書店員の胸が小さいことの証明 〜理系男子は恋を定義できない〜

 夏の暑さの名残が消えないまま、暦の上では秋が深まる。
 
 返却された模試の成績を見て、俺は目を丸くした。
 志望校には、一学期と変わらず、難関校の理系学部ばかりが書かれている。
 でも、一学期とは大きく異なる点があった。
 そこには、Aの文字が並んでいた。中堅大学から最難関の大学まで、全てA判定。合格率八割。この状態をキープできれば、合格点は獲得できたも同然だろう。
 最強。俺の頭には、そんな小学生のような言葉が浮かんだ。
 
 ああ、これが、俺の成績だったらよかったのに。
 この成績を叩き出した張本人である山口は、結果に対して俺と同様に驚いていた。そして、口角が上がるのを隠せないでいる。
 
 俺は、自分の模試の結果を見返す。夏休みの努力の結果だろうか、一部の難関校にはB判定が付くようになった。中堅大学ならA判定だってある。
 一学期よりも、成績は上がった。今の成績なら、そこそこの大学進学には十分な希望がある。素晴らしいことだ。
 しかし、俺の遥か上まで到達してしまった山口を前にしたら、喜びはとても小さかった。
 これまで、俺と山口は同じくらいの成績だった。むしろ、俺の方が若干いいくらいだ。それなのに、今は圧倒的な差を見せつけられている。
 俺だって、勉強はしていた。それは間違いない。しかし、山口はそれ以上に勉強していたとでもいうのか。
 わからない。
 どういうことなのか、わからない。

 あの高橋も成績は上がっていた。以前はDとCばかりだったが、今や中堅大学ならB判定もある。高橋にしては、目を見張る結果だ。まあ俺からすると、志望校のランクを落とす方が無難だとは思うが。
 高橋は、今も彼女とうまくやっているらしい。まだデートもしていないけど、卒業したら一緒にテーマパークに行くんだ、などと言っている。春休みシーズンは、学生向けの安いチケットがあるんだ。まさに俺と彼女のためだよな、とのことだ。
 俺は、ノロケんなよ、と笑いながら肩にグーパンを入れてやる。高橋は本気で痛がっていた。
 
 化学の授業が始まり、教科書を開く。模試の成績としては、化学と英語が物足りない結果だった。特に化学は苦手だ。
 教科書の巻末には、元素周期表が掲載されていた。
 元素記号を暗記するために、様々な語呂合わせが考案されている。化学教師が下ネタの語呂合わせを紹介したときは、教室が沸き立った。
 俺はそれを聞いたとき、くだらない、と思った。しかし、今でも記憶に残っているのだから、暗記の方法としては有意義なものだろう。
 
 元素周期表のハロゲンの列を眺めながら、語呂合わせを心の中で唱える。
 F、Cl、Br、I、At。
 ふっくらブラジャー愛のあと。
 
 俺は、鼻から大きく息をはいた。
 化学の教科書に顔を埋めたくなる衝動を抑えながら、脳裏にふっくらさんを思い描く。
 
 愛のあと、とはなんだろう。後なのか、跡なのか、痕なのか。
 愛の「後」だとすれば。愛が生まれた後に、何かを二人で育むのかもしれない。
 愛の「跡」なら。胸元に愛の印を残す行為を思わせる。直接的すぎるその想像に、思わずくしゃみが出た。
 愛の「痕」は、愛によって傷つけられる感じがする。俺は中学の元カノを思い出して身震いした。でも、ふっくらさんなら。大人の余裕があるから、きっと酷いことはしないだろう。
 
 チャイムが鳴り、化学の授業の終わりを告げた。ノートは真っ白なままだった気がするが、見なかったことにした。
 
 *
 
「B判定か。なら、あともう少しだね」
 俺の模試の結果を見ながら、母は言った。その口元は微笑んでいるが、眉は斜めに下がっている。
 それはきっと、期待を込めた発言だろう。一学期の成績から、今の状態まで引き上げたのだ。母にしてみれば、引き続き成績を伸ばせば、難関校にも手が届くと考えているのだ。
 しかし、天下分け目の夏休みは終わった。ここからの成績向上は容易ではないかもしれない。
――あともう少しだね。
 母の口から、満足していないことが伝わる単語が出た。
 俺も決して満足していないが、人の口から聞くのはまた違う。俺は腹の中に冷たくてドロドロとしたものを感じた。
 母さん、その模試でA判定が出た中堅大学は、貴女の出身校ですよ。凄くないですか。かつて赤ん坊だった俺は、今や貴女の学歴に並ぼうとしていますよ。
 
 俺は自室に戻ると、ベッドに倒れ込んだ。体を横たえると、重力に従って、体内のドロドロが腹から頭の方まで流れていく気がした。
 そのまま脳がドロドロに蝕まれることを恐れて、体を起こす。机の上にある、数学の文庫本に手を伸ばした。本のテーマは、無限。終わりがなく、どこまでも続く状態を現す概念。でも、受験生に与えられた時間は、もちろん有限だ。
 本の横に、開いたことのない化学の参考書が置かれていた。俺はそれに気が付かないふりをした。
 
 *
 
 今日も書店に来ていた。予想した通り、ふっくらさんがいた。俺は、この曜日なら高確率でふっくらさんがシフトに入っていることを把握していた。
 児童書の棚の前で、小学生が熱心に図鑑らしき本を眺めている。あの頃は気楽だったよな。大した重圧もなく、ただ好きなことばかりをしていて。
 その図鑑を、俺が力強く閉じてやるところを想像した。その勢いで、図鑑は床に落ちる。小学生はまず驚き、その次に恐れの表情に変わる。泣き出すかもしれない。おい、泣くなよ。こっちの気も知らないで。
 
 買いたい本を手に、レジに向かう。レジのふっくらさんは、こちらを見ていた。俺も、ふっくらさんを見る。二人の目が合う。お互いの視線は、見えない太い直線で結ばれている。俺の体の内側が、静かに熱を帯びる。
 レジまで来ると、さすがに近すぎて目を伏せる。商品を手渡して、深緑色のエプロンを見つめる。その丸みに毒気を抜かれて、俺の気持ちも丸くなっていくようだった。
 簡単な男だな、俺は。
 
 レジ端末を操作するふっくらさんの顔を再度見る。ハーフアップにまとめられた黒髪。その横に覗く耳。俺は、彼女の顎から、柔らかそうな唇へと視線を動かす。視線は鼻筋を通過し、レジ端末を見つめる瞳へとたどり着く。はあ。
 綺麗だ。
 ふっくらさんが顔を上げると、俺と目が合う。もう何度目だろうか。ふっくらさんの大きな二つの目が、俺を捉える。体に電流が流れるような感覚に酔いしれる。
 俺は目を伏せ、商品を受け取る。言葉にできない快感を噛み締めながら、店を去る。
 
 腹の中のドロドロは薄まった。
 しかしその一方で、頭の片隅に得体の知れない恐怖が襲ってきた。
 
 どこかから、声が聞こえる。
 
――女にうつつを抜かしてる場合か?
 うるさい。
 
――受験第一で、二人とも我慢してんの。
 うるさい。
 
――あともう少しだね。
 本当に、うるさい。
 
 *
 
 ある日、予備校から帰宅した後、自室で本を手に取る。それはいつものように、ふっくらさんがレジ打ちしてくれた、数学の読み物。
 ふっくらさんの残り香を感じて体が満たされる一方、また正体不明の恐怖に包まれる。わからない。
 いや、それは違うよな。もうわかってる。
 
 大学受験とは関係がない、数学の本。
 受験勉強の息抜きのために。その言葉が、自分を欺くためのものであることは、とっくに気がついていた。
 真っ白なノートも。
 手を付けていない問題集も。
 本当は、俺は全てに気がついている。
 
 夢の中に、ふっくらさんが現れた。顔はよく見えなかったものの、俺は目の前にいる白いワンピースを着た人がふっくらさんであるとはっきりわかった。
 二人は、横にも縦にも永遠に続くような、巨大な白い階段の上に立っている。空は、淡い水色に光り輝く。俺はふっくらさんの手を握った。心臓の鼓動が速くなる。二人は見つめ合ったまま、どこまでも続く階段を軽快に駆け下りていく。羽根のように軽やかに。まるでミュージカルのワンシーンのように。
 
 目を覚ますと、全身に汗をかいていた。とても幸福な夢だった。そのはずだが、その夢は俺を不安にもさせた。
 あの階段を下りた先には、何があったのだろう。