今夜、カーテンの中で


 劇が終わり、撤収作業中もクラスメイトたちの熱気はなかなか冷めなかった。
 拍手や歓声がまだ頭の中で鳴っている。成功の余韻に浮かれ、誰かが泣き、誰かが笑い、あちこちで「やばかった」「成功じゃん」と声が飛び交っていた。
 俺も笑っていた。けれど心のどこかは妙に静かだった。終わったんだ、と思う。
 そういえば、『ロミオとジュリエット』の物語は、二人が恋に落ちて、結婚して、死ぬまでのたった数日間の出来事だ。
 沢野と過ごした時間がなければ、こんなのただのおとぎ話だと思っていたに違いない。しかし、俺はこの二週間の間に沢野に会って、恋をして、そして今日でその恋が終わる。
 ロミオはジュリエットを追ってしまったが、俺は現実を生きなければいけない。それが沢野の願いだから。
「黒崎」
 不意に声をかけられる。
 振り返ると、見知らぬ年配の男性教師が立っていた。
「少しいいか?」
「……はい?」

 俺は撤収作業や次のステージの準備の邪魔にならないよう、体育館の外へ出た。
 先生は体育館の方を振り返りながら、どこか懐かしそうに笑った。
「いい劇だった」
「ありがとうございます」
「あの舞台セット。あれ、旧演劇部の部室から持ってきたんだろ? 山下先生から聞いたよ」
 胸が騒つく。 
「僕は二年A組の担任をやってるんだけどね。うちの生徒が夏休みにあそこを見つけてね」
 もしかして、その生徒って。
 聞きたい。でも、聞きたくない気もする。
 俺が考えを巡らせている間にも、彼はさらに話し続けた。
「演劇同好会を自分で作るって張り切ってたんだけど、その途中で事故に遭ってしまって」
 頭の中で沢野の姿が浮かぶ。演劇部の旧部室を覚えていた理由。全部が少しずつ繋がっていく。
「あの」
 俺は声を無理やり押し出した。
「あの、その生徒って沢野って名前ですか?」
 先生は少し驚いた顔をしてから、「そうそう」と頷いた。
 俺は俯きながら、一番口にしたくなかった言葉を吐き出す覚悟をする。
「……いつ、亡くなったんですか」
 一瞬の沈黙。
 覚悟を決めて発した言葉に、返事がない。
 俺が顔を上げると、先生は怪訝そうに眉を寄せていた。
「いや、死んでないぞ?」
 俺の思考が止まる。
「……は?」
「だから、死んでない」
 先生のほうが逆に戸惑っていた。
「今も意識不明で入院中だけど、死んでない」

 その瞬間、世界がひっくり返った。

 俺の中で何かが弾け飛ぶ。
「……え」
 頭が真っ白になる。理解が追いつかない。
 死んでない?沢野が?
 じゃあ今まで自分が会っていたのは――。
(生き霊……?)
 俺はすがるように先生を見た。
「本当に生きてるんですか」
「うん、生きてるよ」
 そこまで聞いた瞬間だった。閉じ込められていた感情が、一気に溢れ出す。
 信じられないくらい嬉しい。
 俺は思わず口元を押さえた。
「……生きてる」
 呆然と呟く。
 俺の前で笑って、泣いて、キスをした沢野は、全部、ちゃんと存在していたんだ。
 沢野はこの世に存在している。この世界のどこかで今もちゃんと呼吸をしている。
 その事実だけで、全部が変わる。
 会えるかもしれない。未来があるかもしれない。ちゃんと恋人になれるかもしれない。
 そんな当たり前の可能性が、どうしようもなく嬉しかった。
 俺は笑った。急に笑い出した俺を見て、先生が戸惑っている。
「大丈夫か?」
「あの、その……沢野……さんが入院してる病院、教えてもらえますか」
 嬉しすぎて震える声でそう言うと、先生は本格的に俺がおかしくなってしまったと思ったらしく、心配そうに言った。
「教える、教えるから。本当に大丈夫か?」
 そう言って俺の肩に手を添えながら、自身のスマホをポケットから取り出す。
 先生がスマホを見ながら病院の名前と電話番号、それから沢野の病室の番号を教えてくれる。
 それを自分のスマホにメモした瞬間、俺は走り出していた。
 東条祭の喧騒を抜ける。廊下を駆けて、教室に戻り、自分の鞄を掴む。
 すれ違うクラスメイトに声をかけられるが、「ごめん!」と言いながら走り去った。
 そんな俺を、クラスメイトたちが不思議そうに見ている。
 正門を抜け、バス停を目指す。
 ナビで検索すると、最寄りのバス停は繁華街の近くだった。たぶん行き方はわかる。
 早くバスに乗りたくて全力で走る。中学時代はあんなに走れたのに、運動をしていないせいか、もう息が切れている。それでも止まれなかった。
 胸が苦しい。息も切れている。なのに体は軽かった。
 (早く会いたい!)
 心の奥で、沢野の名前だけが何度も何度も響いていた。

 俺は呼吸を整えながら、病院へ入る。窓口で沢野の病室の場所をきき、早足で向かう。病室は二人部屋で、手前のベッドは無人だった。見舞い客や病院関係者の姿もない。
 俺は窓際のベッドへゆっくり近づく。
「沢野だ……」
 思わず口に出てしまった。
 白いベッドに横たわる沢野は、何本かの管に繋がれているものの、俺が知っているあの沢野だった。
 力なくベッドの上に置かれた手。軽く曲がった指先を、俺はじっと見つめる。
 ずっと俺の隣にあった手。それなのに握れなかった手。
 出会って二日目。ちゃんと会話をした日。俺たちは握手をした。違う世界にいる俺たちの、形だけの握手。
 あの時のことを、俺ははっきり覚えている。
 沢野の体が目の前にあっても、その時の記憶が俺を不安にさせる。この体は本物だろうか。触ってもすり抜けたりしないだろうか。
 俺は恐る恐るその手に触れた。
 俺の皮膚と沢野の皮膚が触れ合う。そこにいる。ちゃんと体がある。
 そして、その手をそっと握った。
 体温は低い。それでも薄い皮膚の下には血液が流れ、肉があり、骨がある。
 確かに、生きている人間の手だった。
 沢野は俺と同じ世界に生きている。それを改めて感じて胸の奥がじんわりとあったかくなる。
 不意に廊下から看護師たちの声がきこえてきて、手をさっと離した。こんなところを誰かに見られたら、変に思われるかもしれない。

 そして、ふと顔を上げた瞬間、俺の視線は釘付けになった。
 病室のカーテン。
 白くて、薄くて、少し色褪せたカーテン。
 それは理科準備室で見たカーテンと、そっくりだった。