この夏休み、この一ヶ月をどう過ごすかで、君たちの命運は分かれます。
予備校の講師が仰々しく説いていた。俺は暑い日差しを浴びながら、確かにそうだなと、その言葉を思い出していた。長い夏休みの間、学校に行く必要もなく、朝から晩まで自由に時間を使うことができる。これを生かすも殺すも自分次第だ。
予備校からの帰り道、まだ日が出ている時間だった。西日が猛烈に照りつける。俺は、深緑色のTシャツの袖で汗をぬぐった。
先日、新しいTシャツが欲しいと、親を連れて服屋へ行った。プリントTシャツの品ぞろえに定評のある店だ。様々なキャラクターブランドやデザイナーとコラボしたTシャツを、比較的手頃な価格で買うことができる。そこには、高橋が心酔するキャラクターのTシャツもあったが、俺はそれを手に取らないように注意した。高橋のことは友人として好きだが、私服が被ってしまうことは耐えられない。
有名な映画をモチーフにしたTシャツが販売されたと聞いていたので、主にそれを目当てにして店に来た。しかし、その店の商品は本当にバリエーションに富んでいて、どうしても迷ってしまう。
中には、数式が描かれたデザインのものもあり、思わず笑ってしまった。例えばこれは、恐らくフェルマーの最終定理だ。SNSで見たことがある気がする。でも俺はマニアじゃないし、こんなダサい服は頼まれたって着ない。
そんな中で、俺は見つけてしまった。無地のTシャツが並んだ棚の中に、見慣れた深緑色を。その色は、まさに小メガネさんの着ているエプロンの色にそっくりだった。いや、正確には、あの書店の全ての店員が着ているエプロンだけど。Tシャツにしては生地がややしっかりとしている点も、あのエプロンの生地を思わせる。
それを手で触れると、小メガネさんの温もりを感じ、顔が緩んだ。咄嗟に、ヤバいと思って周りを見るが、幸いにも誰もいなかった。俺は少しだけ逡巡したのち、その深緑色のTシャツを二着、買い物かごの中にそっと置いた。
無地のTシャツを、しかも二着も買うというのは、俺にしては珍しいことだ。当然、親に理由を聞かれたが、受験勉強をする身として服装を選ぶ時間を効率的にするために同じ服を何着も持つことは推奨されると予備校講師も言っていた、などと適当に早口で説明しておいた。
最近、寝る前にコンタクトレンズを外した後、この深緑色のTシャツを着ることがある。そうして眼鏡をかけ、立ったまま下を見ると、眼鏡のフレームの中に、深緑色の服と自分の足が見える。これはきっと、小メガネさんが見ている世界と同じだ。そう思うと、体が徐々に汗ばんでくる。
Tシャツの襟を引っ張って、自分の顔をうずめる。深く深呼吸すると、小メガネさんの爽やかな空気で肺が満たされるように錯覚する。
一度だけ、スマホのカメラで自分の姿を見た。そこには眼鏡をかけた俺が映っていた。俺は、もう二度とそれを見るまいと誓った。
予備校からの帰りに、本屋に寄った。今回は、大学の過去問を買うためだ。春に山口と買いに来たときはまだ早かったが、今の時期なら最新版が発売されているはずだ。今はまだ手を付けるつもりはないが、気が付いたときに買っておいた方がよいだろう。なんだか、山口みたいなことを言っているな、と自嘲する。
店頭の売り場には、読書感想文におすすめの本が並んでいる。小学生のころは作文が苦痛だったが、今なら当時よりもスラスラと書けるだろう。でも最大の問題は、ちっとも本を読みたくないことだ。
今日は外があまりにも暑いので、店内のキンキンに効いた冷房が心地よい。汗がみるみる引いていく。受験勉強さえなければ、しばらくここにいたいくらいだ。そうすれば、小メガネさんに会える確率も上がるだろう。
深緑色のTシャツは見られたくなかったので、薄手のシャツを羽織る。エプロンとTシャツは全然違うとはいえ、ペアルックを意識した痛いやつだと思われては、たまったものではない。
学習参考書などの棚の中に、難関私立大学の理工学部の過去問を見つける。どういうわけか、うちの高校の連中は、こぞってこのレベルの大学を受ける。そして半数が浪人生となる。
みんな、そんなにこの大学に入りたいのだろうか。俺だったら、もう一年受験勉強をするなんて受け入れられない。滑り止めでもなんでもいいから、受からせてもらえる大学にありがたく入学するだろう。
俺は一冊の過去問を手に取ってみる。その赤くて板状の直方体は、相変わらずの密度だ。もし受験勉強が辛くて耐えられなくなったら、これで自分の頭をかち割ってもいいかもしれない。
レジを見ると、見慣れない店員がいた。エプロンに初心者マークが付いているように見えるので、新人バイトかもしれない。既に、ここの店員については一通り知っているし、小メガネさんの様子ばかり気にしていたので、最近は胸のことを忘れつつあった。でも、久々に新しい店員を目にしたら、むくむくと好奇心が沸き上がってきた。
レジに立つ新人らしき店員は、特に緊張している様子はなかった。でも、何かが変だ。その人がそこに立っているだけで、空気が少し揺らいでいる気がした。きっと、まだバイトに入ったばかりで、この店に馴染んでいないのかもしれない。
俺は、過去問を新人らしき店員に手渡した。俺の視線には、自然と新人店員の胸元へ向く。
左胸には、「研修中」と書かれた、初心者マークの付いた札を付けている。
初心者マークが、立体感を帯びている。3D映画みたいに浮いて見えた。
そこに、深緑色の壁はなかった。
胸がある。俺は真っ先にそう思った。いや、誰にだって胸はある。そういうことじゃなくて。
その新人店員は、胸が大きかった。
見たことのないものがそこにはあった。厚みのある生地のエプロンは、ふっくらとした膨らみを作っている。その丘の上に、研修中の札が浮いたように付けられている。
俺は呼吸をすることを忘れた。目の前のことが信じられなかった。本屋の店員は胸が小さい。高橋はそう言っていた。それが単なる、あるあるネタであることは理解していたはずだ。反例はいくらでも挙げられるだろう。しかし、いざそれを目の前にしてみると、俺の脳は理解することを拒むような姿勢を見せた。
映画では、巨大な板が猿に知能を与えた。しかし、目の前のふっくらとした深緑色の丘は、俺から知性を奪おうとしていた。
頭の中がぐわんと揺れる。ひとりでに脳震盪を起こしそうな衝撃を感じる。
お支払い方法は何にしますか。多分、そんなようなことを聞かれた。俺は気力を振り絞り、魂を現世に呼び戻した。口から、あ、という声なのかわからない情けない音が漏れる。知性がなくても出せる音。
「あの」俺はようやく日本語のコツを取り戻し始めた。言葉をしゃべらないと。
「あ」うわあ、ダメだ。それではまた逆戻りだ。知性はどこにいった。
そうこうしていると、新人店員は不安そうに聞いてきた。
「現金ですか?」
低くて優しいその声を聴いて、ようやく脳の揺れが収まってきた。
「あ、あん、QRコード」
俺はようやく口から言語を発した。最低限のコミュニケーションが取れる程度の返答だ。
「では、こちらのカメラにかざしてください」
店員に促された。しかし、俺はスマホを開くことをすっかり忘れていたため、QRコードを開くまでの時間を待たせてしまう。ほんの数秒が気まずい。
どうにか精算を終え、レシートと過去問を受け取る。新人店員のふんわりとした手と腕が目に入る。半袖シャツから、これまた柔らかそうな二の腕が覗く。指先でシルバーのネイルがきらりと光った。その眩しさに目がくらんだ気がして、また頭の中が揺れそうになる。
俺は、何かから逃げるようにして店を出た。その後、どうやって家までたどり着いたのか、覚えていない。
風呂場のシャワーで汗を流すと、少しだけ冷静になった。排水溝に流れるお湯を眺めながら、今日起きた出来事を振り返る。
あのレジで、俺の目の中に入ってきた映像は、全てがふっくらと丸みを帯びていた。俺は心の中で、新人店員を、ふっくらさん、と呼ぶことにした。
ふっくらさんのことを思い出す。深緑色の丘。肉付きの良い手や腕。もしあれに触れれば、きっとマシュマロのようにすべてを受け止めてくれるだろう。
いや、待った。あれに触れれば? 俺は今、とんでもないことを考えているようだ。
そういえば、ふっくらさんの顔を見ていないことに気が付く。今日はそれどころではなかった。どんな顔だろう、と想像してみるが、うまく思い描けない。でも、警察のモンタージュ写真ですら、既存のパーツを組み合わせて作るはずだ。脳内でゼロから生み出すなんて、一般の高校生には容易ではない。
夜になり、深緑色のTシャツを着る。その途端、今日の体感がよみがえってきて、脳の中が揺れる。ふっくらさんの深緑色の生地の下にあるものを想像してしまうと、また知性を失いそうな感覚に陥った。深緑色のTシャツは、いつもよりも熱っぽく、そして柔らかく感じた。
それ以降、俺は予備校の帰りに書店へ寄るようになった。ふっくらさんの顔を見たかったからだ。しかし、シフトの都合もあるのか、書店へ行ったところで会えるわけでもなかった。
ようやく会えたのは、最初に遭遇してから四日も経った日だった。あれからずっと、脳内のふっくらさんの顔は空欄のままだった。これがテストだったら許されないだろう。
前回とは別の大学の過去問を手に取り、レジにいるふっくらさんのもとへ向かう。事前にしっかりと深呼吸しておいたので、今回は慌てなかった。とはいえ、四日ぶりのふっくらさんを目の前にして、上気してしまうことは避けられなかった。
深緑色の丘を視線に捉えながら、レジで過去問を手渡す。
「お支払い方法は?」
ふっくらさんに尋ねられる。その落ち着いた低めの声は、俺の耳を柔らかく包み込んだ。
QRコード決済を伝えると、ふっくらさんは端末を操作し始めた。この短い隙に、いつものやり口で、こっそりと顔を見る。いざ、ご対面。
ふっくらさんは、高い鼻に、大きな目をしていた。やや日本人らしくない、濃い顔つきだ。古代ローマ人の映画に出ていても違和感はなさそう。髪は黒く、ミディアムヘアをハーフアップにしている。綺麗な大人の女性、という表現がぴったりに感じられた。
今一度、全身を見渡す。そのふっくらした体つきは、その濃い顔にぴったりであるように思う。
はあ、と心の中で息が漏れる。俺の正面のレジの周りが、ゆっくりと動いて見える。四日分の未回答を取り戻そうと、俺は目の前の人の姿を真剣に学習していた。
「では、こちらのカメラにかざしてください」
端末の操作を終えたふっくらさんが案内する。その時、俺はふっくらさんの顔をまだ見つめていた。それに向こうも気づいたらしく、おや、という様子で目を上げた。
一瞬、目が合う。二人の目と目の間に、見えないエネルギーが流れるのを感じ、網膜が焼けそうになった。
俺は慌てて瞬きしてから、スマホの方に視線を落とした。
決済を終え、レシートと過去問を受け取る。ふっくらさんの手の先で、シルバーのネイルが輝く。
昔見た映画で、銀色の液体ロボットが、指で人を刺し殺すシーンがあった気がする。俺は、そのネイルに心臓を貫かれるところを想像した。それはきっと、さぞかし気持ちがよいことだろう。
頭の中のピンクのもやは、あっという間に吹き飛んで霧散してしまった。
そこには、ただふっくらさんの姿だけが残った。
予備校の講師が仰々しく説いていた。俺は暑い日差しを浴びながら、確かにそうだなと、その言葉を思い出していた。長い夏休みの間、学校に行く必要もなく、朝から晩まで自由に時間を使うことができる。これを生かすも殺すも自分次第だ。
予備校からの帰り道、まだ日が出ている時間だった。西日が猛烈に照りつける。俺は、深緑色のTシャツの袖で汗をぬぐった。
先日、新しいTシャツが欲しいと、親を連れて服屋へ行った。プリントTシャツの品ぞろえに定評のある店だ。様々なキャラクターブランドやデザイナーとコラボしたTシャツを、比較的手頃な価格で買うことができる。そこには、高橋が心酔するキャラクターのTシャツもあったが、俺はそれを手に取らないように注意した。高橋のことは友人として好きだが、私服が被ってしまうことは耐えられない。
有名な映画をモチーフにしたTシャツが販売されたと聞いていたので、主にそれを目当てにして店に来た。しかし、その店の商品は本当にバリエーションに富んでいて、どうしても迷ってしまう。
中には、数式が描かれたデザインのものもあり、思わず笑ってしまった。例えばこれは、恐らくフェルマーの最終定理だ。SNSで見たことがある気がする。でも俺はマニアじゃないし、こんなダサい服は頼まれたって着ない。
そんな中で、俺は見つけてしまった。無地のTシャツが並んだ棚の中に、見慣れた深緑色を。その色は、まさに小メガネさんの着ているエプロンの色にそっくりだった。いや、正確には、あの書店の全ての店員が着ているエプロンだけど。Tシャツにしては生地がややしっかりとしている点も、あのエプロンの生地を思わせる。
それを手で触れると、小メガネさんの温もりを感じ、顔が緩んだ。咄嗟に、ヤバいと思って周りを見るが、幸いにも誰もいなかった。俺は少しだけ逡巡したのち、その深緑色のTシャツを二着、買い物かごの中にそっと置いた。
無地のTシャツを、しかも二着も買うというのは、俺にしては珍しいことだ。当然、親に理由を聞かれたが、受験勉強をする身として服装を選ぶ時間を効率的にするために同じ服を何着も持つことは推奨されると予備校講師も言っていた、などと適当に早口で説明しておいた。
最近、寝る前にコンタクトレンズを外した後、この深緑色のTシャツを着ることがある。そうして眼鏡をかけ、立ったまま下を見ると、眼鏡のフレームの中に、深緑色の服と自分の足が見える。これはきっと、小メガネさんが見ている世界と同じだ。そう思うと、体が徐々に汗ばんでくる。
Tシャツの襟を引っ張って、自分の顔をうずめる。深く深呼吸すると、小メガネさんの爽やかな空気で肺が満たされるように錯覚する。
一度だけ、スマホのカメラで自分の姿を見た。そこには眼鏡をかけた俺が映っていた。俺は、もう二度とそれを見るまいと誓った。
予備校からの帰りに、本屋に寄った。今回は、大学の過去問を買うためだ。春に山口と買いに来たときはまだ早かったが、今の時期なら最新版が発売されているはずだ。今はまだ手を付けるつもりはないが、気が付いたときに買っておいた方がよいだろう。なんだか、山口みたいなことを言っているな、と自嘲する。
店頭の売り場には、読書感想文におすすめの本が並んでいる。小学生のころは作文が苦痛だったが、今なら当時よりもスラスラと書けるだろう。でも最大の問題は、ちっとも本を読みたくないことだ。
今日は外があまりにも暑いので、店内のキンキンに効いた冷房が心地よい。汗がみるみる引いていく。受験勉強さえなければ、しばらくここにいたいくらいだ。そうすれば、小メガネさんに会える確率も上がるだろう。
深緑色のTシャツは見られたくなかったので、薄手のシャツを羽織る。エプロンとTシャツは全然違うとはいえ、ペアルックを意識した痛いやつだと思われては、たまったものではない。
学習参考書などの棚の中に、難関私立大学の理工学部の過去問を見つける。どういうわけか、うちの高校の連中は、こぞってこのレベルの大学を受ける。そして半数が浪人生となる。
みんな、そんなにこの大学に入りたいのだろうか。俺だったら、もう一年受験勉強をするなんて受け入れられない。滑り止めでもなんでもいいから、受からせてもらえる大学にありがたく入学するだろう。
俺は一冊の過去問を手に取ってみる。その赤くて板状の直方体は、相変わらずの密度だ。もし受験勉強が辛くて耐えられなくなったら、これで自分の頭をかち割ってもいいかもしれない。
レジを見ると、見慣れない店員がいた。エプロンに初心者マークが付いているように見えるので、新人バイトかもしれない。既に、ここの店員については一通り知っているし、小メガネさんの様子ばかり気にしていたので、最近は胸のことを忘れつつあった。でも、久々に新しい店員を目にしたら、むくむくと好奇心が沸き上がってきた。
レジに立つ新人らしき店員は、特に緊張している様子はなかった。でも、何かが変だ。その人がそこに立っているだけで、空気が少し揺らいでいる気がした。きっと、まだバイトに入ったばかりで、この店に馴染んでいないのかもしれない。
俺は、過去問を新人らしき店員に手渡した。俺の視線には、自然と新人店員の胸元へ向く。
左胸には、「研修中」と書かれた、初心者マークの付いた札を付けている。
初心者マークが、立体感を帯びている。3D映画みたいに浮いて見えた。
そこに、深緑色の壁はなかった。
胸がある。俺は真っ先にそう思った。いや、誰にだって胸はある。そういうことじゃなくて。
その新人店員は、胸が大きかった。
見たことのないものがそこにはあった。厚みのある生地のエプロンは、ふっくらとした膨らみを作っている。その丘の上に、研修中の札が浮いたように付けられている。
俺は呼吸をすることを忘れた。目の前のことが信じられなかった。本屋の店員は胸が小さい。高橋はそう言っていた。それが単なる、あるあるネタであることは理解していたはずだ。反例はいくらでも挙げられるだろう。しかし、いざそれを目の前にしてみると、俺の脳は理解することを拒むような姿勢を見せた。
映画では、巨大な板が猿に知能を与えた。しかし、目の前のふっくらとした深緑色の丘は、俺から知性を奪おうとしていた。
頭の中がぐわんと揺れる。ひとりでに脳震盪を起こしそうな衝撃を感じる。
お支払い方法は何にしますか。多分、そんなようなことを聞かれた。俺は気力を振り絞り、魂を現世に呼び戻した。口から、あ、という声なのかわからない情けない音が漏れる。知性がなくても出せる音。
「あの」俺はようやく日本語のコツを取り戻し始めた。言葉をしゃべらないと。
「あ」うわあ、ダメだ。それではまた逆戻りだ。知性はどこにいった。
そうこうしていると、新人店員は不安そうに聞いてきた。
「現金ですか?」
低くて優しいその声を聴いて、ようやく脳の揺れが収まってきた。
「あ、あん、QRコード」
俺はようやく口から言語を発した。最低限のコミュニケーションが取れる程度の返答だ。
「では、こちらのカメラにかざしてください」
店員に促された。しかし、俺はスマホを開くことをすっかり忘れていたため、QRコードを開くまでの時間を待たせてしまう。ほんの数秒が気まずい。
どうにか精算を終え、レシートと過去問を受け取る。新人店員のふんわりとした手と腕が目に入る。半袖シャツから、これまた柔らかそうな二の腕が覗く。指先でシルバーのネイルがきらりと光った。その眩しさに目がくらんだ気がして、また頭の中が揺れそうになる。
俺は、何かから逃げるようにして店を出た。その後、どうやって家までたどり着いたのか、覚えていない。
風呂場のシャワーで汗を流すと、少しだけ冷静になった。排水溝に流れるお湯を眺めながら、今日起きた出来事を振り返る。
あのレジで、俺の目の中に入ってきた映像は、全てがふっくらと丸みを帯びていた。俺は心の中で、新人店員を、ふっくらさん、と呼ぶことにした。
ふっくらさんのことを思い出す。深緑色の丘。肉付きの良い手や腕。もしあれに触れれば、きっとマシュマロのようにすべてを受け止めてくれるだろう。
いや、待った。あれに触れれば? 俺は今、とんでもないことを考えているようだ。
そういえば、ふっくらさんの顔を見ていないことに気が付く。今日はそれどころではなかった。どんな顔だろう、と想像してみるが、うまく思い描けない。でも、警察のモンタージュ写真ですら、既存のパーツを組み合わせて作るはずだ。脳内でゼロから生み出すなんて、一般の高校生には容易ではない。
夜になり、深緑色のTシャツを着る。その途端、今日の体感がよみがえってきて、脳の中が揺れる。ふっくらさんの深緑色の生地の下にあるものを想像してしまうと、また知性を失いそうな感覚に陥った。深緑色のTシャツは、いつもよりも熱っぽく、そして柔らかく感じた。
それ以降、俺は予備校の帰りに書店へ寄るようになった。ふっくらさんの顔を見たかったからだ。しかし、シフトの都合もあるのか、書店へ行ったところで会えるわけでもなかった。
ようやく会えたのは、最初に遭遇してから四日も経った日だった。あれからずっと、脳内のふっくらさんの顔は空欄のままだった。これがテストだったら許されないだろう。
前回とは別の大学の過去問を手に取り、レジにいるふっくらさんのもとへ向かう。事前にしっかりと深呼吸しておいたので、今回は慌てなかった。とはいえ、四日ぶりのふっくらさんを目の前にして、上気してしまうことは避けられなかった。
深緑色の丘を視線に捉えながら、レジで過去問を手渡す。
「お支払い方法は?」
ふっくらさんに尋ねられる。その落ち着いた低めの声は、俺の耳を柔らかく包み込んだ。
QRコード決済を伝えると、ふっくらさんは端末を操作し始めた。この短い隙に、いつものやり口で、こっそりと顔を見る。いざ、ご対面。
ふっくらさんは、高い鼻に、大きな目をしていた。やや日本人らしくない、濃い顔つきだ。古代ローマ人の映画に出ていても違和感はなさそう。髪は黒く、ミディアムヘアをハーフアップにしている。綺麗な大人の女性、という表現がぴったりに感じられた。
今一度、全身を見渡す。そのふっくらした体つきは、その濃い顔にぴったりであるように思う。
はあ、と心の中で息が漏れる。俺の正面のレジの周りが、ゆっくりと動いて見える。四日分の未回答を取り戻そうと、俺は目の前の人の姿を真剣に学習していた。
「では、こちらのカメラにかざしてください」
端末の操作を終えたふっくらさんが案内する。その時、俺はふっくらさんの顔をまだ見つめていた。それに向こうも気づいたらしく、おや、という様子で目を上げた。
一瞬、目が合う。二人の目と目の間に、見えないエネルギーが流れるのを感じ、網膜が焼けそうになった。
俺は慌てて瞬きしてから、スマホの方に視線を落とした。
決済を終え、レシートと過去問を受け取る。ふっくらさんの手の先で、シルバーのネイルが輝く。
昔見た映画で、銀色の液体ロボットが、指で人を刺し殺すシーンがあった気がする。俺は、そのネイルに心臓を貫かれるところを想像した。それはきっと、さぞかし気持ちがよいことだろう。
頭の中のピンクのもやは、あっという間に吹き飛んで霧散してしまった。
そこには、ただふっくらさんの姿だけが残った。

