ行った〜?すぐいなくなんなよ」
那須の声が聞こえた。さすがにここにいすぎた。
「もう帰らなきゃ」
しかし、今出たら那須に色々と説明しなきゃいけない。もう少し待つか。
カーテンを一歩出て外の様子をうかがおうとした俺に、後ろから「待って」と声がかかる。
「僕のことは誰にも言わないで。二人だけの秘密にして」
沢野はそう言って、じっと俺を見つめた。俺は黙って頷いた。言われなくてもそのつもりだ。
「また来てね。」
俺は沢野を安心させたくて、大きく二回頷いた。
しばらく俺の名前を呼んでいた那須は「こっちじゃないのかな〜」とぶつぶつ言いながら教室に戻っていく。足音が遠ざかり、また廊下はしんと静まり返った。
出るなら今だ。
「また来るよ」
沢野だけに届くように囁いた。
沢野がふふっと笑う。沢野は、笑うと口の端に小さなえくぼができる。今日はそんなところまで気づく余裕がある。っていうか、幽霊ってこんなに鮮明に見えていいんだっけ? 彼の輪郭の鮮明さが、昨日より増している気がする。それは何かの作用なのか、俺の気持ちの問題なのか。
俺は手を差し出した。こうされたら普通は握手をしようという合図だ。沢野も手を出して、俺の手を掴む。俺たちはお互いの体の感触がわからないまま握手をした。俺は握手した手をじっと見て、それから沢野の顔を見る。初めて会った時とは違う、柔らかい笑顔をしていた。その表情からは冷たさも暗さも感じない。それなのに、この手からは体温が感じられない。
俺は沢野の視線を、未練がましく断ち切る。扉を開けて教室まで戻る。那須には、どこに行ってたって説明しようかな。まぁ、あいつはどんな不自然な言い訳をしたって「そっか〜!」と言って流しそうだから、何でもいいか。
(そんなことより、沢野をどうやってカーテンから出すかだな)
彼のことを考えると体温が上昇して、気持ちが高鳴って、明日が待ち遠しくて、スキップするみたいに歩いた。
俺は家に帰って風呂に入りながら、ぼんやりとこれまでのことを考えていた。
四月に学級委員長になってから、ずっとそうだった。
「黒崎にしかできないから」と言われ、揉め事の仲裁や、クラス内の係の調整、担任と生徒の連絡係など、「これって学級委員長の仕事だっけ?」と思うようなことまで押し付けられる。委員長という名の雑用係だ。それでも俺は文句も言わずやった。それが俺だからだ。
それより以前からもそうだ。この狭い地域で俺は割と有名人だった。親は病院の院長で、家は大きな一軒家。成績優秀で、剣道部のエース。
すごいすごいと周りは囃し立てるが、家に帰れば俺よりはるかにすごい兄がいる。周りの賞賛は過大評価に思えていたたまれなかったし、嫌味に聞こえることもあった。
だからどこにいても生きているのがつらかった。気の休まる場所などこの世にない気がしていた。俺のことを誰も知らない世界へ逃げてしまいたかった。
それなのに、その思いが少し薄れていることに気づく。
明日が待ち遠しいなんて、何年ぶりだろう。当然、憂鬱なことだってたくさんある。でも明日になれば沢野と会える。もしかしたら沢野の役に立てるかも知れない。喜んでくれるかもしれない。またあの笑顔が見られるかもしれない。そう思うだけで全てのマイナスがプラスになるように思えた。
そして、ふと重大なことに思い至る。
カーテンの幽霊は夜にしか姿をあらわさないのだろうか?
だとしたら――
俺たちが会えるのは、学校が九時まで解放されている日だけ。
それ以降は会えなくなるのか?
俺は湯船に沈みながら考える。
その間に、なんとかしないといけない。
ロミオとジュリエットの名シーンの一つにバルコニーに出たジュリエットと外の物陰に隠れたロミオ、二人が密会を楽しむシーンがある。吉川はそのバルコニーを作っていた。段ボールを使って試行錯誤している。手先が器用で、こういう工作も意外と上手い。
「――って話を田中に言われたんだけど。どう思う? 俺は全然、田中の配役合ってると思うんだけど」
俺は吉川の隣に座り、昼休みに田中から相談されたことを話した。教室の床に部品を並べ、接合前の最終確認をしていた吉川は、視線を落としたまま答える。
「私もそう思う。ジュリエット役は絶対、田中ちゃんだよ」
「でもさ、本人のモチベーションが下がってるんだよ。俺にはどう説得すればいいかわからん」
「そっか。じゃあ、私に任せて」
「えっ、いいの?」
「男どもにはわかんないのよ。女の子のことは。田中ちゃんが最高のジュリエットなんだって、私がわからせてやるから。吉川様の手腕を見てらっしゃい」
そう言って、吉川は俺の背中をばんばん叩いた。妙な頼もしさがある。今日は田中の姿は教室にないが、またジュリエット役としてやる気を出してくれるだろう。
そんな吉川の横で、俺は紙粘土と一時間ほど格闘して短剣を作っていた。
田中の件が少し落ち着くと、またあの幽霊のことが頭をよぎる。俺はそれを振り払うように作業へ集中する。昨日の夜から、俺の頭の中にはあの幽霊が住み着いてしまっていた。ふとした瞬間に俺をじっと見ていた目を思い出す。何か俺に訴えかけるような、俺は特別な存在なんじゃないかと感じてしまうような強い視線。早く忘れてしまった方がいいのかもしれない。それなのに、忘れようとすればするほど、もう一度会ってみたいという好奇心もむくむくと湧いてくる。
(あの幽霊に取り憑かれちゃったのか?)
こんな感情になったことがなく、俺自身どうしていいかわからなかった。
「これ、短剣に見える?」
俺はダメ元で、自称“短剣”を吉川に見せる。
「見えない。皮を剥いたバナナみたい」
手を真っ白にしながら作った作品は、どうやら駄作らしい。
しかし、吉川はその皮を剥いたバナナをじっと観察する。
「手で形作っただけだからちゃちく見えるんじゃない?乾かして硬くなったら、カッターで刃先を削って尖らせて、全体をやすりで滑らかにして、最後に色塗れば、遠目には短剣っぽく見えるかも」
「なるほど」
「吉川すごいな。俺、そんなの思いつかなかった」
吉川は得意げに親指を立てた。
「私、そういうの好きだから。これどうしたらもっと良くなるだろうとか、可愛くなるだろうとか、私に似合うだろうとか、ずっと考えてる」
彼女の爪には小さな飾りがたくさん付いていた。ピンクの下地の上に、パールやきらきらした石がジェルで固められている。よくこんな爪で生活できるな、と感心する。
「ちなみにこれも自作」
吉川が自身のスマホの背面をみせる。爪同様、彼女のスマホケースもスマホ本体が埋もれるほどごてごてとピンクのもので装飾されていた。
「あっ、ついてにこれも見てもらおうかな」
吉川はスマホを操作し、俺に画面を見せる。
そこには、プロの俳優たちが『ロミオとジュリエット』を演じている舞台写真が映っていた。画面をスライドすると、歴代の俳優たちによる名シーンが次々と現れる。
「これ集めたんだ」
「ネットの拾い画だけどねぇ」
吉川は楽しそうに続ける。
「この話ってさ、ストーリーそのものが面白いっていうより、印象的なシーンがいっぱいあるのが魅力って感じじゃない? あっ、異論は認める。私はそう思うってだけね」
そして、スマホ画面を指差した。
「その中でも、やっぱロミジュリって言ったら、この『ああ、ロミオ。あなたはどうしてロミオなの』って、ジュリエットがバルコニーから言うシーンじゃん?下にはロミオがいてさ」
吉川は身振り手振りを交えながら熱弁する。
「大きい舞台なら、本当に高いバルコニーを大道具さんが作るんだろうけど、うちらには無理じゃん?だから思ったわけ。バルコニーの柵だけ作るの」
「うん」
「舞台は真っ暗。右端にジュリエット、その前にバルコニーの柵。左端にロミオ。ジュリエットは下を向いて話しかけて、ロミオは上を向いて話しかける。で、二人だけにスポットライトを当てるの。そうすれば二人の高低差を演出できるっしょ」
「いいね。体育館の壇上のライトで、スポットライトみたいにできるか聞いてみようか?」
俺がそう言うと、吉川は、眉をへの字に曲げて唇を突き出した。
一瞬で不機嫌になったのがわかる。
「そんなの、もう聞いたよ。上の蛍光灯は、一斉につけるか消すかしかできないって」
「じゃあダメじゃん」
「だからさ、自分たちでスポットライト持ってくるしかない!」
「持ってるの?」
「持ってない!」
吉川は机をばんっと叩いた。
「黒崎って人脈ありそうじゃん。舞台関係に知り合いとかいないの?」
「いるわけないだろ」
「ああもう!予算少なすぎ!」
幼児みたいに駄々をこねる吉川に、俺は呆れた視線を向ける。
「他のクラスも同じ予算で喫茶店とかお化け屋敷とかやってんの。そこそこのもん完成させるには妥協しなきゃ」
「そこそこのもんって。せんせーみたいなこと言いやがる」
俺のつまらない小言に、吉川は背を向け、そのまま床へ寝転がった。
「おいおい、その短いスカートでそんな寝転び方するな」
「どうせ黒崎しか見てないし」
「俺が見てるのが問題だろ」
「なんか黒崎って、モテるのにモテないよね」
「なんだよそれ」
吉川はこちらへ向き直り、肘をついて頭を支えながら俺を見上げる。
俺の方が立場的には見下ろしているのに、なぜか吉川の方が威圧的に見えた。
「なんかさ、付き合うまではめちゃくちゃいい男に見えてたのに、付き合ったら思ってたんと違うってなりそう」
「それ悪口じゃん」
「んー、そうでもないよ。なんか黒崎って、私のパンツ見ても何も思わなさそうっていうか」
「まあ、何も思わないね」
「人を好きになったことある?この女エロっ!とか思ったことある?」
俺は過去を思い返す。だが、ここで何を答えても、吉川に言い負かされる未来しか見えなかった。
「教えない」
「えーん。黒崎くんがいじわるする!」
吉川が顔を覆って泣き真似をする。こんなくだらない話をしている場合じゃないんだけど。
俺はゆっくり立ち上がり、手に持っていた短剣もどきをそっと机の上へ置いた。しばらくここで乾かそう。
教室の窓は開いている。白いカーテンが、ゆらゆらと揺れていた。時計の針は午後八時を指している。
「ちょっと手、洗ってくる」
俺は教室を出た。手を洗いたかったのは本当だ。でも、それを口実に教室を出たかったのも事実だった。
――あの理科準備室へ行くために。
教室から少し離れた廊下の手洗い場で手を洗う。冷たく柔らかな水が、皮膚の上を滑っていく。石鹸のいい香りが鼻をくすぐる。ハンカチで手を拭きながら顔を上げると、昨日と同じ光景が広がっていた。
今朝、目を覚ました時は、昨日の出来事は夢だったのかもしれないとぼんやり考えていた。だが、意識がはっきりするにつれ、あれは現実だったのだと思いなおした。
午前の授業中も、ずっとそのことを考えていた。昼休みには理科準備室を確認しに行った。その後も、今この瞬間も、ずっとカーテンの幽霊のことを考えている。
そして今、昨日の出来事が鮮明によみがえる。昨日からずっと脳裏にいた幽霊の姿が、だんだん輪郭を持っていく。
(また会いたい)
もう一度会って、俺が見たものが何だったのか確かめたい。俺の足は、迷いなく理科準備室へ向かっていた。
部屋のネームプレートは相変わらず暗くて見えない。でも、理科準備室の場所はわかる。その部屋だけ扉が開いていて、廊下へ綺麗な月明かりが差し込んでいたからだ。
高鳴る胸を押さえながら、部屋を覗き込む。
――いた。
一応、声を掛けてみる。
「いる?」
カーテンの端から顔が覗く。
「いるよ」
俺の気持ちの変化のせいか、彼は昨日より人間らしく見えた。そのせいで、恐怖心がさらに薄れていくのがわかる。俺は無言のまま歩み寄った。幽霊は困惑したような顔で、わずかに後ずさる。生きてる人間みたいな反応。ますます恐怖心がなくなっていく。その代わり、胸の中は好奇心でいっぱいになる。
二人の距離が数十センチほどになった時、俺は改めて思う。
(普通の人間みたいだ)
昨日は「幽霊」という固定観念のせいで不気味に見えていた青白い肌は今日は血色よく見える。長い前髪の隙間からはあの綺麗な目が見えている。全体的に柔らかい印象を与える雰囲気をしている。これが本当に幽霊なんだろうか?
「幽霊なの?」
幽霊に向かって「幽霊なの?」と尋ねている状況は、傍から見れば馬鹿みたいだろう。でもそれくらい幽霊に見えなかった。彼は自分の体をまじまじと見下ろした。その仕草があまりにも人間らしくて、少し笑いそうになる。彼の柔らかい印象も相まって魅力的でもある。
「そうなのかな?」
「いつからここにいるの?」
「たぶん、少し前かな」
「ずっとここにいるの?」
「わかんない」
俺の好奇心はどんどん膨らんでいく。そもそも、幽霊ってこんなに意思疎通できて、普通に会話するものなのか?
「ここの鍵を開けてるのも君なの? いつもは鍵かかってるだろ?」
「そうなのかな?」
「そうだよ。だって俺、昼間あの扉を――」
そこまで言って、俺は振り返った。さっき入ってきた扉を指差そうとしたのだ。
だが、その扉は閉まっていた。俺は早足で扉へ駆け寄り、引き戸に手を掛ける。鍵がかかっている。
「鍵かかってる。お前がやったのか?」
やっぱり、俺を誘い込んで悪さをしようとしてるヤバい幽霊なのか?
「違う違う。僕は何もしてないよ。鍵を開けたこともないし、扉を開けたこともない。ただ、ずっと……ここにいるだけ」
狼狽えて弁明する姿も、最後に少し寂しそうに視線を落とす様子も、あまりにも人間らしかった。
俺は疑り深い人間だから、彼が“いい幽霊”なのか“悪い幽霊”なのか、まだ決めきれない。でも、どこかで「そんなことどうでもいい」と思い始めている自分にも気づいていた。静かな視線だけが交わされる。
俺は彼へまた近づく。その足取りはさっきとは違っていた。一歩一歩、確かめるように、彼へ近づきたいと思いながら歩く。
カーテンの前まで来る。カーテンに包まれた幽霊は、俺をじっと見つめたまま動かない。
彼まであと一メートル。あと五十センチ。そして俺は、カーテンの端を持ち上げた。彼と同じように、カーテンの中へ入り込む。
本当におもしろい状況だ。俺の感覚では、二人の男がカーテンに包まれている。体と体が触れ合っているはずなのに、隣の彼は俺の目に見えているのに、物体としてそこに存在していない。俺は手に持っていたカーテンの端をさらに巻き込み、その中をより密にした。
もう数センチ先に幽霊の顔がある。そして、俺の体に触れているのはカーテンだけ。彼も俺の行動を不思議に思っているのか、その綺麗な目をずっと見開いて俺を見ている。
ふと、空気がひどく澄んでいることに気づく。ここは教室の中より、家の中より、息がしやすかった。誰も俺に干渉しない。誰も俺に命令しない。でも、ひとりじゃないから寂しくない。逆に言えば、俺はずっと息苦しい場所で生きていたのだと再確認した。
「こんなに生きてるみたいなのに」
また彼へ手を伸ばし、目の前にある形を掴もうとして空を切る。信じられなくて、バカみたいな行為を何度も繰り返す俺を見て、ついに幽霊がぷっと噴き出した。
「何回やっても掴めないよ」
「いや、なんか本当に不思議で」
「ほら、僕もカーテンを掴めない」
幽霊はひょいっと目の前のカーテンを掴もうとする。しかし、カーテンは微動だにせず、彼の手だけが空を何度も掴んだ。
「そっか。君もこっちの世界のものを掴めないのか」
「そう。だから僕も――」
幽霊は、さっきまでカーテンを掴もうとしていた手を、ふいに俺の前へ持ってくる。その手は俺の頬に優しく触れた。いや、触れたように思っただけで、何の感触もない。
「君に触れられない」
俺はほんとうに、この幽霊を愛おしく思った。特に理由はない。ただ、そう思った。
「……俺の名前は黒崎」
幽霊はそれを聞いて、また驚いた。そのあと、少し嬉しそうにはにかんで「黒崎くん」と言った。
「黒崎でいいよ。君は?」
幽霊は少し考えるような顔をした。
「えっと……わからない」
「何にも覚えてない?生きてる時の記憶とか」
「うん……」
「ここが学校だとかこれがカーテンだとかはわかる?」
「あっ、うん、そうかな」
「じゃあ、意味記憶はあってエピソード記憶がない状態だ。出来事や体験は忘れてるけど、日常で使ってたものの知識や名前なんかは覚えてるっていう。例えば……」
幽霊は早口でまくしたてる俺をしばらくじっと見ていたが、その後くすくすと笑い出した。今の話の何がおかしかったのだろう。俺が怪訝そうな顔をしていると彼は「ごめんごめん」と謝った。
「なんか黒崎って見た目と中身が全然違うっていうか」
「どう違う?」
「見た目はめちゃくちゃクールなイケメンって感じなのに、喋り方が面白い…なんていうか」
「オタクっぽい?」
「いや、そういうわけじゃないけど……ふふふ」
俺はさっきの吉川の「モテるけどモテない」と言う言葉を思い出した。不貞腐れた俺は少し視線を落として、ある発見をした。
「沢野だ」
「えっ!?」
俺が幽霊をみるとさっきまで笑っていた顔は一変して心底驚いた表情で固まっていた。その驚き方に俺の方がびっくりした。
俺は彼の胸の辺りを指した。
「今、君が着てるのはここの制服。胸に名字が刺繍してある。君が誰かの服を借りているんじゃなければ、沢野って名前なんじゃない? あと、数年前に微妙に制服が変わったんだけど、その制服は新しいやつ。だからここ何年か……五、六年前くらいかな。君が亡くなったのは、そんなに昔じゃない」
彼はじっと自分の胸にある刺繍を見て、「……ああ、そうか」と呟いた。
「なんか思い出した?」
「思い出せそうだけど……まだよくわからない」
沢野がうつむく。せっかく名前が判明したのに、逆にがっかりさせてしまったかもしれない。
「黒崎が僕のこと知ってたのかと思った」
きっと俺と沢野が知り合いだったら何か思い出すきっかけがきけるかもしれないと思ったのだろう。沢野は自分の名前の刺繍を見ながら少し微笑んだ。でも、その微笑みは少し悲しそうでなにか言わなくてはと思った。それなのに、気の利いた言葉ひとつでてこない俺が焦っていると沢野が小さく呟いた。
「黒崎のこと教えてくれたら、なにか思い出せるかも」
「なんでだよ」
「別に本当になにか思い出したいってわけじゃない。ただ僕の暇つぶしに付き合ってよ。」
「えー」
沢野はくすくす笑いながら、俺が口を開くのを待っている。
「俺は一年A組で学級委員長をやってる。で、あと二週間後には東条祭……東条祭はわかる? まあ文化祭みたいなもので、うちのクラスは演劇をやるんだ。それで、この時間まで残ってる。ほら、普段はこの時間って誰もいないだろ?でも東条祭の二週間前からと東条祭当日は九時まで学校があいてるんだ。気づいてた? へぇ、気づいてなかったんだ。人がいるから、この部屋のドアを開けたのかと思った。なるほど、本当にここの扉を開けたり閉めたりは沢野がやってるわけじゃないんだ。あーそれで、えっと、向こうの教室で芝居の練習したり道具作ったりしてる。『ロミオとジュリエット』。いやぁ、全然ダメ。やっぱり演技をしたこともない素人がやるのはけっこう大変。俺は一応、学級委員長ってことで……みんなをまとめる役みたいなことやってる。演者とか舞台セット担当の進捗もちゃんと確認しとかないと、あいつらだらだらして全然進めないから」
俺がベラベラ喋るのを、沢野はずっと相槌を打ちながら聞いていた。
「委員長、大変そう」
「大変だけど……まあ、なったからにはちゃんとやらないとね」
「えらいね」
「えらくないよ。当たり前のことやってるだけ」
「でも、当たり前のことをできない人って多いじゃん。えらいよ」
俺は少し恥ずかしくなって、ははっと笑った。
この「えらいね」は、ただの相槌の一種だ。だけど嬉しかった。こんなにまっすぐ褒められるなんて久しぶりだった。俺は、できて当たり前で、失敗したらみんなをがっかりさせる人間だったから。
「なんだろ。俺って、そういう褒め言葉を上手く受け取れないっていうか。謙遜したり、自虐したり、逆に嫌味かなって思ったり。でもなんか、沢野の言葉はすっと入ってくる。不思議。沢野が幽霊だからかな」
「幽霊だと、すっと入ってくるの?」
「上手く説明できないけど、違う世界の住人だから、利害関係がない感じ?」
「友達だって利害関係なくない?」
「うちの家ってさ」
俺はじっと床を見つめたまま話し続ける。変な感じだ。話しているというより、口からぽろぽろと言葉が溢れてくる感じ。こんなこと、今までなかったのに。俺はそれを抑えようともせず、「ああ、俺の中にはこんなにも出したくても出せない言葉が詰まってたのか」と思ったりしていた。
「今の俺の周りって、俺に期待する家族と、競争相手のクラスメイトしかいないんだよね。父さんがよく言うんだ。この世の中はいつだって弱肉強食だって。お前は恵まれたところに生まれたんだから、当然強者側にいるべきだって。そこからこぼれ落ちることは負けだ。強者で居続けるためには、学校の生徒たちも敵だと思って行動しろって。どんな理屈だよって思うだろ?」
俺は少し暗い話をしすぎたかと思って笑ってみせた。沢野は横でじっと俺の話に耳を傾けていたが、俺の笑いにつられて少し微笑んだ。俺はそれに少し安心して話を続ける。
「もちろん、クラスのみんなのことは嫌いじゃないし、普通の話をしてる時は楽しい。でもさ、この学校にいる限り、いつかは敵になるんだよ。試験の順位、進学する大学のランク、就職する企業。もし同窓会に参加すれば、どんな人と結婚したとか、どんな子供がいるとか、ずっと競争しなきゃいけないんだろうなって。俺たちは、いつまでも競争から降りられない。それがなんていうか……寂しい。つらい。俺はこの先、ずっと心を許せる人ができないんじゃないかって。誰かといても、ずっとひとりぼっちな気がする」
こんな話するつもりなかったのに。
「情けないよな」
俺の言葉に、沢野のやわらかい声が重なる。
「そんなことないよ」
そして「僕も気持ちわかる」と続けた。
「わかるわけねぇだろ。生きてた頃の記憶もないくせに」
俺が少し怒気をはらんだ声でそう言うと、沢野は俺をじっと見た。俺はやっぱり、この綺麗な目が苦手だ。美しすぎて怯んでしまう。
「もちろん、完全にわかるわけじゃないし、同じ境遇じゃないけど……僕も今、ひとりぼっちだから」
そう言って、彼ははにかむように微笑んだ。
「黒崎が見つけてくれてうれしかった」
泣いてしまいそうだった。昨日会ったばかりの幽霊なのに、ずっと深い絆を持った人のように感じた。
俺は気持ちを切り替えたくて話をそらした。
「沢野はさ、ずっと意識があるの?」
「うーん、多分」
「昼も?」
「うん。なんていうか、ずっと夢の中にいるような感じ。記憶も断片的で……」
「学校中をふわ〜って飛んでたり?」
「それがさ、このカーテンから出られないんだ」
沢野はカーテンにふわっと触れた。もちろん触っても、その手はカーテンをすり抜ける。
「マジで?」
俺はカーテンから一歩出て、その布を掴んで大きくうねらせるように仰いでみる。沢野は困ったように俺を見た。
「風圧でこっちに出られたりしない?」
「あのね、俺が空気みたいに触れないからって、風で飛んじゃうようなものじゃないからね」
「だめか」
落胆した俺を見て、沢野は困ったように笑った。
「僕、別にこのカーテンの中が嫌いじゃないよ」
「狭いだろ」
「狭くないよ。幽霊だもん」
俺はまたカーテンの中へ入る。沢野がガラス窓の外を見ていたので、俺もそちらへ視線を移した。
「ここからの景色もいいし。正門も見えるし、グラウンドもよく見えるから結構楽しい。みんなが学校に来たり帰ったり、体育の授業やったり、部活やったり」
「その中で、沢野の存在に気づく人いないの?」
「んー、『あれっ?』みたいに見る人はいるけど。それだけかな」
「でも今、話題になってるよ」
「何が?」
「夜に東条高校のある教室の窓を見ると、カーテンに人影が見えるって」
「えーマジで?それ僕?有名人じゃん!」
沢野は楽しそうに笑いながら話しているが、俺にはそれが本心には思えなかった。
「でもさ、本当は沢野もここから出たいんじゃない?」
沢野の表情は変わらない。
「そりゃそうだよ。でもしょうがない」
俺は、沢野の表情が変わらず笑顔なのが悲しかった。しょうがないって諦めることの辛さは、俺にも理解できたから。
「あのさ、さっき沢野が俺の喋り方オタクっぽいって言ったけど、実際そうなんだよね。あんまり人には言ってないけど」
沢野は急に話題が変わったので首を傾げた。
「実は俺、ホラー映画オタクなんだ」
俺の趣味に興味をもってくれたようで、「へぇ、それで?」と続きを促す。
「全部のホラー映画が好き。ジャパニーズホラーのじめっとした感じも好きだし、アジア系のリアルにグロい感じも、ヨーロッパ系のゴシックなのとか、変に明るい不気味さがあるのとか。あとアメリカの笑っちゃうくらい潔くグロい系ね。キャラクター系も面白いし。フィギュアとか何個も持ってる。あと、バカだなーって笑えるやつも好き。昔の映画の質感も好きだし、最新の撮影技術とか加工を使ったのも最高だよ。」
俺が早口でまくし立てるのを、沢野はうんうんと頷きながら聞いていた。多分、ほとんど理解していないと思うけど、こうやって俺の話に耳を傾けてくれている。
「って別にそれはどうでもよくて、それくらい俺は色んなホラー映画を観てきたし、ストーリーを知ってる。だから一般の人より幽霊には詳しい、だから……」
明確な言葉が出てこない。それでも、なんとか気持ちを伝えたくて、言葉を振り絞る。
「このホラー界隈に精通した俺が、沢野がどうやったらカーテンから出られるか検証する!」
俺はそう宣言した。その勢いのまま、ぽかんとした顔の沢野の手を取ろうとしたがすり抜ける。そうだ、触れないんだ。沢野があまりにも幽霊っぽくないので、時々忘れる。
「カーテンから出る方法ってあるの?」
「今から考える!」
「それって成仏みたいなこと?」
「あー、いや、成仏もしてほしいけど、そういうことじゃなくて……」
俺はこの気持ちをなんとかオブラートに包んで言いたかった。しかし、ずっと口から言葉がポロポロこぼれていたせいで、つい思ったことをそのまま言ってしまう。
「もっと沢野と一緒にいたいと思って。カーテンから出られたら、もっといろんな所に二人で行ける。」
溢れる言葉は止まらない。
「なんか沢野と会ったのって運命な気がする」
沢野は今日一番驚いた顔をした。そして、その後、微かに頬と耳が赤くなったように見えた。それから、顔が歪む。俺、気持ち悪いこと言ったかな。
そんな後悔をしはじめた俺に沢野は満面の笑みを見せた。
「めっちゃ、嬉しい」
そう言って顔を覆った。沢野に拒否反応をしめされたわけではないと分かると、今度は俺の顔が恥ずかしさで火照る。なんだかいたたまれなくなって、片手で顔を覆った。
その時だった。
「黒崎〜?どこ行った〜?すぐいなくなんなよ」
那須の声が聞こえた。さすがにここにいすぎた。
「もう帰らなきゃ」
しかし、今出たら那須に色々と説明しなきゃいけない。もう少し待つか。
カーテンを一歩出て外の様子をうかがおうとした俺に、後ろから「待って」と声がかかる。
「僕のことは誰にも言わないで。二人だけの秘密にして」
沢野はそう言って、じっと俺を見つめた。俺は黙って頷いた。言われなくてもそのつもりだ。
「また来てね。」
俺は沢野を安心させたくて、大きく二回頷いた。
しばらく俺の名前を呼んでいた那須は「こっちじゃないのかな〜」とぶつぶつ言いながら教室に戻っていく。足音が遠ざかり、また廊下はしんと静まり返った。
出るなら今だ。
「また来るよ」
沢野だけに届くように囁いた。
沢野がふふっと笑う。沢野は、笑うと口の端に小さなえくぼができる。今日はそんなところまで気づく余裕がある。っていうか、幽霊ってこんなに鮮明に見えていいんだっけ? 彼の輪郭の鮮明さが、昨日より増している気がする。それは何かの作用なのか、俺の気持ちの問題なのか。
俺は手を差し出した。こうされたら普通は握手をしようという合図だ。沢野も手を出して、俺の手を掴む。俺たちはお互いの体の感触がわからないまま握手をした。俺は握手した手をじっと見て、それから沢野の顔を見る。初めて会った時とは違う、柔らかい笑顔をしていた。その表情からは冷たさも暗さも感じない。それなのに、この手からは体温が感じられない。
俺は沢野の視線を、未練がましく断ち切る。扉を開けて教室まで戻る。那須には、どこに行ってたって説明しようかな。まぁ、あいつはどんな不自然な言い訳をしたって「そっか〜!」と言って流しそうだから、何でもいいか。
(そんなことより、沢野をどうやってカーテンから出すかだな)
彼のことを考えると体温が上昇して、気持ちが高鳴って、明日が待ち遠しくて、スキップするみたいに歩いた。
俺は家に帰って風呂に入りながら、ぼんやりとこれまでのことを考えていた。
四月に学級委員長になってから、ずっとそうだった。
「黒崎にしかできないから」と言われ、揉め事の仲裁や、クラス内の係の調整、担任と生徒の連絡係など、「これって学級委員長の仕事だっけ?」と思うようなことまで押し付けられる。委員長という名の雑用係だ。それでも俺は文句も言わずやった。それが俺だからだ。
それより以前からもそうだ。この狭い地域で俺は割と有名人だった。親は病院の院長で、家は大きな一軒家。成績優秀で、剣道部のエース。
すごいすごいと周りは囃し立てるが、家に帰れば俺よりはるかにすごい兄がいる。周りの賞賛は過大評価に思えていたたまれなかったし、嫌味に聞こえることもあった。
だからどこにいても生きているのがつらかった。気の休まる場所などこの世にない気がしていた。俺のことを誰も知らない世界へ逃げてしまいたかった。
それなのに、その思いが少し薄れていることに気づく。
明日が待ち遠しいなんて、何年ぶりだろう。当然、憂鬱なことだってたくさんある。でも明日になれば沢野と会える。もしかしたら沢野の役に立てるかも知れない。喜んでくれるかもしれない。またあの笑顔が見られるかもしれない。そう思うだけで全てのマイナスがプラスになるように思えた。
そして、ふと重大なことに思い至る。
カーテンの幽霊は夜にしか姿をあらわさないのだろうか?
だとしたら――
俺たちが会えるのは、学校が九時まで解放されている日だけ。
それ以降は会えなくなるのか?
俺は湯船に沈みながら考える。
その間に、なんとかしないといけない。
