今夜、カーテンの中で

東条祭当日 (土曜日)

 当日の朝。まだ七時前だというのに、学校はすでに騒がしかった。
 正門には色とりどりの装飾が吊るされ、「東条祭」の看板が立てかけられている。普段なら眠そうに登校してくる生徒たちも、今日はどこか浮き足立っていた。
 グラウンドでは東条祭実行委員がテントを運び、模擬店用の机やパネルが並び始めていた。
「おはよう」
 教室に入り、俺が挨拶すると、すでにたくさんのクラスメイトが集まっていた。みんな劇の準備に余念がないようだ。
 ほんの数週間前までは、正直そこまで本気になるつもりはなかった。適当に終わると思っていた。きっとみんなもそうだったはずだ。
 でも今は違う。この舞台を成功させたい。心の底からそう思う。
 午前中はクラスメイトと一緒に喫茶店やお化け屋敷、部活や個人で行っている展示を回った。体育館では一日中ステージ企画が行われているので、途中で覗いてみる。ちょうどダンス部がパフォーマンスを披露していた。
「客席からはこういうふうに見えるのか」
「午前中でもお客さん結構入ってんじゃん」
「緊張してきた……」
 俺たちのクラスが劇を披露するのは午後二時から。昼ごはんの時間帯も過ぎ、一番人が集まるとされる時間帯だ。
 いよいよ、自分たちの出番が近づいていることが現実味を帯びてきた。それまでお祭り気分で散策していた俺たちは、一気に緊張感に包まれる。
 ステージのタイムテーブルは一つ終わるごとに壇上の幕が下り、三十分の休憩が入る。その三十分が次のステージの準備時間だ。そうこうしているうちに午後一時を迎える。あと三十分もすれば、自分たちの準備時間となる。
 一時二十分。
 準備のためにクラスメイトたちも続々と集まってくる。これまでまったく劇の準備に参加してこなかった担任がハンディビデオカメラを片手に現れる。
「みんなの勇姿。俺がばっちり納めるからな!」
 クラスメイトたちの冷ややかな目。しかし、そんなことはお構いなしに彼はカメラの操作確認をしている。
 そんな中、体育館裏で項を垂れている那須を見つけた。衣装を着て、ヘアメイクもばっちり決まっている。
「おい」
 声をかけると、「うわっ!」と言って飛び上がった。
「大丈夫か?」
 那須の顔色は悪い。
「だ、大丈夫だって!」
「そうは見えないけど」
「いや、なんかさ……」
 那須は唇を震わせながら言った。
「めっちゃ緊張してる」
「は? それだけ?」
「それだけってなんだよ!お前にはわかんねーよ!」
「大丈夫だって。昨日のリハーサルだってすごく良かったし」
「でもあれは練習だろ。衣装着て、化粧もして、本番のお客さんが入った舞台を見たら、ついに本番なんだって思って。失敗したらどうしようって思っちゃって」
「お前、いっつも授業中に大声で先生に茶々入れてんのに。こういうのには弱いのかよ」
「あれとこれとは別」
 両手で顔を覆う那須に、なんと声をかけていいのかわからずにいると、後ろから声が飛んできた。
「那須くん、大丈夫」
 田中だった。彼女も衣装を着て、メイクもばっちりだ。
「いっぱい練習したでしょ? 私たち、何回も何回もうまくできたじゃない。思い出して」
「うん……」
 やはり部外者に言われる「大丈夫」と、一緒に主役を演じる相手から言われる「大丈夫」では効力が違うらしい。
「深呼吸しよう。吸って、吐いて」
 那須は田中の言う通り、息を吸って吐いて深呼吸を繰り返す。どうやら那須は田中に任せたほうが良さそうだ。
 体育館裏口の扉を開ける。ここから直接舞台袖へ行ける。
「大道具こっち運んで!」
「照明まだ位置ズレてる!」
 すでに前のステージは終わり、クラスメイトたちは動き始めていた。
 壇上では背景パネルの固定作業、演者の立ち位置確認、照明の角度の調整と最終確認中だ。
 俺は大道具のほうへ向かった。
「これどこ置く?」
「二幕終わりのあと、すぐ出せる位置!」
「了解」
 木製パネルを持ち上げる。
 東条祭前の毎日を思い出した。全部が、ちゃんと今日へ繋がっている。
 その時だった。
「まだメイク終わってない人いるー?」
 体育館の空気をぶち破るような大声。振り返ると、吉川が袖の方から大量の衣装を抱えて入ってきた。
 メインの演者の衣装は、あの旧部室にあったものを手直しして着られるようにしたものだ。それ以外の中世ヨーロッパ風の衣装は、吉川がかき集めてきた。
「終わってない人は私んとこ来て!」
「はい女子!着替えるところはあっちに作ったからそっちで着替えて!」
「男子もちゃんとシャツ入れて! 中世ヨーロッパだから!」
 吉川が来ると空気が動く。彼女は大道具も衣装もメイクも、とにかく全部に本気だった。
 その後も限られた時間の中で、ひたすら準備を続けた。

 みんな興奮している。緊張していた空気が、少しずつ自信へ変わっていく。
 開演時間まであと数分。客席はほぼ埋まっている。体育館の空気が少しずつ張り詰めていった。
 全員が舞台袖へ集まる。
 吉川が「円陣やろう」と言い出した。
「スポーツ漫画みたい」
「でもやりたくない?」
「確かに」
 自然と輪ができる。俺もその中へ入った。
 みんなの顔を見る。緊張してるやつ。興奮してるやつ。泣きそうなやつ。でも全員、同じ顔をしていた。本気の顔だった。
 その光景を見ながら、胸の奥が熱くなる。ぶつかって、悩んで。それでも一緒にここまで来た。だから成功してほしい。
「黒崎、なんか言ってよ」
 誰かが言う。
「え、俺?」
「学級委員長だし」
「締めて締めて!」
 みんなが笑う。
 俺は少し困った。
 でも、輪の中の顔を見ていると、不思議とちゃんと言葉にしたくなった。
「ここまで来れたのってみんなのおかげだと思う。だから今日は、絶対成功させよう」
 静かに頷くみんな。
「楽しんでもらおう」
 その瞬間。
「おーーー!!」
 全員の声が響いた。
 手が重なりあい、体温が混ざり合う。まるでクラス全体がひとつの生き物のように共鳴していた。
 

 開演ベルが鳴る。体育館の照明がゆっくり落ちていくのを俺は舞台袖から見ていた。
 さっきまでざわめいていた観客席が、少しずつ静かになる。
 誰かの咳払い。ひそひそとした声。パイプ椅子が軋む音。その全部が、暗闇の中に吸い込まれていく。
 そして、客席が完全に静まり、幕がゆっくり上がった。


 口上役の声がスピーカーから流れる。
「これからご覧いれますのは……」
 名作古典劇に見合う厳かな声が体育館に響く。
「古きイタリア、ヴェローナの地にて繰り広げられた、二つの家の争いと、二人の若者の悲恋――」
 口上が終わると、体育館の左扉と右扉にスポットライトが当たる。いきなり壇上ではないところスポットライトが当たったためか、客席がざわっとする。右にいるのはキュビレット家の若者。左にいるのはモンターギュ家の若者。その二人が舞台上まで走ってきて剣を交えながらぶつかりあう。激しい足音と怒号。長年の因縁を表す場面だ。
 照明が切り替わる。
 重低音の音楽。舞踏会のざわめきはBGMで上手く表現できている。そして、BGMがだんだんと小さくなり舞台中央へロミオが現れる。仮面をつけているが、その仕草や声色でどこか憂いを帯びた表情をしているのがわかる。いつもの那須とは大違いだ。
 隣には親友マキューシオ。
「いつまで落ち込んでんだよ、ロミオ!」
 陽気なマキューシオが肩を叩く。
「今から舞踏会だぜ!失恋したことは忘れて楽しまなきゃ損だ!」
「本当にお前はくだらないことをぺらぺらと……」
 この後も二人の軽快な会話が続く。テンポがいい。マキュージオ役を那須の本当の友人に配役したのは正解だった。この二人の会話はきいていて心地がいい。それに開演までは大丈夫かと心配していた那須も本番になると驚くほど堂々としていた。
 舞踏会のシーンへ切り替わる。舞台の袖から数人の男女が出てきて踊る。照明をうまく使っているおかげで体育館全体がきらきらとしたダンスホールのようになっていた。
 その中でジュリエットが現れる。
 薄ピンクのドレスについた細かなパールが照明で煌びやかに光る。光を受けて揺れる髪。姿勢良く歩く姿。田中は本当に美しかった。
 客席が静かにざわめく。
 ロミオとジュリエットの目が合う。そして物語は動き出す。
 ロミオがゆっくりと歩み寄り、そっとジュリエットの手を取った。
「この汚い手で清らかなこの手を汚すのは愛の罪」
 静かな声。
 体育館中が聞き入っている。
 ジュリエットが微笑む。
「優しい巡礼さん、ご自分の手に厳しすぎますわ」
 その返しに、客席の空気がふっと柔らかくなる。
 まるで本当に恋が始まる瞬間を見ているみたいだった。
 ロミオがジュリエットの手へ口づけを落とす。
 照明が二人だけを照らす。
 物語は進み、一番有名なバルコニーのシーン。
 ここがこの劇最大の見せ場だった。
 右端には吉川の力作、バルコニーのセット。ジュリエットが一人、バルコニーへ現れる。続いて、左端の膝丈の植木のセットに隠れるように現れるロミオ。真っ暗な中、静かな夜を照明の青白い光で演出する。その光は二人だけにあたっている。
 田中が空を見上げる。その横顔はには緊張して台本片手に棒読みの演技をしていた田中の姿は微塵もなかった。
「ああロミオどうしてあなたはロミオなの?」
 本当に初めて恋を知ってしまった少女のようだ。
「私の敵はあなたの名前だけ。あぁ、何か別の名前になって」
 那須は上を向いて答える。
「恋人と呼んでください。それが僕の新たな名前。もうロミオじゃない。」
 そしてそのままバルコニーのセットから身を乗り出して下を向くジュリエットと物陰から上を見上げるロミオだけの世界となる。この二人だけの世界でひとときの逢瀬を楽しむ。まっくらな舞台でスポットライトを二人だけに当てて高低差を出すという演出だ。
 ふと気づくと隣で吉川もじっと舞台上を見ていた。
「吉川がやりたかったことできてよかったな」
 俺は小さな声で吉川に言った。
「うん、よかった。めっちゃいいシーン」
 うっとりとした声で吉川が答えた。やがて暗闇の中にいた二人だが、だんだんと舞台が明るくなる。
「もうすぐ朝だわ、行って」
 ジュリエットの名残惜しそうな声。二人の幸せな逢瀬は朝が来たことにより終わってしまう。
「神父様のところへ行って力を貸してもらおう」
 そう言って知り合いのローレンス神父の元へむかうロミオ。ローレンス神父の教会で秘密の結婚をあげる二人。
 しかし幸福は長く続かない。マキューシオがジュリエットの従兄ティボルトに刺殺される。初めのシーンで観客もマキューシオに親しみを覚えていた分。彼が刺された時には会場から小さな悲鳴が上がった。そして復讐としてティボルトを刺殺するロミオ。
 ここから一気に悲劇へ傾いていく。
 ロミオは町から追放される。ジュリエットはローレンス神父からもらった「四十二時間、仮死状態になる薬」でこの町から脱出する計画を立てる。
 観客席が静まり返る。誰も先を知らないわけじゃない。でも知っているからこそ、苦しい。
 薄暗い照明。静かな音楽。
 手違いから本当にジュリエットが死んだと思ったロミオ。舞台の中央には棺桶の中で眠るジュリエット。
 ロミオは震える声で語りかける。そして最後は「こうして口づけしよう」と毒を飲み、ジュリエットに口づけして倒れる。全く違和感のない口づけ。那須がDVDを観ながら研究したロミオらしい振る舞いはこんなところにも活きていた。観客もロミオとジュリエットのゆくすえに集中していて冷やかす声もあがらない。
 一時の静寂。その数秒後、ジュリエットが目を覚ます。
「ロミオ……?」
 声が震える。
 ロミオの亡骸を見る。ジュリエットは崩れ落ちる。そしてロミオの短剣を手に取る。
 そして悲痛な声で叫ぶ。
「幸せな剣よ。この体をお前の鞘にして!私を死なせて!」
 剣を胸へ突き立てる。BGMがぴったととまる。静寂の中、二人の重なり合った遺体だけが壇上にある。
 やがて、両家の人々が現れる。亡骸を前に立ち尽くす。
「……もう争いはやめよう」
キュピレット家とモンタギュー家が和解したところで静かに幕が下がる。


 体育館が割れそうなほどの拍手に包まれた。
 俺は安堵感でいっぱいだった。隣にいた吉川が俺の制服の袖を掴み、ぶんぶん振り回す。
「やったやった黒崎!大成功……って、あれ?」
 彼女が俺をじっと見つめる。
「泣いてる?」
 そして、一際大きな声をあげた。
「やだ、黒崎が泣いてる!」
「泣いてねぇよ!」
 俺は腕にまとわりついてくる吉川を振り払い、制服の袖で涙を乱暴に拭く。
 吉川のことだから、またぎゃははと笑ってバカにしてくるかと思ったが、そうじゃなかった。
「ほら、ティッシュ」
 壇上の光を見つめながら、近くにあったティッシュ箱を差し出してくる。俺は素直に受け取った。
「泣いていいよ。私も泣きそうだから」
 よく見ると、吉川の大きな目も潤んでいた。
 周りを見渡すと、裏方として支えていたメンバーも、役を終えてなお壇上を見つめていた演者たちも、みんな同じように目を潤ませていた。
 もう一度幕が上がり、壇上で喝采を浴びていた那須が、こちらへ走ってきて声をかける。
「お前らも来いよ!」
 那須は手の届く生徒たちを一人ずつ引っ張り、壇上へ押し出していく。
 客席から見える所へ行くことに戸惑っていた生徒たちも、壇上で拍手喝采の中、照明を浴びるうちに、少し照れくさそうにしながらも客席へ向かって笑顔でお辞儀をしていた。
「ほら、黒崎も行くよ」
 俺は吉川に手を引かれ、壇上へ上がる。
 たくさんの観客の笑顔。
 満足そうに笑い合うクラスメイトたち。
 俺の人生に、こんな瞬間があるなんて思わなかった。
 拍手は、まだ鳴り止まない。