書店員の胸が小さいことの証明 〜理系男子は恋を定義できない〜

 まだ五月だが、最近は気温が高いため、しばらく学ランを着ていない。学ランは嫌いだ。いかにも学生という印象があり、子供っぽく感じてしまう。
 
 今日の放課後は一人だった。俺は二人に対して、今日は用があるからと言って別れた。こういうときに詮索してこないところが、二人の好きなところだ。絶対に本人に向かっては言わないけど。
 今日の用事。それは、一人で書店に行くことだった。
 
 山口が過去問を買うのに付き合った後、俺は普段通りに過ごしていた。学校で授業を受けたり、放課後は友人と過ごしたり、予備校の講義を聞いたり。
 しかし、自室でくつろいでいるうちに、いつの間にか頭の中のピンクのもやが復活していることに気が付いた。違和感のサインカーブは、一度下がったあとはまた上がってくる。騒がしいBGMのくだらないショート動画を眺めているはずなのに、徐々に内容が頭に入ってこなくなった。
 そして、もやの向こう側で、あの言葉がゆらゆらと明滅する。
 
――本屋の店員は胸が小さい。
  
 ふざけんなよ。俺は心の中で高橋を呪った。あいつのせいだ。あいつが変なことを言うから。休み時間の他愛のない会話の中で、ほんの一瞬で過ぎ去った、至極どうでもいい話題のくせに、いちいち思い出してしまって、頭から離れない。
 憂さ晴らしのために、鼻を噛んだ後のティッシュを高橋の鞄に投げ込んでみたが、何も解決することはなかった。高橋は、それに対して笑いながら怒っていたけど、むしろムカついているのはこっちだ。
 しかし、考えてもしょうがないのだ。書店員に馴染みのない俺には、この話の正解がわからない。誰かに相談したい話題でもない。むしろ、人の胸の大きさについて考えているなんて、誰にも知られたくないことだ。
 ならば、やることは一つ。この目で実際に確かめるしかない。捜査は足で稼ぐものだ。
 
 一人で下校した俺の足は、真っ直ぐにあのショッピングモールへ向かった。書店のある三階まで、エスカレーターで上がる。ここの書店までの道のりは完全に頭に入っていた。
 書店に着くと、改めて店内の奥行きの広さを感じる。入口には、相変わらず特設コーナーが広がっている。同じ本がたくさん並んでいるところからすると、どれも人気があり、買う人もたくさんいるのだろう。手に取ってみると、どうやら小説のようだ。それは、国語の授業以外で物語を読むことのない俺にとっては、全く縁のないもののように感じられた。
 レジの方に目をやる。カウンターには三台のレジ端末が配置されている。レジには店員が二名。一人は前を向き、客が来るのを待っている。一人は何やら作業をしている。二人とも眼鏡をかけた女性だ。
 ここからでは、彼女たちの体型はよく見えない。だから、近づく必要がある。しかし、何の理由もなく近づくわけにもいかないので、何か商品を買うことにしよう。
 俺は漫画のコーナーへ向かった。普段は漫画を読むことはないが、世間で流行っているような有名なタイトルくらいは見聞きしたことがある。それは十四巻が発売されたばかりらしく、たくさん平積みされている。途中から読んだら、話についていけないだろう。かといって、一巻から読む気力はない。
 迷ったあげく、国民的ギャグ漫画の適当な一冊を手に取った。これなら話の繋がりを意識する必要もなく、どこからでも読めそうだ。これは、俺が生まれるよりもずっと前からある漫画で、既に作者は故人らしい。しかし、その後もアニメなどの新作が作り続けられている。俺も子供のころは毎週のように見ていた。
 誰かの死後に、別の誰かが作品を引き継ぐ。よく考えてみるとすごいことだ。世の中の大半のものは、作者が死んだらそこで終わってしまう気がする。例えば俺が死んだ後のことを想像してみると、誰かが俺のものを引き継いでくれるなんて、あまりにも非現実的だ。いや、そもそもまだ何も成し遂げていないか。
 
 レジに漫画を持っていく。眼鏡をかけた小柄で華奢な女性の店員に、漫画を手渡した。そこで、はたと気がつく。俺の視線の先に、平らな深緑色のエプロンの胸の部分がある。
 何かがおかしい。今までの人生において、店員とのやりとりの経験はある。しかし、今日のそれは、これまでのものとは明らかに違った。そう、胸だ。今まで、店員の胸を意識したことはない。しかし、今日は意識するまでもなく、自然と店員の胸が視界に入ってきている。
 俺は冷静に状況を分析する。従来の経験との違いを感じるということは、この環境に何か異質なものがあるのだろう。
 答えはすぐに見つかった。カウンターだ。他の書店がどうかはわからないが、少なくとも、ここのカウンターは明らかに高さがある。コンビニのレジカウンターが俺の腰のあたりだとすれば、ここはヘソくらいの高さだ。商品を渡した際の目線は、自然とやや高くなる。
 さらに、今日の店員が小柄であることもそれに拍車をかける。背が低い分、胸の位置も低い。やや高くなった目線と、やや下がった胸元。視線の先に胸があることは、それらの条件によって必然であることが証明された。
 
 さらに分析を続ける。視線の先にある胸は、世の中の女性の平均よりも小さいように感じる。いや、実際の平均値を知らないから、体感だけど。むしろ、俺の目の前のそれは、真っ平らだ。壁と言ってもいいだろう。
 SF映画で、黒い壁のようなものが猿に知能を与え、人間へ進化させるというシーンがあったはずだ。そう考えると、壁というものにはどこか神秘的な力が秘められているような気がしてくる。
 しかし、本当に小さいのだろうか。ここの店員は、みんな深緑のエプロンを着用している。その生地はやや固そうだ。
 そうだ、このエプロンは、着ている人の体型を隠してしまう。一見すると、体の前面がストンと平らなように感じるが、それは生地による影響かもしれない。でも、実際の大きさはともかく、俺の目には小さく見えていることは確かだ。
 かくして、高橋の言ったあるあるネタは、実際にこの目で確かめたことによって、信憑性が増す結果となった。
 
 店員から支払い方法を問われたので、QRコード決済をお願いした。店員がレジ端末を操作している隙に、俺は店員の顔をちらりと見やる。どことなく幼い顔立ちだ。黒髪に高めのポニーテールという髪型と小柄な体型が、さらに幼さを強める。恐らく、高校生である自分よりは年上なのだろうが、ぱっと見た印象では、ちょっと年下にも見える。
 メガネさん。俺は心の中でそう呟いた。プライバシーへの配慮なのか、名札などは無いので、店員の名前はわからない。でも、顔を見たときに、この人はそう呼ぶのがピッタリだと直感が告げた。俺は昔からネーミングセンスがない。
 メガネさんが顔を上げたので、俺は慌てて目を伏せる。また彼女の胸元が視界に入る。スマホを握った手が汗ばむのを感じた。あれ、最初に見たときは何ともなかったのに。色々と思案したせいか。それとも、彼女の顔を見たせいか。
 決済が終わり、メガネさんから漫画とレシートを受け取る。その途端、自分が幼稚なギャグ漫画を買ったという事実に対して、途端に恥ずかしさを覚えた。俺は実にばかだな。大学受験を控えた高校生が買う本として、それはとてもふさわしくないものだと感じられた。
「ありがとうございましたー」
 メガネさんはお決まりのセリフを口にする。俺は目を伏せたまま、レジを後にした。これは恥ずかしいからじゃない。レジで店員と目を合わせる方がおかしい。
 
 帰宅した後、自室で今日買った漫画を手に取る。レジで応対してくれた、メガネさんの姿が思い出される。小柄な体型。黒髪のポニーテール。幼さのある丸い顔は、特別美人だとか、可愛いというわけではない。でも、それは目に焼き付いて離れない。
 胸の大きさを確認しに行ったはずなのに、他のことばかりを思い出す。レジ端末に向かい、目を伏せた姿。漫画をつかんだ手。俺に向けられた声。全てがカラフルな記憶として、頭の奥で再生される。なんだか変な感じだが、これは決して嫌な気持ちではないと思う。
 俺は漫画を開く。すると、また恥ずかしさがこみ上げてきた。俺は漫画を読むのをやめて、引き出しの奥に放り込んだ。

 頭の中のピンクのもやは、少し色が濃くなったような気がした。