書店員の胸が小さいことの証明 〜理系男子は恋を定義できない〜

 まだ冷えるが、少しずつ春の足音を感じる時期になってきた。
 
 受験生としての高三の一年間は、長かったようで、終わってしまえばあっという間だった気がする。今はとにかく、一大イベントが終わったことにホッとしている。
 
 俺は、山口と通話した日のことを思い出していた。
 
 最初、山口の言うことが理解できなかった。いや、意味は理解できたけど。それは俺には真似できない、と正直に感じた。
「悪い、もう一回言って?」
『だーかーら、とにかくいっぱい勉強するんだよ。朝から晩まで』
 山口からの説明は、身も蓋もないものだった。
「もっと具体的に」
『じゃあまず、朝は七時に起きる。顔を洗って、朝食を取ってから、勉強する。その後、昼飯を食べたら、また勉強する。そして、夕飯と風呂を終えたら、勉強する。で、夜の十時くらいに寝る』
「それって」
 俺は、説明されたタイムスケジュールを、頭の中で図に変換して整理する。
「ほぼ一日中勉強してない?」
『そうだな。で、これを夏休みの間はずっと続けてた』
 俺は呆れた。いくらなんでも勉強しすぎだ。それだけやれば、模試の成績があそこまで上がったのも当然なのではないか。
「よくそんなにやれたな」
『うーん、まあね』
 山口は少し困ったように話した。
『大学受験だから、勉強しなきゃ、勉強しかないな、って思ってたんだ。こういうものだと思ってた。だからむしろ、模試の結果を見たとき、俺は人よりも勉強してたんだって初めて気が付いたよ』
 俺は、山口の話を聞いて、再度呆れた。頭がいいのか悪いのかわからない奴だ。ただ、今回に関しては、山口の単純さが勝利を引き寄せたのは間違いない。
 いずれにせよ、異次元すぎて参考にならない。山口と違って、俺は戦闘民族ではないのだ。そこまでの覚悟はない。
「そういや、たくさん勉強するのはいいとして、どんな勉強をしてたの?」
『えっと、問題集を解いてた。各科目ごとに実践的な問題集を一冊ずつ用意して、それを延々と解いてたよ。夏休みが終わる頃には、それぞれ二周してた』
「同じ問題集を二周?」
『ああ、そうすれば実力が身に付くって。ネットで見た話を信じてね。今は三周目。最近は過去問もやってる。実際の試験時間と同じようにタイマーをセットするの。多分、もう実力はあるから、後は本番で慌てないようにするための準備って感じ』
 なるほど。俺は山口の言葉を反芻する。問題集で実力をつけて、過去問で本番の予行演習をする。シンプルながらも、理にかなった話のように思う。
 何より、あの山口が言っているのだ。圧倒的な成績の向上を遂げた、生きた受験生の言葉だ。それは、どんな予備校講師の講釈よりも、ずっと信頼できる気がした。
「ありがとう、参考になった」
 俺は山口に感謝を述べ、通話を終えた。
 やるべきことは見えてきた。後は、どこまでやれるかだ。
 
 それ以降、俺は山口の教えに従い、黙々と問題集に取り組んだ。残念ながら、山口のように朝から晩まで勉強漬けとまではいかないものの、以前とは明らかに勉強へ取り組む姿勢が変わった。
 ときどき、どうしても気持ちが抑えられない時は、引き出しから本を取り出し、ふっくらさんを求めた。表紙に手を置いて目を閉じると、ふっくらさんの体温を感じられる。以前のように本を読みふけることはないので、このくらいは許してほしい。でも、こんな姿は山口たちには見せられないな。
 
 *
 
 入学試験の日程をカレンダーで確認したとき、苦笑いがこぼれた。俺は、五つの私立大学を受けることにしていた。その結果、月曜から金曜まで、五日間連続で入試を受けなければならないことがわかったのだ。入試は、朝から夕方にまで及ぶ。これが五日も続いたので、俺は最後には疲弊しきっていた。
 俺は、難関校を二校、中堅校を三校受けた。最難関と言われる大学は避けた。そこまでの実力はないと判断したのだ。なんだかんだ、それは現実的な選択だったと思う。
 試験の結果は三勝。合格したのは、難関校が一校、中堅校が二校。
 まさか、難関校に合格できるなんて。入試の当日は手応えがよくわからなかったが、ありがたいことに結果はついてきた。我ながら未だに信じられない。俺は驚きと安心感で満たされる。
 
 山口や高橋も、それぞれの入試を終えた。山口は相変わらず絶好調のようで、最難関の私大を含めて全ての試験に合格した。漫画の主人公かよ。高橋も中堅大学に合格したらしい。あの高橋としては素晴らしい結果と言えるだろう。
 かくして、俺たちは三人とも大学に現役合格することができた。もし誰かが浪人したとしても、きっと友情の火はそう簡単には消えなかったと思う。でも、誰もが満足できる結果に終わったことは、やはりめでたい。
 
 俺の入試の結果を聞いた母は、そんな俺以上に喜んでいた。誰かの期待に応えるための受験ではなかったが、結果的によかったと思う。俺は胸を撫で下ろす。母は、努力の結果だよ、本当に凄いよ、と言った。俺は全く努力していなかった時期の自覚があったため、ほんの少しの罪悪感を感じた。
 母はすっかり浮かれてしまい、合格通知の画面を印刷してリビングの壁に貼り付けていた。マジでやめてほしい。
 
 *
 
 入試が終わって以降、俺はすっかり暇になってしまった。学校は、卒業式までしばらく休みだ。
 俺の足は、数ヶ月ぶりにショッピングセンターへ向いた。今日はふっくらさんはいるだろうか。いたらどうしよう。また何か本を買うのか。それとも遠くから眺めるだけなのか。
 書店が見えてきた。それだけで体温が高まる。自分の口角が上がっていることに気がつく。どうしよう、ヤバいかも。何が?
 その時、店内からトレンチコートを着た女性が出てきた。俺はそれを見て、体が動けなくなった。
 ハーフアップにまとめた黒髪。大きな目に、高い鼻。時間が止まる。店内の喧騒が遠のく。周囲が薄暗くなったように錯覚する。女性は淡く光り輝いているようだった。目を離すことができない。
 
 それは紛れもなく、ふっくらさんだった。
 
 久しぶりに彼女を見た。そのせいか、今までにないような気持ちの高まりを感じる。
 ふっくらさんが俺の横を通り過ぎた。瑞々しい香りが俺の鼻腔をくすぐる。ああ、と心の中で声が漏れる。そのまま魂が口から抜け出てしまいそうになる。
 俺は振り返り、ふっくらさんの後ろ姿を見つめた。これまで、ふっくらさんのことを後ろから見たことはほとんどない。その丸みを帯びたシルエットに、自分の気持ちがさらに強くなる。
 
「あの」
 
 ふっくらさんが立ち止まり、こちらを振り返った。あ、え、どうした? 何が起きた?
 一瞬のうちに、その声をかけたのは俺の方だったと気がつく。俺が声をかけたから、ふっくらさんはこちらを向いたのだ。
「はい?」
 ふっくらさんはキョトンとした顔でこちらを見る。
 しまった。どうして。あまりに無鉄砲な自分の行動に、俺の全身から汗が噴き出す。膝が震える。
 何か言わないと。何か。
「す、すみません」
 俺は情けない声を出した。ダメだ。逃げないと。そう思った。
 
 *
 
 俺は、今の状況を飲み込めないでいる。
 目の前のテーブルには一杯のココア。向かいにも同じココア。その先には、白いリブニットに包まれた、丸みのある丘が見える。俺の向かいの席に、コートを脱いだふっくらさんが座り、こちらを見ている。
 俺とふっくらさんは、喫茶店にいた。
 
 思わずふっくらさんに声をかけてしまった時、彼女は俺の顔を見て、あ、という顔をした。そして、俺に話しかけた。あのさ、ちょっと場所変えない? そして、この喫茶店へ連れて来られたのだ。
 奢るから何でも頼みなよ、と言われた。俺は何も考えられないまま、ふっくらさんと同じココアを注文した。コーヒーじゃないのは、何となく意外だった。
 
 俺はどうすればよいかわからず、視線をさまよわせる。夢のような時間のはずだが、全く落ち着かない。どこに目を動かしても、白い丘と目が合う。焦げ茶色の壁に覆われた店内で、彼女の姿は天使のような白さに感じられた。
 ふっくらさんが口を開いた。
「君さ、よくお店に来てたよね?」
 朗らかな顔で質問されたが、俺は取り調べを受けているような気分だった。脇に汗がにじむ。
「あの、はい」
「そうだよね。一度ね、話してみたいなって思ってたんだよね」
 え、俺と? いったい、何を話したいというのか。
 ふっくらさんは、俺のことを書店の客として認識しているらしい。レジでのやり取りを思い返す。俺は、とにかく彼女のことを見ていた。
 次に言われる言葉を想像する。私のこと、見てたよね。ヤバい。バレてる。私の胸を見てたよね。いや、それはもっとヤバい。逃げないと。
 しかし、いずれの予想も違ったようだ。ふっくらさんは、俺に優しく問いかけた。
「高校生、だよね? 学校は春休み?」
 今日の俺は私服だ。ふっくらさんにしてみれば、学校の制服の印象が強いのかもしれない。
「あ、いや、いま高三で。受験の時期なんで、もう授業がないんです」
「ああ! 受験ね。だから最近見かけなかったんだ。もう終わったの?」
「まあ、はい。何校か受かりました」
「へえ、凄いねえ。そうだよね、確かに勉強家のイメージだな」
 ふっくらさんは勘違いしている。俺が買っていた本は、勉強のためではない。俺は思いがけず罪悪感に苛まれる。
「じゃあ、春から大学生だね」
 そう言って、俺に微笑みが投げかけられる。その顔を見たら、俺もつられてぎこちない笑顔で頷く。
「君の目」
 その言葉をきっかけに、彼女の瞳を覗き込む。二人の目が合い、太い直線で結ばれる。熱を帯びたエネルギーが、二人の間に流れる。
「鋭くてかっこいいなって思ってた。狼みたい」
 ふっくらさんは、ズルい。本当にズルい。俺は心臓の高鳴りが抑えられなくなる。返す言葉を考えようとするが、続く言葉に遮られた。
「あの、実はね」
 笑顔を変えないまま、ふっくらさんは話し始める。
「私、もうお店を辞めるの」
 えっ。俺は声を上げた。思わず出た大きな声に、自分で驚いてしまう。バツの悪さから、周りに少し目をやる。
 ふっくらさんの顔を見直す。今も笑顔を崩さない。その大きな目を覗き込むと、表情の固まった俺が映っている気がした。
 そんな俺をよそに、話は続けられた。
「私ね、妊娠してるんだ」
 目の前の笑顔から放たれた言葉が、右ストレートのように俺を打ち抜く。強烈な一撃にめまいを覚える。俺は固まってしまい、何も言えない。
「それで、子供を一人で育てないといけないから、実家に帰る予定なの」
 ふっくらさんの言葉が頭に入ってこない。俺はふっくらさんから目が離せなくなるが、何を見ているのかわからなくなった。何が。妊娠が? 一人で?
「よくお店に来てくれてて、君のことは気になってたから、辞める前に話ができてよかったよ」
 気になってた? 何だよそれ。知らないよ。何を、何を勝手に。
「なんていうか、ごめんね」
 自分の視界が傾いた気がした。それは二発目の右ストレートだった。
 俺は憤りに震えた。何でだよ。何で謝るんだよ。待ってくれよ。俺は。
「じゃあ、私は先に行くね」
 ふっくらさんはコートを手に取り、店を出た。俺に何も言う隙を与えないまま。
 俺は、テーブルの二つのココアを見つめた。それらは同じもののはずなのに、向かいのココアは透明になっていく気がした。
 
 こうして、俺の高校生活は幕を閉じた。