今夜、カーテンの中で

東条祭まであと2日(木曜日)

この日の放課後はほとんど準備は終わり、残る生徒もセリフの最終確認をする生徒くらいだった。
「黒崎、帰んないの?」
「ああ、もうちょっと残る」
「じゃあ、先に帰るわ」
「お疲れ」
 教室は俺だけになった。時計を見ると八時四十五分。ちょうどいい頃だろう。先ほどのクラスメイトが正門を出るのを窓から見届け、もう教室まで戻ってこないことを確認すると、家から持ってきたリュックを背負って教室を出た。
 廊下へ出ると、一番初めに確認したのが月の光だった。
(あった)
 数日前と同じ光だ。俺はそれだけで、嬉しさのあまり飛び上がりそうだった。まだ俺は見捨てられていない。
 理科準備室の前に来る。扉は開いている。
「……いる?」
 そう言いながら部屋に入り、後ろ手で扉を閉める。数日前のようにカーテンには人影がある。俺は声が返ってくることを心の中で必死に願う。
「……いるよ」
 カーテンから沢野が顔を覗かせる。俺が何日も会いに来なかったことなどなかったかのように、彼は微笑んでいた。
 俺はドアを閉め、カーテンまで近づく。胸が強く鳴る。自分から拒否したくせに、ずっと求めていたものがそこにある。
「久しぶりだね。もう来ないかと思った」
 沢野がいたずらっぽく言う。
「ごめん。本当は演劇部の部室のことも、お礼言わなきゃいけなかったのに。俺のこと嫌いになった?」
「なってないよ」
「俺のこと恨んで、怨霊になっちゃったりしてない?」
 沢野は「なってないよー」と言って笑った。
その笑顔があまりにも優しくて、だからこそ己のエゴで会いに行かなかった自分に罪悪感を覚えた。一緒に笑いたかったが、うまく笑えなかった。そんな俺の気持ちを察したように、沢野も笑うのをやめた。
 沈黙が落ちる。

 今日の俺には計画がある。
 俺は沢野の横に座り、リュックを下ろした。
「沢野も座って」
 何をする気かと不思議そうな顔をしながら、言われるまま沢野が座る。
床に座ると、ちょうど顔が隠れるくらいまでカーテンがかかる、床はひんやりと冷たい。俺はリュックからブランケットを出して、座布団みたいに敷いた。沢野が座っているところまで敷こうかと思ったが、別に彼は床の冷たさなど感じない。やっぱりすぐ沢野が幽霊であることを忘れてしまう。
 鞄の中からポータブルDVDプレイヤーと、パッケージに入ったホラー映画のDVDを三つ取り出す。
「映画、見ない?」
「映画?」
「ホラー映画。俺のおすすめ三本」
 沢野が吹き出す。
「どうしたの急に」
 俺は、まだくすくすと笑っている沢野をまっすぐ見つめた。
「前に沢野、言ってくれたよな。東条祭が終わるまでしか会えないなら、その時間を大切にしたいって」
 沢野は笑っていた口元を結んだ。
「ちょっと色々あってここに来れなくてごめん。でも、よければ今晩はずっと俺と一緒にいてくれない?」
「今晩って、学校に泊まるってこと?」
 俺が突拍子もないことを言い始めたので、混乱したように沢野が尋ねる。
「そう」
「大丈夫なの?」
「学校は九時に警備員の人が閉めるけど、その後は誰もいなくなるはず」
「家の人にはなんて言ったの?」
「母さんに、友達の家に泊まるって」
「それで納得した?」
「多分納得してない」
 俺はスマホのホーム画面を見せる。電話のアイコンに「5」と書かれたバッジがついている。
「えっ、大丈夫?」
「まぁ、多分母さんが心配してるのは、これを知った時の父さんの反応なんだと思う。でも父さんのことはもうどうでもいいから」
 不安そうな顔をしている沢野を安心させたくて、俺は少し笑って見せた。
「それでも沢野に会いたくてここに来たんだから、嬉しそうな顔してよ」
 そう言うと、沢野は少し微笑んだ。そして、俺が持ってきたものの方が気になってきたらしい。
「でもこんな時間に?学校で?ホラー映画を観るの?」
「あっ、沢野ってホラー映画苦手な感じ?」
「わかんないよ。記憶ないんだもん」
「じゃあ大丈夫だ。俺は別に真夜中の学校でホラーを観ても怖くないし、沢野は自分が幽霊だから怖くないし。それに明日は劇の最後のリハーサルでここに来れないと思うし、当日の夜は打ち上げがあるから校舎に結構人いるし……」
 俺は少し間を置いて、あまり言いたくない言葉を口にした。
「こうやってゆっくり過ごせる時間が最後かもしれない」
 その言葉を口にした瞬間、胸が痛くなった。沢野も少し寂しそうに笑う。
「……観る」
 狭い空間。肩が触れそうなくらい近いのに触れ合わない。息遣いが聞こえそうなほど顔が近いのに、何も聞こえない。
 俺はDVDプレイヤーをコンセントに繋ぎ、小さな画面を二人の間に置いた。その後ろはカーテンで隠れている。ここはまるで小さな映画館みたいだった。

 その時、廊下で足音がした。俺は自然と息を止めて、沢野と顔を見合わせる。誰かこちらへ向かってくる。そして理科準備室の扉を、がちゃっと開けようとする音がする。
俺はびくっと肩を震わせる。鍵がかかっているため、何度か扉を開けようとしても開かない。
その後、静けさが訪れ、懐中電灯の光がゆらゆらと彷徨いながら通り過ぎていく。
 俺は小声で「警備員が施錠の確認に来たんだ」と言った。

 俺たちは緊張のあまりぎゅっと固まっていたため、沢野の顔がすぐ隣にあった。感触がないから、俺たちの体は重なり合うように近づいていた。
「なんかドキドキした。僕、幽霊なのに」
 あまりの緊張感からの緩和に二人で吹き出す。沢野が楽しそうに笑う。その顔を見るだけで、来てよかったと思った。
「何から先に観る?」
「どんなの?」
「ホラー好きじゃない人でも観れるやつ持ってきたつもり。話が難しくなくて、あんまりグロくないの」
「っていうか三本全部観るつもり?」
「もちろん。三本観て、見終わったら少し寝て、六時には校舎の鍵が開くから、そこでここから出て普通に一日過ごして帰る。それから、ほら、コーヒーとかも持ってきたし」
 俺はリュックから、ブラックコーヒーが入ったステンレスボトルと防寒対策の二枚目のブランケットを取り出す。
「ガチじゃん」
「ガチ」
 沢野は、俺が持ってきた三本のDVDをゆっくり眺める。
「黒崎、プレゼンしてよ」
 俺は嬉々としてその申し出を受けた。
「まず、一つ目。これはもうタイトルの通り、学校の怪談の話。子ども向けだけど、実際出来が良くてめちゃくちゃ怖い。学校で観るのにちょうどいいと思って選んだ。
二作目。これは海外の作品。ホラー映画マニアがホラー映画あるあるに沿って殺されていくって話。だから、俺が殺される話だと思って。
三作目も海外の作品で、実際にいた心霊研究家の夫婦が体験した事件を映画化したってやつで……実話って言われてる」
 俺はここでDVDに落としていた視線を上げる。
「正直、これは実話ってことで宣伝してるけど、信じてなかった。幽霊なんていないって思ってたから」
 沢野は、俺が言いたいことを察したらしい。ニヤリと笑った。
「じゃあ、今は実話かもって思ってる?」
「思ってる」
 その後も俺は作品の解説を続け、結局「学校の怪談」から観ることにした。
 映画が始まる。
古い校舎。不気味なBGM。じわじわ迫る怪異。
 沢野は意外なほど反応が良かった。
「うわっ!」
「びっくりした?」
「今の急に出るのずるくない!?」
「テンプレだろ」
 二人で声を殺して笑う。
 夜の学校でホラー映画を見る。状況だけ考えれば意味がわからない。でも、黒崎にとっては人生で一番楽しい時間だった。
 映画の終盤、
沢野が小さく呟く。
「黒崎はこんな状態でホラーを見て、よく怖くないね」
 俺は画面から目を離さずに答える。
「怖いんだけど…それよりあっちの世界に対しての憧れが強い感じかな。現実逃避みたいな感じ。誰でもいいから俺をこの現実から逃がしてくれないかって。異界に連れて行ってこの世界での俺を消してくれてないかって思ってた」
 沢野は黙って聞いていた。
「って思ってたんだけどさ」
 俺は苦笑する。
「幽霊の沢野と会って、沢野とずっと一緒にいたくて、でも沢野は俺に現実を大事にしろって言ってきて。めっちゃ悲しかったし、ムカついたけど。正論だとも思ったからちゃんと現実と向き合った。そしたらさ、なんか全部が上手く回り出した。俺、今は現実でもちゃんと生きていけそうな気がしてる」
 沢野がこちらを見る。本当はこんなことが話したいんじゃない。
 ここまでくれば、俺に逃げる選択肢はなかった。
「だから普通に生活していれば沢野のことも忘れられるって思った。沢野のこと忘れたかった。会えなくなっても覚えてるなんて辛かったから。でも全然無理だった。だから沢野が前に言ったみたいに会える時間を大切にしたいって思って。俺もちゃんと現実的に考えた」
 空気が止まる。
映画の音だけが小さく流れている。
 震える声を必死に抑える。涙声にだけはなりたくなった。最後の思い出にダサい自分でいたくなった。
「今日は一生の思い出を作ろうと思って来たんだ」
 ありのままの自分の気持ちを伝えたいのに、言葉を選んでいる俺がいる。
「沢野と話すのが好きだった。笑うの見るの好きだった。一緒にいる時間が好きだった」
 沢野は何も言わない。
でも、その目が揺れていた。
 俺の頭は考えることを放棄した。
「沢野のこと好きだ。沢野に恋してる」
 俺が必死に絞り出した声は掠れていた。
 ずっと思っていた言葉がようやく出せた。
 俺の目頭はあつくなり、ダサい涙声になっていた。それでも続けた。
「忘れるなんて無理だ」
 長い沈黙のあと、沢野が小さく笑った。
「僕も黒崎のこと好き」
 その瞬間、俺の中で何かが崩れた。
今まで耐えていた涙がせきをきったように溢れ出た。
 沢野がそっと俺の頬へ触れて涙を拭うような仕草をする。もちろん感触はない。それでも、俺の頬には何か温かいものが触れている気がした。その、あるはずもない温かさが愛おしかった。
「黒崎といる時間、ほんと楽しかった」
「俺も」
「いい思い出ができた」
 沢野の目から涙がこぼれる。
「なんで泣くんだよ……」
「黒崎が泣いてるから」
 俺もそっと沢野の頬に手をやって涙を拭おうとした。でもやっぱり涙も触れないらしい。二人で泣きながら笑う。両想いになれたのに。嬉しいはずなのに。もうすぐ別れが来ることが確定している。
 俺は確かにそこにいる沢野を抱きしめる。
「……キス、していい?」
 俺が小さく聞く。沢野は黙って頷いて目を閉じた。
 目を閉じるべきか迷った。目を閉じたら感触がないから、どこに沢野の唇があるのかわからない。
俺は目を開けたまま、沢野の唇にぎこちなく触れる。ファーストキスが幽霊になるなんて思ってもみなかった。
 夜風がグラウンドを囲う木々を揺らす。遠くで建物が軋む音がする。
 俺たちが顔を離すとDVDプレイヤーがヒュンと音を立てる。どうやらエンドロールまで終わっていたらしい。
「…次のやつみようか」
「そうだね」
 俺たちは同時に冷静になって、気恥ずかしさに襲われた。さっきまでのことはなかったかのように次の映画を観た。映画を観ながら、たわいない話をした。クラスのこと。永井のこと。剣道のこと。東条祭のこと。昔の記憶のこと。沢野は時々笑って、時々泣きそうな顔をした。
 俺はその全部を目に焼き付けようとした。けれど限界は突然来る。

 安堵と疲労が一気に押し寄せたのだ。
「……黒崎?」
「ちょっとだけ眠い」
「寝るならブランケットかけなきゃ」
 俺は手近に置いていたブランケットを引き寄せてくるまる。意識は少しずつ沈んでいく。
「おやすみ、黒崎」
 その声が、やけに優しかった。

 ――次に目を開けた時。
 耳元でスマホのアラームが鳴っていた。五時五十分。俺が昨日セットしたアラームだ。
 ぼんやりした頭と視界がしばらくするとはっきりとしてくる。
 朝だ。周りを見渡す。寒さは感じなかったものの、固い床の上に長時間いたせいで体の節々が痛い。ゆっくりと体を起こす。
 冬に近づいたぼんやりとした朝日に照らされた室内に、沢野の姿はない。

 リュック、ポータブルDVD、DVDのケース、水筒、ブランケットに包まれた俺。

 部屋に残されたそれだけが、昨日の出来事は夢ではないことを保証していた。
 よろよろと立ち上がった俺の頬を、カーテンがそっと撫でた。
まるでまた沢野が、俺の頬を撫でてくれているようだった。