神の網膜

リィンが命懸けで盗み出した「禁忌記録」の写しを、ハルは深夜の図書室で、たった一人で焼き捨てた。
そこには、彼の人生における全事象の「不自然な収束」が記されていた。彼が努力して編み出したはずの数式も、実は世界が先に答えを用意していたという残酷な証拠。
ハルは、暗闇の中で狂ったように笑った。
「……そうか。抗う必要なんてなかったんだ」
復讐心は、一瞬にして肥大化した「全能感」へと反転した。
脚本があるなら、それを利用し尽くしてやればいい。神が僕を愛し、僕の物語を「面白く」したいと願うなら、僕は世界で最も派手で、最も残酷な主役を演じてやる。
翌日から、ハルの戦い方は一変した。
これまでの緻密な計算や、物理法則への敬意はすべて捨て去られた。彼はただ、右手を振り上げ、「敵が死ぬ」という結末だけを念じるようになった。
すると、どうだ。
彼が計算を放棄すればするほど、世界はより劇的に、より過剰に彼を甘やかした。
ハルが戦場を歩けば、向かってくる数万の伏兵は突如発生した局地的地震によって地割れに飲み込まれた。彼が空を仰げば、敵の城塞には都合よく巨大な隕石が降り注いだ。
「見たか、ゼクス! これが『僕』の力だ!」
ハルは返り血、一滴浴びることなく、焦土と化した戦場の中央で叫んだ。
隣に立つゼクスは、その光景に戦慄し、一歩後ずさった。
「……違う、ハル。それはお前の力じゃない。お前はただ、何かに『飼われて』いるだけだ……!」
「黙れ! 飼っているのは僕の方だ。神ですら、僕の望む結末を用意せずにはいられないのだから!」
ハルは、かつての友を冷たく突き放し、大陸全土を飲み込む征服へと乗り出した。
彼は王を殺し、神殿を焼き、自らを「唯一神」と称える法典を作らせた。
民衆が飢えようが、国が燃えようが、彼には関係なかった。彼が望むのは、背後の「観客」が思わず身を乗り出すような、圧倒的な暴力と栄光のパレードだ。
私は、その様子を特等席から、薄ら笑いを浮かべて眺めていた。
「いいぞ、ハル。もっと踊れ」
主役が自分の特権に気づき、それを濫用し始める。物語としては、実に見応えのある中盤戦(ミドル)だ。私は彼の傲慢さを育てるために、よりいっそう因果律の糸を緩め、彼に「万能の夢」を見せ続けた。
だが。
ハルが大陸の頂点に立ち、何百万もの臣下を足元に跪かせたその時。
彼はふと、玉座の上で空虚な渇きを覚えた。
どれほど贅を尽くしても、どれほど血を流しても、心臓の鼓動が以前のように高鳴らない。
かつて、泥にまみれて数式を編んでいた頃の、あの「生きている」という実感がない。
今の彼は、ただボタンを押せば望む結果が出る、出来の悪い玩具に過ぎなかった。
「……ねえ、君。まだ見てるんだろう?」
ハルは、誰もいない豪華絢爛な玉座の間で、天井に向かって語りかけた。
「次は、何をすれば喜んでくれる? 友達を殺せばいいか? それとも、この世界をまるごと焼き払えばいいか?」
ハルの瞳には、もはや輝きはなく、濁った「依存」の色だけが宿っていた。
彼は神を殺そうとしたはずが、いつの間にか神なしでは一歩も歩けない、肥大化した乳飲み子へと成り下がっていたのだ。
私は、その言葉を聞いて、ふっと冷めた。
あまりにも、予定調和だ。
あまりにも、手垢のついた「没落」だ。
独裁者が孤独を叫ぶシーンなど、もう何千回と見てきた。
「……飽きたな」
私は、手に持っていたハルの物語を、無造作に放り投げた。
舞台装置(ギミック)のスイッチを切り、照明を落とす。
もう、痴れ者に「正解」を与えてやる必要はない。
その瞬間、ハルの背後の空間から、粘つくような熱狂的な愛が、引き潮のように引いていった。
ハルはまだ気づかない。
自分が立っている玉座が、すでに支えを失った砂上の楼閣であることを。
彼は、外で鳴り響く反乱軍の咆哮を、自分を称える歓声だと信じ込み、最後にして最悪の「見せ場」へと歩き出した。