今夜、カーテンの中で

東条祭まであと1日(金曜日)


 六時を過ぎ、こっそり理科準備室を出た俺は、早朝に登校した生徒の顔をして教室に入った。
 その後、眠気を噛み殺しながら授業をこなし、放課後は体育館で最終リハーサルを終えた。満足な出来栄えだった。このままやれば、きっと当日も成功する。俺たちは緊張と期待を抱えながら解散した。
(ただ……俺の本番はここからなんだよな)


 玄関の扉を開ける。父がいつも履いている革靴が目に入る。絶対に怒鳴られる。それはもう確定していた。

 それでも以前ほど息苦しくなかったのは、自分でも不思議だった。
「ただいま」
 努めていつも通りに言う。母が玄関まで飛び出してくる。その顔は不安に満ちていた。
「お父さん、リビングにいるから」
 リビングのソファに父は座っていた。俺が帰ってきたことはわかっているはずなのに、微動だにしない。俺は父の視界に入るところまで行く。父の顔は静かな怒りで燃えていた。こんな父を見るのは初めてだった。
「……ごめん」
「ごめんじゃない」
 低く押し殺した声なのに、空気が震える。
「お前、自分が何をしたかわかっているのか」
 父が立ち上がった。俺と同じくらいの背丈だが、その威圧感のせいで俺は縮んでしまいそうだった。でも、ここで負けるわけにはいかない。
「友達の家に泊まる?東条祭が近いから?お前の言い訳にはうんざりだ。母さんからの連絡も無視して……何をしてるんだ?」
「……」
「返事をしろ!」
 怒号が飛んだ。母がびくりと肩を震わせた。
「お前は自分がどういう立場かわかっていない。黒崎家の人間がこんな軽率な真似をしていいと思ってるのか?」
 また始まった、とぼんやり思った。家の名誉。恥。期待。幼い頃から何度も聞かされてきた言葉。
『黒崎は、現実を優先しなきゃだめだよ』
 沢野の声が聞こえた。
 俺の現実ってこれなのか?違うだろ。現実を生きるって、父親の言いなりになることじゃないだろ?
「父さん」
「何だ」
「俺、前から思ってたんだけど」
 父が眉をひそめる。
「父さんの言う“強者”って、何?」
 父は呆れたように鼻で笑った。
「そんなこともわかんないのか。競争に勝つ人間だ。高い地位につき、多くを得る人間だよ」
「じゃあ負けた人間は?」
「淘汰される。それが社会だ」
「……ほんとに?」
 父を真っ直ぐ見た。
「父さん、いつも“周りは敵だ”って言うよね。友達も、クラスメイトも、いずれ競争相手になるって」
「当然だ」
「でもさ」
 静かに続ける。
「東条祭の劇、今めちゃくちゃ大変なんだ」
「そんな話は――」
「聞いて」
 自分の声の強さに驚いた。父も目を見開いている。
「みんな失敗しそうで、不安で、ピリピリしてて。正直、俺も逃げたかった。でも昨日、クラスのみんなが本気で頑張ってるの見て思ったんだ」
 目を輝かせていた吉川。笑っていた田中。那須の真剣な横顔。その他にも、たくさんのクラスメイトたちが本気で取り組んでいた。
「俺、あいつらのこと敵だって思えなかった」
「甘いな」
「甘くていい」
 俺は即答した。
「競争して勝つことしか考えてない人間より、誰かと一緒に何かを真剣に作って笑ってるやつの方が、俺はずっと強いと思う」
「綺麗事だ」
「そうかもね。でも父さんの言うことだって、結局ただの個人的な価値観だろ」
 父の顔色が変わる。
「父さんは、自分が正しいと思う道を勝手に俺に押し付けてるだけだ」
「悠馬!」
 母が青ざめた声を上げる。けれど俺はもう止まれなかった。
「父さんは兄ちゃんが好きだよね。優秀で、完璧で、期待通りだから」
「何が言いたい」
「俺は兄ちゃんにはなれない。ずっとなろうとしてた。でも無理だった」
「だったら努力しろ」
「してるよ」
「でもさ、努力しても苦しいだけだった。父さんの期待に応えようとすると、自分がどんどん嫌いになるんだ」
 静かに言った。
「だからもうやめる。父さんの理想の息子になるの」
 時計の秒針だけが響く。父はしばらく何も言わなかった。やがて低い声で吐き捨てる。
「……くだらない」
「そう思うならそれでいい」
「自分勝手なことを言うな。お前は黒崎家の――」
「俺は俺だよ」
 父を見据えたまま続ける。
「俺、医学部に行くかどうかも、自分で決める。行くかもしれないし、行かないかもしれない。これから先の全部を、自分で選びたい」
 父の顔が怒りで歪む。殴られるかと思った。けれど父は拳を握り締めたまま動かない。次に火がつけば一気に爆発しそうな緊張感の中、口を開いたのは母だった。
「……お父さん」
 震える声で父を呼ぶ。
「もう、やめましょうよ」
 父が振り返る。母は泣きそうな顔をしていた。
「悠馬、ずっと苦しそうだったじゃない」
「お前まで何を――」
「この子、今初めてちゃんと自分のこと話してるのよ」
 母と俺の目線が合う。その目はどこか安心したようにも見えた。
「悠馬」
「……うん」
「ごはん、食べる?」
 一気に力が抜けた。
 俺は思わず吹き出す。
「何それ」
「だって、お腹空いたでしょ」
 母も少し笑う。父だけが黙っていた。俺はその横を通り過ぎる。もう前みたいな恐怖はなかった。父は絶対的な存在じゃない。自分を縛る“世界のすべて”でもない。ただの一人の人間だ。
「勝手にしろ」
 そう言って父はリビングを出て行った。俺はその背中を見ながら、静かに息を吐いた。不思議なくらい、呼吸がしやすかった。

 その日の夜、気持ちが軽くなった俺は兄にメッセージを送った。
 兄は上京する前に俺に「なんかあったら連絡してこいよ」と言ってくれていた。だが、俺は一度も連絡していなかった。しかし、今日こそ連絡すべきかもしれない。今日の父とのやり取りを知った兄は何と返信してくるだろうか、という興味もあった。そわそわして待っていると、すぐに返信があった。

『ウケる。父さんと悠馬のケンカ俺も見たかった〜
 
 今度は俺も混ぜて笑
 
 ってか、今度の年末年始帰るけど、お土産何がいい?』
 
 思わず笑ってしまった。
 そうだ、兄はこういう人だった。直接的に父に刃向かったり、俺を慰めたりはしなかったが、いつもこうやってさりげなく家族の緩衝材になってくれる人だった。しばらく会わない間に忘れていた。
 結局、兄も母もずっと俺を守ってくれていた。俺が勝手に父の評価ばかりを気にして、心を閉ざしていただけなのかもしれない。
 今だったらわかる。
 世界は思っているより、俺に優しい。