書店員の胸が小さいことの証明 〜理系男子は恋を定義できない〜

 夏休み明けの教室。高二の頃までは、一学期との僅かな変化があちこちで発生していた。髪型が変わっているなんて序の口で、ピアス穴が増えていたり、休み中に染めた髪を黒に戻した結果、余計に黒々としていたり。比較的真面目な進学校であっても、そのくらいの変化は起こる。
 でも、今年は受験の年だ。教室の様子は、以前とあまり変わっていないように見えた。
 しかし、見えない部分で大きな変化があった奴がいた。
 
「おい! 詳しく聞かせろ! ちゃんと話すまで逃さないからな!」
 山口がニヤニヤしながら、高橋を羽交い締めにする。高橋はデレデレと締まりのない顔をしている。
 夏休みの間、スマホの通知が鳴ることは少なかった。みんな受験勉強をしていて忙しかっただろうし、もしそうでなくても、相手に気を遣えば送る気も失せる。
 しかし、休み中の数少ないメッセージのうち、高橋からの報告は、俺と山口に強い衝撃を与えた。なんと、この夏休みの間に、高橋は人生初の彼女を作っていた。まさか、この夏にそんな面白エピソードが生まれるなんて、まったく計算外だった。
 
 今日になって、ようやく本人から細かい話を聞けた。
 高橋は、夏休みから学習塾に通い始めたらしい。塾の鞄には、例のテーマパークのキャラクターのぬいぐるみを付けていた。その塾に通っている一人の女子が、鞄のぬいぐるみに気が付き、高橋に声をかけた。その女子は、高橋と同じくそれの強いファンだったのだ。そして二人は意気投合。いつしか、晴れて恋人同士と相成ったのだそうな。はい、めでたしめでたし。
 夢の国がきっかけで彼女とは、さすがは高橋。
 でも。
「でもさ、受験じゃん? 女にうつつを抜かしてる場合か?」
 俺が口に出す前に、山口が聞いた。
 高橋が言うには、お互いに受験生であることを考慮した交際をしているらしい。
「直接会うのは塾でだけ。スマホの連絡先は知っているけど、やりとりは基本的になし。受験が終われば自由になるし。受験第一で、二人とも我慢してんの」
 なんとまあ、それは随分とよくできたカップルだ。思わず感心してしまう。
 
 俺は、中学の頃に付き合ったことのある女子を思い出していた。山口と高橋は中学からこの男子校に通っているが、俺は共学の中学だった。そこそこ可愛いクラスの女子から告白されて、その時は思わず舞い上がった。しかし、いざ付き合ってみると束縛が強く、放課後の友達付き合いなどに支障をきたした。
 長時間スマホから目を離した隙に、すごい量のメッセージやスタンプが送られてきたこともあった。それは「まだ?」「なんで?」から始まり、ついには「本当に私のこと愛してるの?」にまで発展していた。さすがに無理だと感じて、こちらから別れ話を切り出したものの、それを受け入れられるまでにも労力を要した。頼むからいちいち泣かないでくれ。泣きたいのはこっちだよ。
 それ以降、中高生と付き合うのは無理だな、と感じている。まあ、男子校に入った今となっては、そもそも女子と会話する機会が全くないが。
 もし付き合うなら、人間のできた大人の方がいい。見た目よりも、内面の方が重要だ。
 でも、高橋の彼女のような人だったら、高校生でもアリかもしれないな。
 高橋は、俺たちだけに彼女の写真を見せてくれた。それは思いのほか、ブスだった。ごめん、やっぱナシで。見た目もめっちゃ重要だ。
 
 高橋に彼女ができたという話題は、あっという間にクラス中を駆け巡った。男子しかいないこの学校では、彼女持ちは貴重だ。高橋は、一躍クラスのヒーローのような扱いを受けることになった。ところが、あまりにもプラトニックな交際内容は面白みがなく、あっという間にみんなの興味は薄れていった。
 
 *
 
 二学期になってから、ほとんど放課後につるまなくなった。みんな受験勉強に忙しく、そういう気分にもならない。それでも、一人で少しだけ書店に寄るくらいはどうってことはない。
 書店に着くと、小メガネさんの姿があった。あんなに熱を上げていた小メガネさんなのに、今となってはふっくらさんじゃないことにガッカリしてしまう。我ながら酷い手のひら返しだ。俺は心の中で、ごめん、と謝罪する。
 頭の中のピンクのもやが消えた後も、俺は時々、心の中の小メガネさんの痕跡を探した。しかし、ふっくらさんのふくよかな二の腕の記憶によって、それは追いやられてしまう。その事実に少しだけ恐れをなすものの、あの腕に柔らかく包まれることを想像してみると、脳が強く揺れてしまい、どうでもよくなってくる。
 書店に来たところで、ふっくらさんに会えるとは限らない。でも、来てみるまでわからない不確実性。シュレーディンガーのふっくらさん。
 ふっくらさんに会えない日が続くと、その分、心の中のふっくらさんのイメージが強くなる。現実と想像のふっくらさんが、まるで円を描くように、あっちこっちへ行く。円の中心の俺からは、一定の距離を保ったまま。
 まったく、ただ塾に行くだけで、自然に彼女に会える高橋が羨ましい。でもブスだったな、と思い直したら、羨ましさが限りなくゼロに近づいた。
 
 ふっくらさんがレジにいるときは、彼女へ近づくための口実として、何らかの本を買う。しかし、今や問題集や過去問は既に十分買ってしまったので、それ以外の本を選ぶことにする。
 小説は好きじゃないし、漫画は論外。雑誌にもあまり興味がない。写真週刊誌のセンセーショナルな表紙には目を奪われるものの、これに手を出したら何かが終わる気がする。
 考えた結果、数学関連の本を手にすることにした。これなら、何となく興味もあるし、受験生としての自尊心にも影響を与えにくい。
 学術書の数学コーナーへ行く。その中で人気があるのか、平積みされている本を何気なく手にとる。表紙に女子学生が描かれたその本は、小説だった。数学の小説なんてあるのか。思ってたのと違う。すぐに閉じて元の場所に戻す。
 次に、棚から難しそうな本を手に取る。線形代数。うっすらと聞いたことがある。高校数学の範囲ではないだろうが、この本は入門編らしいので、悪くないかもしれない。裏表紙を見ると、三千円と書かれていた。うえ、高い。
 親には、参考書などを買う場合があると言って、多めに小遣いをもらっている。また、山口たちと遊ばなくなったので、その分も節約できている。それでも、ふっくらさんに近づく機会を稼ぐことを考慮すれば、無駄遣いはできない。
 考えなおして、文庫のコーナーへ移動する。こちらの方が、手軽な価格で買えそうだ。様々な数学の読み物が、千円以内の価格で並んでいる。これはいい。
 俺は、目についた虚数の本を手に取る。虚数は、実数では解けない数式の解として用いられる、空想の数字だ。なんだか、一足先に数学科の学生になった気がして、背筋が伸びる。もし制服を着ていなければ、大学生に間違われたりして。
 
 ふっくらさんがいることを確認してから、俺はレジに向かう。虚数の本を、ふっくらさんに手渡す。
 ふっくらさん、貴女はこれまでに、何人の高校生を接客しましたか。その中で、低俗な漫画や雑誌、ありきたりな参考書などではなく、数学の学術書を買っていった高校生はいましたか。
 決済端末の操作をする僅かな時間に、ふっくらさんの顔をそっと見つめる。
 綺麗だ。
 とても月並みな言葉だが、これ以上に適切な表現があるだろうか。
 端末の操作を終えたふっくらさんが、俺の視線に気がつき、こちらを見る。
 ほんの一瞬だが、目と目が合う。
 背筋に、ゾクゾクとしたものを感じる。
 脳が揺れる。
 体の中心に、電流が流れる。
 俺はすぐに目を伏せて、スマホのQRコードを端末へかざした。
 最近、意図的に目を伏せるタイミングを遅らせている。ふっくらさんと目が合うことが、快感なのだ。視線が合う間、二人だけの世界が生まれる。俺にしか聞こえない甘美なBGMが、二人を温かく包み込む。
 
 今日買った本を手に取って眺める。受験勉強の息抜きに読んでみるのもいいだろう。これなら、もし親に見られても、勉強している感じがあって気にならない。そもそも、最近は滅多に見に来ないが。
 表紙をそっと撫でると、ふっくらさんの温もりと柔らかさを感じた。
 ふと、山口の言葉を思い出した。

 ――女にうつつを抜かしてる場合か?
 
 ぐ、と息が詰まる。
 今の自分の姿を顧みる。
 俺は受験生だ。
 それが、理由を捻出してまで、書店員に会いに行く。これは、まさに山口の指摘したそれなのではないか。大した時間は費やしていないはずだが、少なくとも、あまり世の中に胸を張れる姿ではないだろう。
 
 俺は受験生だ。
 でも。
 
 手の中の虚数の本から、ゆっくりと温もりが伝わってくる。