「カーテンの幽霊って知ってる?」
「何それ? 学校の七不思議的な?」
「夜の校舎を見ると、ある教室のカーテン越しに人影が見えるんだって」
「怖っ。でもまあ、夜に学校に近寄らなきゃいいんだろ?」
「まあね」
県内屈指の進学校である東条高校の校舎は、有名な建築家が設計したらしい。コンクリート造りの三階建て。よく言えばモダンでおしゃれ、悪く言えば重苦しく冷たい。
建てられた当初は綺麗なグレーだった壁面も、三十年以上経った今では劣化し、ところどころにヒビが入り、黒ずみも目立つようになっていた。そのせいで、校舎全体にいっそう暗い印象を与えている。 ただでさえ生徒たちは大学受験や将来へのプレッシャーで押し潰されそうなのに、こんなコンクリートの塊みたいな校舎では、まるで牢獄だ。
夏休みが終わり、気だるい九月が始まる。それでも心なしか生徒たちの表情が明るいのは、毎年十月の第四土曜に行われる「東条祭」、いわゆる文化祭の準備が始まるからだ。
東条祭ではクラスごとに出し物をすることになっていて、その準備は九月から始まる。準備期間中はそれに配慮して授業や宿題、部活の練習も軽減される。 それを不満に思う生徒や親もいるが、やはり一度きりの高校生活の行事を満喫したいと思う生徒のほうが多いようだ。学校のあちこちで、今年の東条祭について楽しげに話す声が聞こえてくる。
俺も東条祭を楽しみにしている。しかし、ひとつだけ憂鬱なことがあった。 東条祭の出し物はくじ引きで決められる。人気の出し物に希望が偏ったり、楽をしようと簡単な出し物を選ぶクラスが現れたため、数年前から全学年・全クラスで別々の出し物を行うルールになったらしい。その結果、「九月の初め頃に各クラスの学級委員長が生徒会室に集まり、くじ引きで出し物を決める」という制度ができた。
今、生徒会室には片手で持てるほどの箱を抱えた生徒会長と、そのまわりをぐるりと囲んだ各クラスの学級委員長たちがいる。一年A組の学級委員長である俺も、その中でじっと名前が呼ばれるのを待っていた。
「一年A組、黒崎悠馬さん」
名前が呼ばれた。他の委員長たちがじっと俺を見ている。 上部が開いた箱に手を入れると、小さく畳まれた紙に指先が触れた。最初に触れたものをつまみ、生徒会長へ渡す。 生徒会長は紙を開き、一瞬だけ目を見開いた。
嫌な予感がする。
そして、生徒会長は口を開いた。
「一年A組は……演劇です」
俺は自分のくじ運のなさを呪った。 周囲から控えめな安堵の吐息が漏れる。「うちのクラスじゃなくてよかった」と顔に書いてある。
代々先輩たちから語り継がれている話がある。
――演劇は、とにかく準備が大変。
――しかも中途半端な作品にすると、上演中ずっと地獄。
最悪だ。
実際、その日の放課後のクラス会で東条祭の出し物が演劇になったと告げたとき、クラスメイトたちの顔は一様に落胆していた。
その空気を裂くように、すっと通る高い声が響く。
「でも、決まったものはしょうがないから頑張りましょう。東条祭までまだ時間があるから。放課後に残れる人は残って準備しよう。できれば早めに終わらせたいよね」
副委員長の田中の声だ。 色白で細身、黒い髪をきっちり一つにまとめた彼女は、一見すると地味で目立たない。しかし、芯の強い人間だ。どんな相手にも臆することなく、そのよく通る声で自分の意見を言える強さは素直に尊敬している。
「そうだね!一年に一回のイベントなんだから、私たちのセンス爆発なサイコーの劇やろ!」
次に女性にしてはハスキーな吉川の声.
東条高校は学力には厳しいが、校則はゆるい。勉学を疎かにしないこと、反社会的な行動を取らないことさえ守れば、それ以外は「自主性に重きを置く」という校風だ。その方針をいいことに、彼女は毎日、個性的なメイクや髪型、自分流にアレンジした制服で登校してくる。たびたび先生たちから注意を受けているが、成績もそこそこ良いため、強くは言えないのだろう。
「よし、じゃあ俺はお菓子とかジュースとか買ってこようかな」
一番後ろの席で頬杖をつきながらニヤニヤしていた那須が、呑気なことを言う。 ニヤニヤしていると言ったが、本人いわくこれが素の顔らしい。真面目な顔をしていても先生から「へらへらするな!」と怒られる、とよくぼやいている。実際、彼のお調子者な面が先生を困らせているのは事実だ。しかし、「勉強がすべて」という生徒が多いこの学校では、那須みたいな存在は必要なのかもしれない。
教室の空気が少し和らいだ。 他のクラスメイトも「何の劇やる?」「演者とか裏方とか、係も早く決めよう」と前向きな言葉を口にし始める。
実は、生徒たちが東条祭を楽しみにしている理由はもうひとつある。
同じく東条高校の出身の三つ上の兄からきいた話だ。 普段、校舎には午前六時から午後七時まで学校警備員が常駐し、朝に鍵を開け、夜に閉める。しかし、東条祭の二週間前から当日までは、放課後九時まで校舎が開放される。東条祭前は準備のため、当日は後片づけのため、という名目だ。この学校には門限が厳しい家庭も多い。そのため、「東条祭準備」を理由に遅くまで友達と一緒にいられることを楽しみにしている生徒も多いのだ。準備のために集まっているはずなのに、お菓子を持ち寄っておしゃべりをし、お泊まり会のような雰囲気になるらしい。
先生たちは仕事が終わればほとんど帰宅する。残っている大人といえば、たまに巡回に来る警備員くらいで、生徒たちを監視する者はほとんどいない。 そして東条祭当日は、後片づけのために居残ることになるのだが、実質的には打ち上げも兼ねているらしい。先生たちもそれを黙認していて、お菓子やジュースを差し入れてくれることもあるという。
おそらく、今ウキウキと東条祭について話している生徒たちも、それを楽しみにしているのだろう。
しかし、この中の何人が真面目に準備へ参加するのだろうか。
俺の頭の中は、その心配ばかりで埋まっていた。
