うちの高校は進学校だ。卒業後の進路は、現役合格と浪人がおよそ半々になるという、極端な傾向があるらしい。
三年に進級した俺たちは、否応なしに受験の空気に支配されていく。俺も周囲に流されるまま、予備校へ通い始めていた。
ある日の放課後、山口が大学の過去問を買いたいと言い出した。
「まだ四月だし、早くない?」
俺は率直な疑問をぶつけた。
志望校だってまだ明確じゃない。一応理系クラスにいて、数学が少しだけ得意だから、進学先は数学科がいいかな、くらいは考えているけれど。
「買いたくなったのよ。とりあえず買っておけば、いつでもできるじゃん? 思い立ったが吉日。買いたい時が買い時よ」
山口は当然といった様子で答えた。
彼のこうした行動力の早さには舌を巻く。調子は良いが、感じるままにすぐ動く。俺が気持ちのよい高校生活を送れているのは、こんな山口のおかげだと思う。たまに俺と高橋の二人きりになると、驚くほどに何も決まらない。
山口の買い物に付き添い、三人で駅直結のショッピングセンターにある書店へ向かった。俺は、ここに書店があることすら知らなかった。
このショッピングセンターでは、百円ショップかハンバーガー屋くらいしか寄ったことがない。甘党の俺は、そのハンバーガー屋ではいつもアップルパイを注文する。アホみたいに熱い、揚げられたアップルパイだ。
その書店は大きかった。いや、他の書店をよく知らないから、ハッキリとしたことは言えないけど、きっと大きい。
入口付近には、売れ筋と思われる本がたくさん並べられている。何かの賞があったらしく、特設コーナーが設けられていた。でも、本に馴染みのない俺には、どれも聞いたことのないタイトルだった。
雑誌の棚を通り過ぎて奥まで行くと、学習参考書などの棚に着いた。そこには大学の過去問が多数並んでいる。赤い背表紙に書かれた太文字の学校名が、俺たちを威圧しているように感じる。
ところが山口は「あれ?」と声を漏らした。そこに並んだ過去問は、どれも昨年度のものだった。どうやら、まだ今年度のものは発売されていないらしい。
山口の行動力は、今回は裏目に出てしまったようだ。
「何やってんの。ダメじゃん」
俺は笑う。しかし、山口はあまり気にしていないようだった。
「まあいいや、今日は一冊だけ買っとくわ。本当は志望校の分を全部揃えるつもりだったのにな」
山口の志望校が何校あるのか知らないが、この過去問を何冊も持って帰るのは重労働だろう。
俺は親に頼んで、ネットで買ってもらおう。
山口は、今日の一冊をすぐに選んだ。それを見て、俺と高橋は「マジかよ」と吹き出した。
選ばれた過去問は、日本で最も頭が良いことで知られる国立大学のものだった。大学名を冠したテレビ番組が組まれることもあるほどの、超有名大学だ。
山口の成績は、俺と同じかやや下。校内では平均的なものだ。それでも、脳みそを夢の国に置き忘れた高橋よりはマシだが。
何にせよ、その大学を受けるというのは、ギャグ以外の何物でもなかった。
「少年よ、夢は天よりも高く持て、だぜ」
「それって誰の言葉?」
「俺の言葉」
山口はにやりと笑った。俺は呆れたが、別に何を買うのも自由だろう。
鈍器のような密度を持った過去問を手にレジへ向かう山口を、俺と高橋は見送った。
当たり前のことだが、レジには店員がいた。深い緑色のエプロンを着けた女性だ。どうしてエプロンなんだろう。料理をするわけでもないのに。
「志望校、どこがいいかね」
過去問の背表紙を眺めながら、高橋が何気なくつぶやいた。
そんな高橋の声を聞いた途端、頭の奥で小さな電撃が走った感覚を覚えた。思わず鼻から空気を吸い込み、焼けた気がした脳を冷ます。
数日前の教室での記憶が、突然よみがえってきた。
――本屋の店員は胸が小さい。
俺はレジの店員に目を向ける。でも、少し遠いのでよく見えない。
それは、いつか高橋が口にした、全く共感できないあるあるネタだった。なんで今、突然思い出したんだ。
高橋に対して、バカじゃねーの? と思う気持ちが半分。実際の書店員を見て、実際はどうなんだろう、という気持ちが残り半分だ。
今、高橋はどう感じているだろう。気になって高橋の方へ目をやるも、過去問の背表紙を眺めることに夢中のようだった。
「このくらいの大学に行けたらいいよなー」
一つの過去問を指さして、高橋が言った。それは最難関ではないものの、充分に有名な難関私立大学のものだった。高橋には無理だと思う。
支払いを終えた山口が戻ってきた。過去問は、既に鞄の中に仕舞われている。
もし今その鞄を振り回せば、重さを増したそれが凶器となり、傷害事件に発展するだろう。いや、そもそも外で鞄を振り回した時点で人としてアウトか。
「マジで受けるの?」「受かったらヤバくね?」
じゃれ合う二人を横目に、俺は全く別のことに気を取られていた。
果たして、書店員の胸は本当に小さいのだろうか。
高橋は、きっと彼なりの統計に基づいてあの発言をしたのだろう。しかし、特定の職業と身体的特徴が結びつくというのは、どうにも違和感があった。しかも胸の大きさが?
考え出すと、なぜか頭の中にピンク色のもやがかかる。昔見たアニメでは、ピンクのもやを抜けた先に違う世界があった。このもやも、俺を違う世界に連れて行ってくれるだろうか。
実態を確かめてみたい気持ちはあったが、二人の前では憚られた。二人はこのことをすっかり忘れているだろうし、蒸し返したら俺が変人扱いされかねない。
その後、山口がハンバーガー屋へ行こうと言い出したので、何も確かめられないまま店を後にした。
ハンバーガー屋で、いつものようにアップルパイを注文するうちに、頭の中の違和感がサインカーブを描いて降下する。
ピンクのもやが、だいぶ晴れていることに気が付いた。やっぱりアップルパイしか勝たん。
三年に進級した俺たちは、否応なしに受験の空気に支配されていく。俺も周囲に流されるまま、予備校へ通い始めていた。
ある日の放課後、山口が大学の過去問を買いたいと言い出した。
「まだ四月だし、早くない?」
俺は率直な疑問をぶつけた。
志望校だってまだ明確じゃない。一応理系クラスにいて、数学が少しだけ得意だから、進学先は数学科がいいかな、くらいは考えているけれど。
「買いたくなったのよ。とりあえず買っておけば、いつでもできるじゃん? 思い立ったが吉日。買いたい時が買い時よ」
山口は当然といった様子で答えた。
彼のこうした行動力の早さには舌を巻く。調子は良いが、感じるままにすぐ動く。俺が気持ちのよい高校生活を送れているのは、こんな山口のおかげだと思う。たまに俺と高橋の二人きりになると、驚くほどに何も決まらない。
山口の買い物に付き添い、三人で駅直結のショッピングセンターにある書店へ向かった。俺は、ここに書店があることすら知らなかった。
このショッピングセンターでは、百円ショップかハンバーガー屋くらいしか寄ったことがない。甘党の俺は、そのハンバーガー屋ではいつもアップルパイを注文する。アホみたいに熱い、揚げられたアップルパイだ。
その書店は大きかった。いや、他の書店をよく知らないから、ハッキリとしたことは言えないけど、きっと大きい。
入口付近には、売れ筋と思われる本がたくさん並べられている。何かの賞があったらしく、特設コーナーが設けられていた。でも、本に馴染みのない俺には、どれも聞いたことのないタイトルだった。
雑誌の棚を通り過ぎて奥まで行くと、学習参考書などの棚に着いた。そこには大学の過去問が多数並んでいる。赤い背表紙に書かれた太文字の学校名が、俺たちを威圧しているように感じる。
ところが山口は「あれ?」と声を漏らした。そこに並んだ過去問は、どれも昨年度のものだった。どうやら、まだ今年度のものは発売されていないらしい。
山口の行動力は、今回は裏目に出てしまったようだ。
「何やってんの。ダメじゃん」
俺は笑う。しかし、山口はあまり気にしていないようだった。
「まあいいや、今日は一冊だけ買っとくわ。本当は志望校の分を全部揃えるつもりだったのにな」
山口の志望校が何校あるのか知らないが、この過去問を何冊も持って帰るのは重労働だろう。
俺は親に頼んで、ネットで買ってもらおう。
山口は、今日の一冊をすぐに選んだ。それを見て、俺と高橋は「マジかよ」と吹き出した。
選ばれた過去問は、日本で最も頭が良いことで知られる国立大学のものだった。大学名を冠したテレビ番組が組まれることもあるほどの、超有名大学だ。
山口の成績は、俺と同じかやや下。校内では平均的なものだ。それでも、脳みそを夢の国に置き忘れた高橋よりはマシだが。
何にせよ、その大学を受けるというのは、ギャグ以外の何物でもなかった。
「少年よ、夢は天よりも高く持て、だぜ」
「それって誰の言葉?」
「俺の言葉」
山口はにやりと笑った。俺は呆れたが、別に何を買うのも自由だろう。
鈍器のような密度を持った過去問を手にレジへ向かう山口を、俺と高橋は見送った。
当たり前のことだが、レジには店員がいた。深い緑色のエプロンを着けた女性だ。どうしてエプロンなんだろう。料理をするわけでもないのに。
「志望校、どこがいいかね」
過去問の背表紙を眺めながら、高橋が何気なくつぶやいた。
そんな高橋の声を聞いた途端、頭の奥で小さな電撃が走った感覚を覚えた。思わず鼻から空気を吸い込み、焼けた気がした脳を冷ます。
数日前の教室での記憶が、突然よみがえってきた。
――本屋の店員は胸が小さい。
俺はレジの店員に目を向ける。でも、少し遠いのでよく見えない。
それは、いつか高橋が口にした、全く共感できないあるあるネタだった。なんで今、突然思い出したんだ。
高橋に対して、バカじゃねーの? と思う気持ちが半分。実際の書店員を見て、実際はどうなんだろう、という気持ちが残り半分だ。
今、高橋はどう感じているだろう。気になって高橋の方へ目をやるも、過去問の背表紙を眺めることに夢中のようだった。
「このくらいの大学に行けたらいいよなー」
一つの過去問を指さして、高橋が言った。それは最難関ではないものの、充分に有名な難関私立大学のものだった。高橋には無理だと思う。
支払いを終えた山口が戻ってきた。過去問は、既に鞄の中に仕舞われている。
もし今その鞄を振り回せば、重さを増したそれが凶器となり、傷害事件に発展するだろう。いや、そもそも外で鞄を振り回した時点で人としてアウトか。
「マジで受けるの?」「受かったらヤバくね?」
じゃれ合う二人を横目に、俺は全く別のことに気を取られていた。
果たして、書店員の胸は本当に小さいのだろうか。
高橋は、きっと彼なりの統計に基づいてあの発言をしたのだろう。しかし、特定の職業と身体的特徴が結びつくというのは、どうにも違和感があった。しかも胸の大きさが?
考え出すと、なぜか頭の中にピンク色のもやがかかる。昔見たアニメでは、ピンクのもやを抜けた先に違う世界があった。このもやも、俺を違う世界に連れて行ってくれるだろうか。
実態を確かめてみたい気持ちはあったが、二人の前では憚られた。二人はこのことをすっかり忘れているだろうし、蒸し返したら俺が変人扱いされかねない。
その後、山口がハンバーガー屋へ行こうと言い出したので、何も確かめられないまま店を後にした。
ハンバーガー屋で、いつものようにアップルパイを注文するうちに、頭の中の違和感がサインカーブを描いて降下する。
ピンクのもやが、だいぶ晴れていることに気が付いた。やっぱりアップルパイしか勝たん。
