東条祭まであと15日(金曜日)
あれから一か月ほどが過ぎた。案の定、準備はうまく進まないまま、東条祭二週間前を迎えていた。
決まったこと
・演目は『ロミオとジュリエット』 (図書室においてある脚本付きの本がこれしかなかった)
・ロミオ役は那須 (「イケメン!」と煽てられ、そのままセリフ量の多い役を押しつけられた)
・ジュリエット役は田中 (副委員長だから、という理由で押しつけられた)
・なぜか妙にやる気のある吉川が、セットや衣装など裏方全般のリーダー
俺は委員長として、各担当の調整役をすることになった。
その他にも、ロレンス神父やロミオの親友マキューシオなど、重要な役もなんとか決まった。それ以外の役については、「ほとんど重要なセリフないから!」と説得し、どうにか全員の配役を終えた。
演者たちにはコピーした脚本を配ってある。東条祭の数日前には、本番と同じ体育館の壇上で通し稽古をするので、それまでにはセリフを覚え、同じシーンの演者同士で軽く掛け合いの練習までしておくよう頼んだ。
それ以外の生徒たちは、衣装や大道具、小道具の作成担当だ。 吉川が張り切って仕切っているようだが、彼女は人をまとめるのに向いているとは言いがたく、少し心配していた。案の定、吉川のこだわりの強さについていけず、協力する人数は少しずつ減っていく。俺が口を出すと、「大丈夫大丈夫。本番までには絶対間に合わせるから」と笑うが、本当に大丈夫なのだろうか。
担任に、どこまで演劇の準備が進んでいるのか尋ねられ、現状を報告すると、頭をかきながらため息をつかれた。 四十代の小柄な中年男性。いつもシワシワの安っぽいスーツを着ている。四月にこの人が担任になってからずっと思っているが、有名進学校の教師とは思えないくらいやる気がない。この演劇についても、まったく手伝うそぶりを見せない。
「当日までに間に合いそう?」
「多分、大丈夫だと思います」
「笑いもんになるような駄作にはすんなよ」
冗談まじりにそう言われ、俺は苦笑いをした。 本当はぶん殴って、「じゃあ、お前も手伝えよ!」と言ってやりたかった。苦笑いで済ませた情けない自分もぶん殴ってやりたいくらい腹が立った。
来週の月曜から、九時まで校舎が開放される。放課後、クラスメイトと来週からの準備の打ち合わせを軽く済ませ、校舎を出た。
演者はちゃんとセリフを覚えてくるだろうか。セットは間に合うだろうか。クラスメイトたちの間にある火種は爆発しないだろうか。
家路をたどる間も、俺の頭は東条祭のことでいっぱいだった。
学校から家までは電車で一本。半年ほどほぼ毎日往復していれば、道順なんて考えなくても足が覚えている。
ふと気づくと、もう家の近くまで来ていた。
閑静な住宅街の中でも際立って大きい、二階建ての一軒家。それが我が家だ。 玄関の灯りがついている。自宅の灯りなんて、本来なら安心するはずのものなのに、俺はそこに逃げ場のない息苦しさを感じていた。まだ学校にいるほうがマシだ。
玄関の扉を開け、すぐ二階の自室へ向かおうとしたが、台所に母の姿が見えたので顔を出す。
「母さん」
「あっ、おかえり」
「ただいま。実はさ、東条祭の準備があんまり進んでなくて、来週から毎日帰るのが九時くらいになるかも」
「あら、そう。わかった。気をつけ――」
そこまで言って、母の視線が俺の後ろで固まった。俺はすぐに察して、そちらを見る。
「毎日?この前は数日って言ってなかったか?」
父の低い声。白衣こそ着ていないが、その雰囲気は職場にいる時と変わらない。父は家の中でも、厳しい医者のような顔をしている。
「東条祭が終われば、また普通の生活に戻る」
俺は言い訳のように答えた。
「“終われば”、か」
父は小さく息を吐いた。
「その程度の理由で、勉強を疎かにするのは感心しないけどな」
淡々とした言葉。
そのことは、この前話し合ったはずだ。 学級委員長という立場上、東条祭の出し物を放り出すわけにはいかない。だから、九時まで学校が開放される間の平日は塾を休む。その代わり、帰宅後に一時間自習し、土日の塾の補習にも入る。
それで合意したはずだった。
兄だって、その条件で東条祭の時期は九時まで学校に残っていたと聞いている。それとも、兄は俺より成績優秀だったから特別だった?
しかし、俺は反論の言葉を飲み込む。ずっとこうしてきた。
「お前は、わかっているはずだ」
父の視線がまっすぐ突き刺さる。
「無駄なことに時間を使っている余裕はない」
「……わかってる」
苦笑いとともにそう言った。自分でも驚くくらい、感情がこもっていない。そんな俺を見て、母も苦笑いをしていた。俺と母は、苦笑いばかりうまくなる。
脳裏に兄の顔が浮かんだ。父と話していると、いつも兄と比べられている気がする。小さな頃から、俺より何もかも秀でていた兄。要領がよく、たくさんの人に好かれていた兄。父親の期待通り、東京の一流大学に入り、医者を目指している兄。俺は、何もかも兄以下で、いつも卑屈だった。
兄はそんな俺を本当に可愛がってくれた。だから俺も兄のことが好きだし、尊敬している。だからこそ、たまに思う。兄が俺にもっと意地悪で、俺も兄を憎めたなら、今より少しは楽だったのかもしれない、と。
「後でご飯食べる」
それだけ言って、俺はその場を離れた。早くこの空気から逃げたかった。
階段を上がって自室に入り、はあと大きく息をつく。カバンを置き、そのままベッドへ倒れ込んだ。
とても勉強する気にはなれなかった。
俺の部屋は、中学の頃とはすっかり変わってしまった。
中学の頃から、父はずっと言っていた。
「高校に入ったら勉強第一だ。将来のことを考えながら高校生活を送りなさい。ここで人生の勝ち組になるか負け組になるか決まるんだからな」
その後、俺は父の母校である東条高校に合格した。そして入学した途端、中学時代よりさらに厳しい制限が始まった。
高校で部活に入ることは許されなかった。中学三年間打ち込んだ剣道の防具も、今では物置で埃をかぶっている。
高校一年生なんて、もう大人だ。働いている人だっている。なのに、なぜそこまで父親に従うのかと思われるかもしれない。しかし、波風を立てたくない俺の性格と、波風を立ててでも自分が支配者でいたい父親は、相性が良すぎるのだ。
俺には意思がない。
父親に「医者になれ」と言われれば、そのための勉強をする。剣道部で練習しろと言われれば練習をする。「学級委員長は黒崎くんがいいんじゃない?」と言われれば引き受ける。
頭がいいとか、優しいとか、頼りになるとか、周囲は言ってくれる。
でも本当は違う。
自分の意思がないから、世の中のことすべてがどうでもいい。 波風を立てたくないから、自分が損をしてでも平穏に物事が進むほうを選んでしまう。
しかし、そんな俺にも、どうしてもやめられない趣味がある。
『ホラー映画』だ。
小学生の頃、友達と一緒に観に行ったホラー映画に衝撃を受け、そのままどっぷりとホラー映画にハマってしまった。 その後、母に「別のホラー映画も観に行きたい」とねだったところ、父に見つかり、「くだらないものを観るな」と怒られた。しかし母は、その後こっそりと子ども向けのホラー映画に何度か連れて行ってくれた。
中学生になると、スマホで新作ホラー映画の情報を集め、「友達の家に勉強しに行く」と嘘をついて映画館へ出かけた。 大人に従順で、規則を守って生きてきた俺が唯一やった悪事だ。
今でも映画は観に行くし、小遣いをためてホラー映画のDVDや関連書籍、海外ホラーで大好きなキャラクターのフィギュアまでこっそり買い集めている。 それらは丁寧に箱へ詰め、父に見つからないよう押し入れの奥へ隠している。いつか一人暮らしを始めたら、思う存分堪能するつもりだ。
この趣味を知っているのは、おそらく気づいていながら気づいていないふりをしてくれている母と、中学時代の同級生で剣道部の主将だった永井だけだ。
俺はベッドに寝転がったまま、参考書が並ぶ棚の隅に置かれた、中学剣道部全員で撮った最後の県大会の写真へ目を向けた。 優勝メダルと賞状を手にした俺は、永井と肩を組みながら歯を剥き出しにして笑っている。
もう別人みたいだ。
当時は鍛えていたこともあって体格も良く、部員たちから「お前、試合前から威圧感すごいよ」と冗談まじりに言われていた。きっと今の俺には、あの頃ほどの筋力も、試合相手を威圧するほどの覇気もない。
剣道部のグループチャットはいまだに時々動いているが、四月に入ってから俺が投稿したことは一度もない。 部員たちはそれぞれ別の高校へ進学したため、そこで互いの近況を知る。みんな、一度きりの高校生活を満喫しているようだった。
ふと思い出す。
以前、俺が「夜中に布団へ潜り込んで、ポータブルDVDプレイヤーでホラー映画を観ている」と話した時、永井に「よくそんなことできるな。怖くないの?」と言われたことがある。
その時、俺は考えた。 なぜ自分はこんなにもホラー映画が好きなのだろう、と。
非日常だからか。 現実逃避になるからか。でも、それだけならファンタジーやSFみたいな別ジャンルに惹かれてもいいはずだ。けれど、俺はそうならなかった。
俺はきっと、ホラー独特の「現実と異世界の境界」に惹かれているんだと思う。
普通に現実を生きている俺たちでも一歩踏み出せば、そこは異界かもしれない。それは誰の身にでも起こる。現実世界では起こり得ない不条理が起こるかもしれない。そこには定石なんてなくて、何が起こるかもわからない。その不安定さに、妙なわくわくを感じる。
それに、異界の者たちが抱える怨念や呪念には、時に生きている人間よりも強烈なエネルギーがある。少なくとも、今の俺よりは。
だからこそ、俺はそこに憧れてしまう。怖さよりも憧れの方が勝ってしまう。本当はこんな自分を変えたい。現実を変えたい。レールから外れた人生を生きてみたい。でも勇気がない。異界のナニモノかが俺のことを異世界に連れていってくれないだろうか。
でも、そんなことは起きるわけもなく、俺は今日も死んだみたいに生きている。
もうとっくに自分自身が幽霊みたいだった。
夜、久しぶりに押し入れから取り出したポータブルDVDプレイヤーのコンセントを差し込み、電源を入れる。
何を観ようか。
明日は土曜日だし、朝はゆっくり寝ていられる。しばらく悩んだ末、数十年前に日本で流行った作品のディスクを入れた。部屋の電気を消し、布団へ潜り込む。イヤホンを耳にはめ、ジャックを差し込む。
再生ボタンを押せば、そこはもう俺だけの映画館だ。
画面から伝わってくる、じめっとした空気。ざらついた映像。仰々しい音楽と、今ほど精巧ではないからこそ不気味でおどろおどろしい幽霊の造形。
俺はうっとりと、その世界に酔いしれた。
あれから一か月ほどが過ぎた。案の定、準備はうまく進まないまま、東条祭二週間前を迎えていた。
決まったこと
・演目は『ロミオとジュリエット』 (図書室においてある脚本付きの本がこれしかなかった)
・ロミオ役は那須 (「イケメン!」と煽てられ、そのままセリフ量の多い役を押しつけられた)
・ジュリエット役は田中 (副委員長だから、という理由で押しつけられた)
・なぜか妙にやる気のある吉川が、セットや衣装など裏方全般のリーダー
俺は委員長として、各担当の調整役をすることになった。
その他にも、ロレンス神父やロミオの親友マキューシオなど、重要な役もなんとか決まった。それ以外の役については、「ほとんど重要なセリフないから!」と説得し、どうにか全員の配役を終えた。
演者たちにはコピーした脚本を配ってある。東条祭の数日前には、本番と同じ体育館の壇上で通し稽古をするので、それまでにはセリフを覚え、同じシーンの演者同士で軽く掛け合いの練習までしておくよう頼んだ。
それ以外の生徒たちは、衣装や大道具、小道具の作成担当だ。 吉川が張り切って仕切っているようだが、彼女は人をまとめるのに向いているとは言いがたく、少し心配していた。案の定、吉川のこだわりの強さについていけず、協力する人数は少しずつ減っていく。俺が口を出すと、「大丈夫大丈夫。本番までには絶対間に合わせるから」と笑うが、本当に大丈夫なのだろうか。
担任に、どこまで演劇の準備が進んでいるのか尋ねられ、現状を報告すると、頭をかきながらため息をつかれた。 四十代の小柄な中年男性。いつもシワシワの安っぽいスーツを着ている。四月にこの人が担任になってからずっと思っているが、有名進学校の教師とは思えないくらいやる気がない。この演劇についても、まったく手伝うそぶりを見せない。
「当日までに間に合いそう?」
「多分、大丈夫だと思います」
「笑いもんになるような駄作にはすんなよ」
冗談まじりにそう言われ、俺は苦笑いをした。 本当はぶん殴って、「じゃあ、お前も手伝えよ!」と言ってやりたかった。苦笑いで済ませた情けない自分もぶん殴ってやりたいくらい腹が立った。
来週の月曜から、九時まで校舎が開放される。放課後、クラスメイトと来週からの準備の打ち合わせを軽く済ませ、校舎を出た。
演者はちゃんとセリフを覚えてくるだろうか。セットは間に合うだろうか。クラスメイトたちの間にある火種は爆発しないだろうか。
家路をたどる間も、俺の頭は東条祭のことでいっぱいだった。
学校から家までは電車で一本。半年ほどほぼ毎日往復していれば、道順なんて考えなくても足が覚えている。
ふと気づくと、もう家の近くまで来ていた。
閑静な住宅街の中でも際立って大きい、二階建ての一軒家。それが我が家だ。 玄関の灯りがついている。自宅の灯りなんて、本来なら安心するはずのものなのに、俺はそこに逃げ場のない息苦しさを感じていた。まだ学校にいるほうがマシだ。
玄関の扉を開け、すぐ二階の自室へ向かおうとしたが、台所に母の姿が見えたので顔を出す。
「母さん」
「あっ、おかえり」
「ただいま。実はさ、東条祭の準備があんまり進んでなくて、来週から毎日帰るのが九時くらいになるかも」
「あら、そう。わかった。気をつけ――」
そこまで言って、母の視線が俺の後ろで固まった。俺はすぐに察して、そちらを見る。
「毎日?この前は数日って言ってなかったか?」
父の低い声。白衣こそ着ていないが、その雰囲気は職場にいる時と変わらない。父は家の中でも、厳しい医者のような顔をしている。
「東条祭が終われば、また普通の生活に戻る」
俺は言い訳のように答えた。
「“終われば”、か」
父は小さく息を吐いた。
「その程度の理由で、勉強を疎かにするのは感心しないけどな」
淡々とした言葉。
そのことは、この前話し合ったはずだ。 学級委員長という立場上、東条祭の出し物を放り出すわけにはいかない。だから、九時まで学校が開放される間の平日は塾を休む。その代わり、帰宅後に一時間自習し、土日の塾の補習にも入る。
それで合意したはずだった。
兄だって、その条件で東条祭の時期は九時まで学校に残っていたと聞いている。それとも、兄は俺より成績優秀だったから特別だった?
しかし、俺は反論の言葉を飲み込む。ずっとこうしてきた。
「お前は、わかっているはずだ」
父の視線がまっすぐ突き刺さる。
「無駄なことに時間を使っている余裕はない」
「……わかってる」
苦笑いとともにそう言った。自分でも驚くくらい、感情がこもっていない。そんな俺を見て、母も苦笑いをしていた。俺と母は、苦笑いばかりうまくなる。
脳裏に兄の顔が浮かんだ。父と話していると、いつも兄と比べられている気がする。小さな頃から、俺より何もかも秀でていた兄。要領がよく、たくさんの人に好かれていた兄。父親の期待通り、東京の一流大学に入り、医者を目指している兄。俺は、何もかも兄以下で、いつも卑屈だった。
兄はそんな俺を本当に可愛がってくれた。だから俺も兄のことが好きだし、尊敬している。だからこそ、たまに思う。兄が俺にもっと意地悪で、俺も兄を憎めたなら、今より少しは楽だったのかもしれない、と。
「後でご飯食べる」
それだけ言って、俺はその場を離れた。早くこの空気から逃げたかった。
階段を上がって自室に入り、はあと大きく息をつく。カバンを置き、そのままベッドへ倒れ込んだ。
とても勉強する気にはなれなかった。
俺の部屋は、中学の頃とはすっかり変わってしまった。
中学の頃から、父はずっと言っていた。
「高校に入ったら勉強第一だ。将来のことを考えながら高校生活を送りなさい。ここで人生の勝ち組になるか負け組になるか決まるんだからな」
その後、俺は父の母校である東条高校に合格した。そして入学した途端、中学時代よりさらに厳しい制限が始まった。
高校で部活に入ることは許されなかった。中学三年間打ち込んだ剣道の防具も、今では物置で埃をかぶっている。
高校一年生なんて、もう大人だ。働いている人だっている。なのに、なぜそこまで父親に従うのかと思われるかもしれない。しかし、波風を立てたくない俺の性格と、波風を立ててでも自分が支配者でいたい父親は、相性が良すぎるのだ。
俺には意思がない。
父親に「医者になれ」と言われれば、そのための勉強をする。剣道部で練習しろと言われれば練習をする。「学級委員長は黒崎くんがいいんじゃない?」と言われれば引き受ける。
頭がいいとか、優しいとか、頼りになるとか、周囲は言ってくれる。
でも本当は違う。
自分の意思がないから、世の中のことすべてがどうでもいい。 波風を立てたくないから、自分が損をしてでも平穏に物事が進むほうを選んでしまう。
しかし、そんな俺にも、どうしてもやめられない趣味がある。
『ホラー映画』だ。
小学生の頃、友達と一緒に観に行ったホラー映画に衝撃を受け、そのままどっぷりとホラー映画にハマってしまった。 その後、母に「別のホラー映画も観に行きたい」とねだったところ、父に見つかり、「くだらないものを観るな」と怒られた。しかし母は、その後こっそりと子ども向けのホラー映画に何度か連れて行ってくれた。
中学生になると、スマホで新作ホラー映画の情報を集め、「友達の家に勉強しに行く」と嘘をついて映画館へ出かけた。 大人に従順で、規則を守って生きてきた俺が唯一やった悪事だ。
今でも映画は観に行くし、小遣いをためてホラー映画のDVDや関連書籍、海外ホラーで大好きなキャラクターのフィギュアまでこっそり買い集めている。 それらは丁寧に箱へ詰め、父に見つからないよう押し入れの奥へ隠している。いつか一人暮らしを始めたら、思う存分堪能するつもりだ。
この趣味を知っているのは、おそらく気づいていながら気づいていないふりをしてくれている母と、中学時代の同級生で剣道部の主将だった永井だけだ。
俺はベッドに寝転がったまま、参考書が並ぶ棚の隅に置かれた、中学剣道部全員で撮った最後の県大会の写真へ目を向けた。 優勝メダルと賞状を手にした俺は、永井と肩を組みながら歯を剥き出しにして笑っている。
もう別人みたいだ。
当時は鍛えていたこともあって体格も良く、部員たちから「お前、試合前から威圧感すごいよ」と冗談まじりに言われていた。きっと今の俺には、あの頃ほどの筋力も、試合相手を威圧するほどの覇気もない。
剣道部のグループチャットはいまだに時々動いているが、四月に入ってから俺が投稿したことは一度もない。 部員たちはそれぞれ別の高校へ進学したため、そこで互いの近況を知る。みんな、一度きりの高校生活を満喫しているようだった。
ふと思い出す。
以前、俺が「夜中に布団へ潜り込んで、ポータブルDVDプレイヤーでホラー映画を観ている」と話した時、永井に「よくそんなことできるな。怖くないの?」と言われたことがある。
その時、俺は考えた。 なぜ自分はこんなにもホラー映画が好きなのだろう、と。
非日常だからか。 現実逃避になるからか。でも、それだけならファンタジーやSFみたいな別ジャンルに惹かれてもいいはずだ。けれど、俺はそうならなかった。
俺はきっと、ホラー独特の「現実と異世界の境界」に惹かれているんだと思う。
普通に現実を生きている俺たちでも一歩踏み出せば、そこは異界かもしれない。それは誰の身にでも起こる。現実世界では起こり得ない不条理が起こるかもしれない。そこには定石なんてなくて、何が起こるかもわからない。その不安定さに、妙なわくわくを感じる。
それに、異界の者たちが抱える怨念や呪念には、時に生きている人間よりも強烈なエネルギーがある。少なくとも、今の俺よりは。
だからこそ、俺はそこに憧れてしまう。怖さよりも憧れの方が勝ってしまう。本当はこんな自分を変えたい。現実を変えたい。レールから外れた人生を生きてみたい。でも勇気がない。異界のナニモノかが俺のことを異世界に連れていってくれないだろうか。
でも、そんなことは起きるわけもなく、俺は今日も死んだみたいに生きている。
もうとっくに自分自身が幽霊みたいだった。
夜、久しぶりに押し入れから取り出したポータブルDVDプレイヤーのコンセントを差し込み、電源を入れる。
何を観ようか。
明日は土曜日だし、朝はゆっくり寝ていられる。しばらく悩んだ末、数十年前に日本で流行った作品のディスクを入れた。部屋の電気を消し、布団へ潜り込む。イヤホンを耳にはめ、ジャックを差し込む。
再生ボタンを押せば、そこはもう俺だけの映画館だ。
画面から伝わってくる、じめっとした空気。ざらついた映像。仰々しい音楽と、今ほど精巧ではないからこそ不気味でおどろおどろしい幽霊の造形。
俺はうっとりと、その世界に酔いしれた。
