東条祭まであと11日(火曜日)
昼休み、俺は早く弁当を食べ終わると教室を出た。
昨日の自分の足取りを確かめようにまっすぐな廊下を歩いた。1年A組、B
組、C組、そして一階へ降りる階段、三階へ登る階段、その横が理科室、そして
「ここだ」
理科準備室。俺は扉に手をかけた。扉を引くと、ガチャッと音がする。鍵がかかっていた。そりゃそうだ。理科準備室には高価なものや危険な薬品もたくさん保管されている。生徒が自由に入れる場所ではない。
(じゃあ、なんで昨日は開いてたんだ?)
でも、月に照らされたあの部屋は確かに理科準備室だった。
考えられることはひとつ。幽霊が鍵を開け、ドアを開き、俺を誘うように月明かりで廊下を照らしたのだ。
――俺は狙われているのか?
それとも、誰でもいい中でたまたま俺が引っかかっただけなのか。
ホラー映画では、何の落ち度もない主人公が偶然幽霊に出会い、悲惨な結末を迎えることもある。
(これ以上、関わらない方がいいかもしれない)
それでも俺は、その扉の前から動けずにいた。
幽霊は、まだあそこにいるだろうか。
理科準備室の扉にはガラス窓がなく、廊下側の窓もすべてすりガラスになっている。中の様子はほとんどわからない。
頭では、ここから離れなければいけないとわかっている。なのに、やはり気になって仕方がなかった。
「黒崎くん」
「うわっ!」
背後から突然声を掛けられ、反射的に大きな声を上げてしまう。
「そんな驚かなくても……」
振り返ると、田中が立っていた。 俺の反応に逆に驚いたのか、いつも無表情気味な目が珍しく丸く見開かれている。
「あっ、ごめん。どうした?」
「あのさ、ちょっと話したいことがあるんだけど。東条祭の劇のことで」
彼女は少し周囲へ目をやった。
理科準備室の前は普段ほとんど人が通らないが、昼休みということもあり、今はそれなりに賑やかだ。 あまり聞かれたくない内容なのかもしれない。
「向こうで話す?」
少し先へ行くと、非常口へ続く階段がある。その辺りは昼休みでも人が少なく、廊下側からも死角になっていた。
そこまで移動すると、田中はすぐに口を開いた。
「私、ジュリエット役無理かも」
彼女は早口でそう言った。そして深呼吸をして、視線を落とす。
早く言いたくて、言い出せなくて、でもようやく口にできた。そんな安堵が見えた。
しかし、こちらとしては「そうか、わかった」と簡単には言えない。
「なんで? 田中、すごく合ってると思うよ。ちゃんとセリフも覚えようとしてくれてるし、声も通るし綺麗だし」
「吉川さんとかどうかな? あの子、美人だし。それこそ声も大きいから、演者の方が向いてると思う。私なんて、どうせ誰も演者やりたくなくて押しつけられただけだし。そもそも、ロミオに一目惚れされるジュリエット役なんて、おこがましいっていうか……」
田中は俺と目を合わせないまま、自嘲気味に笑った。
「誰かに何か言われた?」
俺はじっと田中を見る。 彼女が何を言いたいのかは、なんとなくわかっていた。
「何も言われてないよ。他のみんなは役を私に押しつけたんだから、何も言わないでしょ。ロミオ役の那須くんだって何も言わない。でもさ、私自身が、“私がジュリエット役なんておかしい”って思っちゃうの」
「そんなことないよ」
「あるよ」
ようやく田中が俺を見た。
その瞳には、やり場のない怒りと悲しみが滲んでいた。そして、その感情は全部、自分自身へ向いている。
「最初にロミオとジュリエットの台本をもらった時は、教科書を暗記するみたいにセリフを覚えた。声に出す時も、できるだけ感情を込めようって頑張った。私はジュリエットなんだって思いながらセリフを言った」
田中は唇を噛む。
「でも、そうすればするほど思っちゃうの。“こんな地味な女に、ロミオが一目惚れする?”って」
その声は、少し震えていた。
「そして、そう思えば思うほどその気持ちが強くなっていって……。昨日、那須くんとセリフ合わせしたけど、うまくいかなくて。那須くんがふざけるのも、セリフ覚えてこないのも、私がジュリエット役だからなのかなって思って」
そこで田中は言葉を詰まらせ、また深呼吸した。彼女の気持ちが痛いほど伝わってくる。
「田中の気持ちはわかった。でも、俺は田中がジュリエットに合ってると思う」
俺はゆっくり言った。
「吉川にも相談してみる。あと、那須にはこのこと言わないけど……とりあえずボコしとく」
最後に冗談っぽく言うと、田中はかすかに口角を上げた。
「うん、とりあえず那須くんはボコしといて。あと――」
田中は、そのまま真っ直ぐ俺を見る。
「黒崎くんが学級委員長でよかった」
突然そんなことを言われ、今度は俺の方が目を逸らした。
