書店員の胸が小さいことの証明 〜理系男子は恋を定義できない〜

 空気の冷えが体に迫る。この間まで暑さを感じていたのに、秋はどこへ行ってしまったのか。俺は学ランを着込んで、外気温から体温を守る。学ランは嫌いだ。でも、背に腹は代えられない。
 この寒さとは対照的に、街は浮かれ始め、明るさを増していく。
 俺は、クリスマスシーズンが好きだった。一方、男子校の友人たちは、キリスト教の本来の趣旨から逸脱しているとか、恋愛資本主義に屈しているとか、適当な言葉を並べて毒づくこともあった。俺はそれに同調する様子を見せつつも、定番のクリスマス音楽や飾り付けられた商店街にひっそりと心を躍らせた。
 しかし、今年は全く気分が上がらない。受験生という自意識が、クリスマス気分を受け入れようとしない。そう、浮かれている場合ではないのだ。大学受験へのリミットは刻々と迫っている。
 
 理系のクラスには、私立専願の生徒も多い。受験に関係のない文系科目の授業は、みんなやる気がなさそうに聞いたり聞かなかったりしている。しかも、教師によってはそれを許容し、いちいち何も言わない。授業料の無駄遣いじゃないか、とも思うが、かといって、今の倫理の授業を積極的に聞きたいわけではない。
 俺は、読んでいたトポロジーの本を閉じた。日本語で言えば位相幾何学。図形を伸ばしたり曲げたりしても、同じものだとする概念の幾何だ。そこでは、大きさや形は関係ない。
 本の表紙から伝わる温もりに、ふっくらさんを思い浮かべた。大きさや形が違っても、同じ図形。今度は小メガネさんのことを思い出す。現実の物体は、大きさや形が違えば全く別物だよ、と心の中で呟く。何の大きさのことだか知らないけど。
 
 俺は高橋の方を見た。高橋は、どう見ても何かの問題集に取り組んでいる。最近の高橋は、倫理の授業中はいつもこの調子だ。どうも、例の彼女は志望校のレベルが高いらしい。それが刺激になっているのか、はたまた同じ大学に行きたいのか。何にせよ、授業態度は悪いが、以前よりも受験勉強に真剣に取り組んでいる印象を受ける。

 一方で、山口はスマホ操作の片手間ながらもノートを取っている。持つべきものは友だ。後でノートを写させてもらおう。
 最近の山口の授業態度は、高橋よりもずっと酷いと思う。厳しくない教師の授業中は、いつもスマホのゲームをしている。合格に向けて既に十分な成績を得た山口は、後は無理のない自己学習を続けることの方が重要だと判断した。学校の授業は卒業できる程度にすればいいと考えているらしい。
 
 俺にとって、山口も高橋も仲の良い友人だ。それは間違いなく、今でもそうだと思う。しかし最近は、俺のあいつらに対する見方が変わった。
 山口は、地味すぎも目立ちすぎもしない奴だった。クラス内の立ち位置が俺と近く、自然と仲良くなった。高橋のことは、勉強はいまいち、テニス部のくせに運動もパッとしない奴という印象で、正直なところ少し下に見ていた。この三人のバランスが心地よく、いつもつるんでいた。それが、山口は夏休みを経て成績に余裕を出し、高橋は目標に向かって努力する姿を見せ始めた。
 二人の学業面の変化に対してバランスを取ろうとするならば、俺も何らかの変化が必要だろう。しかし、俺が今年得た変化は、ストレスの捌け口として一人の女性を求めるようになったことだけだった。
 ふっくらさんは、俺の心を満たしてくれる。だから、会ったり思ったりせずにはいられない。ところが、ふっくらさんを感じれば感じるほど別の不安が増す。
 俺は受験生だ。
 どうにかしないといけない
 どうにかしないと。
 倫理の教師が、ここは試験に出るぞ、と言った。どこだろう、と考えながら、板書の内容から「欲求不満」という言葉をノートに書き写す。何それ? 低俗なドラマの主婦かよ。
 
 *
 
 いくら受験モードとはいえ、学校の休み時間にまで勉強する生徒は少ない。それは読んで字のごとく、休みのための時間である。戦士には休息が必要だ。
 山口や高橋と勉強以外の会話をしているとき、不安を感じなくなる。バズった切り抜き動画の話題に、居心地の良さを感じる。
 
 ふと、高橋の鞄が目に入る。鞄には、いつものキャラクターのぬいぐるみが付いている。今はクリスマス仕様なのか、頭にトナカイの角があり、鼻が赤い。高橋は毎年、季節ごとにテーマパークに通い、季節ごとのぬいぐるみを新調している。それは、受験を間近に控えた今でも変わらないようだった。
 なあんだ。高橋は、相変わらず高橋じゃないか。思いがけない発見に、俺は笑みを隠せない。体の中で、黒い風船がゆっくりと膨らむことを感じる。
「高橋? そのぬいぐるみ」
 俺はトナカイの角を着けたそれを指差し、笑いながら言う。してやったり。俺の中の風船はどんどん膨らんでいる。
「今年も行って買ったの? クリスマスの時期が一番だって言ってたもんな。やっぱクリスマスは外せない?」
「ああ、これね」
 高橋は寂しそうな顔をした。
「昔のを引っ張り出してきただけなんだ」
 風船がしぼみ始めた。
「いやあ、ショーがリニューアルしたし、新キャラも登場してるから、本当はめちゃくちゃ行きたかったんだけどさ。さすがに受験だし、今年はパス」
 黒い風船は、ドロドロに溶けてなくなってしまった。高橋は、そのまま新しいショーの見どころを語り始めそうになったが、山口に遮られた。
「受験が終わったら彼女と行きまくるんだろ? こいつ!」
 山口が高橋を小突く。それは俺には十分すぎる追い打ちだった。
 
 *
 
 何やってんだ、俺は。猛烈な虚しさと恥ずかしさを覚え、地面と足元を見つめる。
 勝手に脳内で高橋のレベルを下げ、安心材料にしようとしていた。しかし、それがただの妄想にすぎないことを見せつけられてしまった。何より、そんなことをしても俺の能力は上がらない。むしろ地に落ちたような気もする。
 本当に、何をやってんだ。
 
 気がつくと、いつもの書店の前にいた。すっかり道順が体に染み込んでしまい、無意識でも辿り着けるようになってしまったらしい。
 足が自然と店内へと歩み出そうとする。ああ、今日はきっとふっくらさんがいる。レジを操作する美しい横顔を思い浮かべ、心が熱を求める。
 ところが、脳がグッとブレーキをかけた。足首に力を込めて、歩みを止める。
 高橋のことを思い出した。受験が終わるまで、行きたくてしょうがないテーマパークに、奴は決して行かないだろう。
 でも、高橋は今でも心を奪われている。テーマパークの最新情報を耳に入れ、語り出すほどに夢中になっている。そうしながら、受験生としての天秤にかけ、行動の優先順位をつけている。
 俺もそうならないと。静かに拳を握りしめる。高橋のように。きっと、好きなものは好きでいいんだ。その上で、受験生として、何をするかだ。
 体の中から、轟々と燃えるものが沸き立ち、背中から溢れてくる。
 そうだ。今だ。この勢いを殺してはいけない。
 俺はそのまま踵を返し、ショッピングセンターを後にした。
 
 帰宅した俺は、自室で本棚に向き合った。様々な数学の書籍が並ぶ。それは、下手な数学科の学生よりも数学科らしいかもしれない。
 本棚から一冊の本を手に取る。虚数の本だった。ここにある本は、ほとんどがふっくらさんにレジで打ってもらったもののはずだ。手の中の虚数の本を見つめる。ああ。視線が合う時間を思い出し、思わずうっとりとしてしまう。
 みぞおちに力を込め、息を吐く。遠のいた意識を現実に引き戻す。引き出しを開けると、ギャグ漫画の本が見えた。そこに、本棚の数学書をまとめて放り込んだ。引き出しに入り切らない本は、ベッドの下へ。
 ふっくらさんへの思いを忘れる必要はない。でも、読書に時間を割いている場合ではないのだ。俺は後ろ髪を引かれる思いを感じつつも、驚くような達成感に包まれた。
 
 でももちろん、これはまだゴールじゃない。
 誘惑を振り払った次は、受験勉強に勤しまねば。とはいえ、俺に残された時間は多くはない。さて、どうするべきか。
 少しだけ考えた後、俺はスマホを手にした。メッセージアプリから、音声通話のボタンを押す。
 やはり、持つべきものは友だ。
『もしもし? どした?』
 通話はすぐに繋がった。
「山口、いま平気?」
『おお、大丈夫だけど』
「お願いしたいことがあるんだ」
『はあ』
「勉強のコツを教えてくれ」
『コツぅ?』
 突然の話題に、山口は少し驚いているようだった。
「お前、夏休み明けの模試で成績がよかったじゃん。どうやって勉強して、そういう風になったのか、知りたいんだよ」
 もう、人の成長に嫉妬している場合ではない。変なプライドは捨てて、盗める技は盗んでおこう。
『はいはい、そういう話ね』
 山口がにやりと笑った気がした。
『いいぜ、教えてやるよ。耳の穴をかっぽじって、よく聞きな』