6
『感染者』という言葉がまだ世間に浸透していない頃、それはまるでアニメや映画の中の世界のことだと思っていた。
国内でも症例はあるものの、ごく稀にしか起き得ないという認識を誰もが持っていた。
まだ小学生だった自分は、テレビで見た『感染者』のニュースはどこか他人事として捉えていた。多分、それは雪成にしても同じだったと思う。
だから『ニルウイルス』とか『狂騒者』とかそんな単語は、何かテレビで聞いたような気がする程度の知識しかなかった。
それは誰もが経験したことのない災禍が始まる前までの話だ。
六年前、それは突如として人々を襲った。静かに始まり、人々が認識する頃には世界は混乱の渦に飲まれてしまっていた。
あの日は特別な日ではなかった。誰もがそうであったよぅに、何てことのない一日として終わる筈だった。
5月中旬、春とも夏とも呼べない中途飯場な時期であった。夜になれば肌寒い日もあるが、日中であれば半袖でも過ごせる。
小学生である光留と雪成は下校中、今日は暑かったな、などと話ながら帰宅していた。
思えば既にこの時から異変は起きていた。
帰り道、やけにパトカーやサイレンの音が繰り返し聞こえていた。だが、小学生の二人にはそのことが大きな異変だなどと気付けるはずもなく、どこかで事故や家事があったのかもしれない、とう他人事としか捉えられなかった。
そして幸いなことに帰宅途中で感染者に遭遇しなかったのだ。
「ゆきの分も作って待ってるって言ってたからさ、来るだろ?」
「うん」
「光里が全部食べてなきゃいいけど」
「おばさんのドーナツ美味しいもんな」
「うん」
今日のおやつはドーナツにしようかしら。朝母が楽しそうに言えば、妹の光里は嬉しそうに早く帰ってくると言った。
父は自分の分も残しておいてくれと頼んでいた。
毎日手作りのおやつが出てくる訳ではない。今日はパートが休みの日で、何かを作りたい気分だから、そんな理由でおやつを作ってくれることが多かった。
皆笑っていた。
思えば、あれが家族揃って笑った最後の思い出になった。
雪成は二軒隣に住んでいる幼馴染だ。同じ頃家を買い、子供の歳が近かったこともあり直に近所付き合いを始めたそうだ。
雪成の両親は二人とも会社に勤めていたので平日は学童に行くことも多かったが、たまには光留の家で暗くなる頃まで過ごすことも多かった。
なので母もおやつを作る日は雪成の分まで作るのはいつものこと。そして、その翌々日くらいには雪成の家から果物やケーキなどが届くのもいつものことだった。
「ただいま」
チャイムを鳴らせば、いつもだったら母親が玄関の鍵を開けてくれるのだがこの日はいくら待ってもドアは開かなかった。
「買い物にで行っちゃったのかな?」
言いながらドアノブに手を掛けると、鍵はかかっていなかった。
「あれ?」
在宅中でも玄関の鍵は掛かっているのが常だ。だが、たまたま掛け忘れたのだろうと思い、光留はそのまま家の中に入った。
「ただいま」
「おじゃまします」
家の中に入っても返事はない。だが、微かに物音が聞こえた。やはり在宅しているのか。
「おかあーさーん、ゆきも来たよー」
音はキッチンの方からだ。玄関からすぐの廊下を真っすぐ進んだ突き当たり右側はキッチンだ。ドアの手前でランドセルを下ろす。
すりガラスの付いたドアの向こうには人影が見えた、母だろう、そう思いながら開けると思いもよらない光景が待っていた。
「おか………………」
言葉が途切れる。感情が全てシャットダウンした。
ただ目を見開き、その場から動けなくなってしまった。後から着いてきた雪成がどうしたのかと肩越しに覗き込む。
「?!」
「……おかあさん……」
二人の目の前には母のリカと妹の光里がいた。
光里は生気のない青白い顔で母の腕のなかにいた。そして、母は妹の細い腕を指の先から喰らいつき、その顔は血だらけになっていた。
二人が入ってきたことに気付いたリカが顔を上げる。
彼女の周りは血溜まりになっていた。光里を胸に抱いてはいるがそれが自分の娘だとは分かっていないだろう。
そして、目の前には息子がいることも、自分が何者なのかも。
「おか……」
「光留!!」
「!!」
雪成が大きな声を出したことで、光留はやっと目の前の状況を把握出来た。頭の中に『感染者』という言葉が思い浮かぶ。
リカも声に驚いたのかは分からないが、立ち上がりかけていた体勢を一瞬止めた。
「光留!」
光留の腕を取り、雪成は廊下を走り出した。引っ張られながら後を振り返ると、正気を失った顔で母親が声にならない咆哮を上げた。
「……!!」
「いそげ!」
混乱と恐怖の中で雪成が強く握る手の感触だけが頼りだった。
もつれる足を動かし雪成の後に続く。
背後で足音が聞こえ、見なくても母が追いかけてくるのが分かる。
雪成は玄関へ行かず、玄関横の階段を駆け上がった。腕を引かれる遠心力で体が倒れそうになったが、何とか持ちこたえ光留も階段を登る。
母は勢いのまま玄関で転んだが、直に体勢を直すと階段へと進み追いかけてきた。
「早く……!」
「うん……」
踊り場を曲がる時焦りから一段踏み外して転んでしまった。その拍子に雪成が握っていた手も解ける。
「!!」
痛みよりも動転してしまい、手足をバタつかせ四つん這いで階段を登ろうと藻掻く。
「光留!」
再び雪成が手を握ってくれたけれど、狭い階段で体を起こすのは困難だった。普段であれば何てことない動作が全然上手く出来ない。
「?!」
もたついている間に足先を掴まれた。見なくてもそれが何なのか分かり、体が硬直する。
雪成も異変に気付き、起き上がらせようと尚も腕を引っ張るが光留は恐怖で固まったまま逃げることが出来ずにいた。
「光留!!」
雪成の声に励まされ、掴まれている右足をバタつかせるがリカは両手を絡みつけていた。
間近で見る母はもう母の面影すらなかった。
真っ赤な唇の中には感染により急激に成長した牙のような歯が見え、土気色の顔の中の血走った目は獲物を捉えた獣のように鋭く光っている。
「……あ……」
くるぶし丈の紺色のズボンと靴下の間の素足に、痛いほど強く冷たい手の感触が襲いくる。ぎゅっと握られ、振り払うように足を上下に振るが母の腕は離れない。
「うわぁぁ……!やめ、やめて……!!」
リカと目が合う、眼球に映る恐怖した自分の顔がはっきりと見えた。それほど近い距離に母がいる。
それからはスローモーションのように、リカの動きが見えた。
大きく開けた口の中の牙、口から胸元にかけ濡れた赤い血、爪が食い込んだ足にリカが噛み付いた。
「……!!!」
「光留!」
焦ったような雪成の声と共に、足に痛みが走る。バタつかせていたので、牙は直に外れたがまだ足は掴まれたままだ。
「おばさん、ごめん!」
雪成が背負っていたランドセルを至近距離から投げつける。それは顔面に当たり、バランスを崩したリカは上体を後方に逸らした。
もがいていた足が丁度リカの鎖骨の辺りに当たり、そのまま階段から転げ落ちて行く。
「光留!今のうちに!!」
「う、うん……」
再び腕を引かれ二人は階段上の光留の部屋に逃げ込んだ。
ドアを閉め直に鍵を掛ける。
雪成は壁際の衣装ケースやカラーボックスをずるずると押し、ドアの前に置いた。バリケードの代わりだろう、そうやってドアが開くのを防いだ。
光留はただその様子を見て呆然と立ち尽くしていた。
頭の中には『感染者』に関する僅かな知識がぐるぐると駆け巡る。
「どうしよう……か、噛まれた……」
噛まれた者は数十分後に感染者になってしまう。正確な知識なのか、単なる噂なのか小学生の光留には分からない。
分からないからこそ怖かった。
「血が出てる……ベッドに座って」
「……ゆき……」
「だいじょうぶだから……ハンカチ……ここか?」
ドアの前に移動した衣装ケースの引き出しを探りゲームのキャラクターの描かれたハンカチを取り出す。
ベッドに座る光留の足首にはくっきりと歯型が刻まれ血が流れ伝い靴下を赤く染めていた。
「ゆき……」
「だいじょうぶだよ」
きっと言っている雪成も何が大丈夫かなんて分かっていなかったのだと思う。
雪成は歯型の上にタオルハンカチを当て、その上から包帯代わりにハンカチで縛った。
痛みはまだあったが、傷跡が見えなくなったことは光留に安心感を与えた。
それに繰り返される「だいじょうぶ」という言葉も、光留に取っては心強く感じていた。
「うん……」
光留が落ち着きを取り戻すと同時に部屋のドアを開けようとしているのか、ガチャガチャと廊下から音がする。
「……!!」
光留も雪成もドアを注視していたが、その音は直に止んだ。息を殺し様子を伺っていると、階段を降りていく音が聞こえた。
どうやら母は侵入を諦めたようだ。
後から分かったことだが、階下には妹の死体があったため母は襲ってこなかったらしい。それほどに妹の体に肉の部分は残っていなかったと聞いた。
「……行ったみたいだ……」
ほっとした様子で光留の隣に雪成も腰を下ろした。
はぁ、と長い息を吐き出すと雪成は背中からベッドへ転がった。
「……どうしたらいいんだろう……」
ぽそりと雪成が呟く。
光留も同じ気持ちだった。
父は夜にならないと帰ってこない。小学生の二人はスマートフォンなど外部と連絡を取れる手段を持っていなかった。
途法に暮れた気持ちを抱えていたが、雪成が跳ね起きた。
「そうだ、外にいる人に警察を呼んで貰えないかな?」
雪成はベランダに通じるガラス戸を開け、そのまま柵へしがみついた。
5月の17時前といえばまだ外は明るい。南向きの日当たりの良いベランダには洗濯物が干してあった。
身を乗り出すようにして家の前の道路を眺める。通行人は見当たらないが、交通量の少ない車道とは言え全く車の往来がない。
だが、周辺を見ている内に異変に気付く。
車は確かに走ってはいない、だが、車道にドアを開けたままの車が置き去りになっている。それは一台ではなかった。
帰ってきた時には分からなかったが、通りの先にも一台無人の自動車があった。
そして。
「……感染者だ……」
誰もいないと思っていた歩道には感染者がいた。車の影からふらふらと歩いてくるのは感染者だろう、頭から血を流し腕も骨折したように曲がった手首をふらつかせ歩いている。
運転中に発症したのかもしれない。
ベランダから見えるのはほんの一部だ。だが、向かいの家の庭先に、その隣の隣の家の玄関にも感染者はいた。
「……!」
雪成は慌てて部屋の中に戻ると、ガラス戸を閉め施錠しカーテンを閉めた。
「どうしたの?」
「……感染者がいる……」
「え……」
「何人もいる……これじゃあ外にいる人が襲われるよ……」
「そんな……」
「そっか、だからパトカーの音がしていたんだ……」
「じゃあ、そのうちこの辺にもパトカーが来るかな……?誰かが通報してないかな……」
「……そうだといいな」
力なく笑うと、雪成はまた光留の隣に座った。
ちらりと光留の足首に巻かれたハンカチを見ながら、心配そうな顔で聞いてくる。
「痛い……?」
「ううん、そんなには……」
「……テレビで噛まれたら直に感染するみたいに言ってた、だから光留はだいじょうぶ、きっと感染してないんだよ」
「……そうなのかな……」
「そうだよ」
「……うん……そうだ、ジュース、あるんだ、あとお菓子も」
「どこ?」
「机の一番下の引き出しの中」
「取ってくる」
嘘か本当かはそのときは分からなかった。まだあの頃は感染者のことは曖昧な情報ばかりが流れていた。だからテレビで見たというのも本当で、だけど情報が間違っていたとは分からなかった。
ただ、光留が感染してないということだけは事実だった。
「あ、チョコクッキー」
「うん、食べよっか」
「うん」
そんな場合ではないのかもしれない。二人の心の中にはまだ恐怖心も強く残っていた。だからこそいつも通りの行動がしたいと思ったのかもしれない。気を紛らわしたかった、というのが正しい。
引き出しの中にあったオレンジジュースのペットボトルとチョコクッキーの箱をベッドの上に置いて、二人は小さく笑った。
励ましあった、と言ってもいいかもしれない。
「おいしい……」
雪成が開けた箱の中から一枚クッキーを取り出して食べる。甘くてサクサクのチョコレート味のクッキー。
それは妹も好きだったお菓子だ。
そのことを思い出し、もう妹はいない。そして母もいないと思ったら目から涙が溢れてきた。
「う……っう……」
クッキーを食べながら突然泣き出した光留に戸惑いながら、雪成は光留の細い肩に手を掛けた。
「だいじょうぶだ」
「……うん」
「きっと、警察が助けてくれるよ……」
「うん……」
涙が止まらなかった。家族の思い出が溢れ出てくる。何気ない日常のことから家族旅行や誕生日などの特別な日のこと。
それらの幸せが何の前触れもなく全て壊されたのだ。暴力的で理不尽だ。
抗おうにも光留は小学生で無力だ。ただ泣くことしか出来ない無力な自分にも腹がたった。
「うぅ……ひっ……ぅ……」
光留が泣いている間、雪成はずっと背中を擦ってくれた。小さな温かい手が薄いTシャツ越しに伝わり、それがたまらなく生を実感させてくれた。自分は、雪成は生きているんだということが恐怖に打ち勝つ唯一の希望に思えた。
「だいじょ……なにか……あ、ヘリの音……?」
顔を見合わせると、雪成はまたベランダへと急いだ。
泣いたことを恥じるように、強くゴシゴシと目元を拭いびっこを引きながら雪成がいるベランダへと光留も出向く。
「……警察かな?自衛隊……?なんだろ……?」
上空を飛ぶヘリコプターだけで判別出来る程の知識はないが、思わず家の上に来た時に二人はヘリに向かい手を振った。
ただ、誰かに助けてほしい一心で。
「行っちゃったね……」
「うん……でも、見つけてくれたのかもしれないし……」
「そうだよね」
また部屋の中に戻る。静かになると遠くからパトカーや救急車のサイレン音が聞こえてくる。
確実に何かが起こっている、そしてその真っ只中にいるのだ。
「……雪成は怖くないの?」
光留の質問に驚いたように目を見開き、少し考えてから雪成は答えた。
「……こわいよ」
それまで合わせていた視線を外し、ぽそりと。
「……うん……こわいよね……」
二人して寄り添う。
雪成の正直な気持ちが聞けたからか、この時から光留の恐怖心は薄れた。別にそれは自分がしっかりしなくては、という気持ちではなく、同い年の雪成だって怖いのだから仕方ないというある種の諦めも入っていたのかもしれない。要は開き直ったのだ。
「……あ」
「ん?」
「パトカーの音……近付いてない……?」
「え?」
雪成が立ち上がり、ベランダへに急いで出た。ガラス戸が開けられるとその音は室内に大きく入ってきた。
「パトカーだ!!」
ベランダに出ていた雪成が室内に向かい叫ぶ。音は複数台分聞こえる。居ても立ってもいられず、光留もベランダに出た。
大通り方面からパトカーが住宅街の車道へ入ってきた。それも一台ではなく、数台続いているしバスのような車両もあった。最後に救急車も到着した。
車道に停まったパトカーから警官が出てくる。
家の前に停まったパトカーもあるので、光留と雪成は大声で叫んだ。
「助けてください!!」
パトカーに乗っていたのはスーツを着た警察官たちだった。その後方に停まったバスのような車両からは盾をもった特殊部隊のような警官たちがバラバラと降り、各方向に散らばって行った。
光留の家の前のパトカーから降りたのは四十代くらいの男性四人だ。
「危ないからベランダに出ないで!家には他に誰かいるのか?!」
門の前で一人が尋ねる。
隣に立つ男が無線で何かを話しているのが見えた。
「母が……あ……」
「一階に感染者がいます!!」
口籠る光留の隣で、被せるように雪成は大声を出した。
それを聞いた男たちは顔を見合わせ、また無線で連絡をした。
「君たちは室内に!そこは安全か?」
「はい!」
「では我々が行くまで部屋は開けないように!」
「はい!」
ベランダから室内に戻り施錠すると、安堵感が全身を巡り二人は床にへたり込んだ。
「よかった……これで助かった……」
「うん……」
ほっとして、深呼吸をして思い出す。
「でも、お母さんは……」
「……もう、あれはお前のお母さんじゃない……」
「……うん……」
「怪我もすぐ診てもらえる、ほんとによかった」
「うん……」
暫くして階下で物音がした。
帰ってきた時にドアは施錠したので、警察は何らかの方法でドアを開けたのだろう。
騒がしい足音のような音の後に聞こえてきたのは銃声だった。
「……!!」
それは一発では止まらず何発も続いた。
その音が止むまで光留はしゃがみ込み耳を塞いだ。雪成は側で幼馴染を見守っていた。
「……音が止んだ……」
雪成の呟きに光留が顔を上げる。
すると直に階段を登ってくる音がした。
トントン、ドアがノックされる。
「警察です、もう安全ですよ、出てこられますか?」
先程の男性警官かと思ったが違うようだ。迎えに来たのは婦警だった。
「ちょっと待ってください、今開けます」
雪成は立ち上がると、ドア前に置いたバリケード代わりの退かしていく。それを眺めながら、光留も立ち上がった。
ドアを開けると母親と同じくらいの歳の制服を着た婦人警官が立っていた。
「大丈夫?よくがんばったね」
優しい笑顔で二人を迎えてくれた。
そしてその後には最初に見たスーツ姿の警官が二人立っている。
「あの、光留が怪我してて……」
「怪我?」
三人の視線が光留に集まる。居心地が悪そうに、光留は三人の顔を順番に見ながら口を開いた。
「……噛まれて……」
「?!」
場の空気が変わったのが二人にも分かった。だが、それは直にまた優しい声に消える。
「それは……何時頃のこと?」
「何時……だろ……」
「噛まれてからどれくらい時間が経っているか分かるか?」
男が割り込んでくる。真剣な声に光留は気後れしながらも学習机の上にある時計に目をやる。
「一時間は経ってると思います……」
「一時間……」
「……それじゃあ、念のため病院で診てもらいましょう、ちゃんとした場所で消毒しないといけないからね」
婦警の手が優しく肩に触れ、部屋から出るように促す。
付き添われながら階段を降りていく。婦警、光留、雪成、その後に二人の警官たちの順だ。玄関が見えると、そこには他の警官たちがいた。廊下に落ちる血痕を見て、光留は走り出した。
「あ……!」
後で静止の声が聞こえたが、そのままキッチンへ入る。
「……あぁ……」
床には母だったものが横たわっていた。
顔半分は吹き飛ばされ、腕や脇腹にも大きな穴が空いていた。
慌てて廊下へ連れ出された時に見えたのは床に転がる小さな黒髪。それはきっと妹の頭部だ。
「光留」
「……」
「だいじょうぶ……?」
「うん……」
「さぁ、こっちへ……救急車に乗ってもらうわね、話も中で聞きます」
「……はい……」
玄関から外へ出ると青いビニールシートがコンクリートの門のところなどに掛けられ中が見えないようになっていた。
「君はこっちへ、君にも話を聞きたい」
振り返ると先程の警官が雪成に話しかけている。
「……ゆき……」
一人で救急車に乗り込むのは心細いので、出来たら一緒に来てほしい。
雪成も光留が言いたいことが分かったのだろう、隣に立つ警官に何かを言っているが首を振った所を見ると拒否されたようだ。それから二、三言話を続けて雪成が光留のところへ小走りにやってきた。
「オレは着いて行けないんだって、だけどあとで病院を教えてくれるって言われた、ちゃんと治療してもらわないといけないって……」
「……」
「一人で行ける……?」
「うん……」
母と妹を亡くし分からないまま病院に連れて行かれるのかと思うと、不安だ。だけど、雪成の言うとおりちゃんと治療を受けた方がいいのは光留も分かる。
何故噛まれたのに感染者にならずに済んだのか。そもそも噛まれた全員が感染者になるのか、ならない人間もいるのか。
分からないことばかりだ。
だから、それを知るためにも。
「だいじょうぶ」
笑顔を作ろうとして失敗してしまった。雪成はそれも分かったのだろう。力強く頷くと、手を握ってくれた。
「きっとだいじょうぶだから」
「うん」
温もりが離れると、婦警が肩を軽く叩きこちらよ、と案内してくれた。
雪成はそのまま警官たちと何か話している。
車道に停まった救急車まで行く間で左右に首を巡らせ周辺を観察する。
周りの家にも感染者が出たのか、警察が出入りしている家もある。
そういえば歩道にいた感染者たちはどうなったのだろう。道にいるのは警察官ばかりなので、きっと感染者は駆除されたに違いない。それだけは安心出来ると思えた。
「まずは怪我の手当からね、病院でちゃんと先生に見てもらいますけど応急処置をさせてちょうだい」
「はい」
「私は宮崎、君は?」
「……佐々木光留です」
救急車は既に後方のドアが開いていた。
初めて乗る救急車に緊張しながら、光留は婦警の後に続いた。
「ここは彼の家?」
「そうです」
「オレは最上、こっちは潮崎、君は?」
「……川倉……川倉雪成です」
「小学生?」
「はい、六年です」
「そう……災難だったな」
「……」
災難という言葉を掛けられたのは雪成の人生で初めてだった。だが、そう言うなら自分よりも光留の方だ。
「あの……光留は……」
「心配しなくてもいい、彼は感染しない、病院で手当をして少し検査をするくらいだ……体よりも精神的ショックの方が大きいだろうな……」
「……」
あんなことがあったのだ、当然だ。自分であったらどうだろう、光留のように振る舞えただろうか。
「君が支えてあげなさい」
無意識に俯いていた顔を上げ、最上を見る。気遣うような瞳は、彼にも子供がいるのかもしれないと思わせるような優しさであった。
「はい」
「それと……」
一旦区切り、表情を一転させ警察官の顔で質問をしてきた。
「君は彼が噛まれて……感染すると思わなかったのか?」
感染者の正確な情報は少なくても、噛まれれば感染するというのは誰もが知る共通事項である。
雪成は質問の意図が読めず首を傾げた。
「……彼が感染者になったらどうするつもりだったんだ?」
「そこまでは……考えていませんでした、でも……光留はだいじょうぶだと……何か思えて……とにかくあの時は夢中だったから、おばさんから逃げないと……光留を守らないとって」
「そうか」
最上は何度も頷く。そうか、と再度呟き、真っすぐに雪成を見下ろした。
「君は素質があるかもしれない」
「?」
「彼は……あの子はこれから大変な思いをすることになる……君はあの子を守りたいと言った」
「……はい」
「まだ分からないかも知れないが、このウイルスはまだまだ分からないことだらけだ、だから一人でも多くの人間が立ち向かっていかなければならない、ならなくなる時がくる……そしていずれあの子は守られるべき存在になる、その時は君が守るんだ」
「……」
「……すまんな、おっさんのたわごとだ」
「あの……」
「ん?」
「……もし、光留に何かあった時にオレはあいつをどうやって守ったらいいんですか?」
「君がそれを知りたいというなら我々は君を全力で教えられる、そうだな、あと三年経ったら……」
「三年以内に感染者に襲われないって言えないですよね……?」
「……それはそうだ……じゃあ……」
最上は苦笑しながらスーツの内ポケットから名刺入れを取り出した。
「この感染で今日本中がパニックだ、落ち着くまでは時間がかかる、きっと君の生活にも影響が出るだろう、だからそれらが落ち着いたら連絡をくれ、彼を守りたいという気持ちが消えなかったらな」
「……はい」
「では君も送ってい行こう、親御さんに今回のことの説明をしなければ」
最上が言ったようにこの日を境に日本だけでなく世界中で、ニルウイルスについての報道が盛んに行われるようになった。
世界中で発生したこのウイルス感染は第一次パンデミックと呼ばれることになる。
『感染者』という言葉がまだ世間に浸透していない頃、それはまるでアニメや映画の中の世界のことだと思っていた。
国内でも症例はあるものの、ごく稀にしか起き得ないという認識を誰もが持っていた。
まだ小学生だった自分は、テレビで見た『感染者』のニュースはどこか他人事として捉えていた。多分、それは雪成にしても同じだったと思う。
だから『ニルウイルス』とか『狂騒者』とかそんな単語は、何かテレビで聞いたような気がする程度の知識しかなかった。
それは誰もが経験したことのない災禍が始まる前までの話だ。
六年前、それは突如として人々を襲った。静かに始まり、人々が認識する頃には世界は混乱の渦に飲まれてしまっていた。
あの日は特別な日ではなかった。誰もがそうであったよぅに、何てことのない一日として終わる筈だった。
5月中旬、春とも夏とも呼べない中途飯場な時期であった。夜になれば肌寒い日もあるが、日中であれば半袖でも過ごせる。
小学生である光留と雪成は下校中、今日は暑かったな、などと話ながら帰宅していた。
思えば既にこの時から異変は起きていた。
帰り道、やけにパトカーやサイレンの音が繰り返し聞こえていた。だが、小学生の二人にはそのことが大きな異変だなどと気付けるはずもなく、どこかで事故や家事があったのかもしれない、とう他人事としか捉えられなかった。
そして幸いなことに帰宅途中で感染者に遭遇しなかったのだ。
「ゆきの分も作って待ってるって言ってたからさ、来るだろ?」
「うん」
「光里が全部食べてなきゃいいけど」
「おばさんのドーナツ美味しいもんな」
「うん」
今日のおやつはドーナツにしようかしら。朝母が楽しそうに言えば、妹の光里は嬉しそうに早く帰ってくると言った。
父は自分の分も残しておいてくれと頼んでいた。
毎日手作りのおやつが出てくる訳ではない。今日はパートが休みの日で、何かを作りたい気分だから、そんな理由でおやつを作ってくれることが多かった。
皆笑っていた。
思えば、あれが家族揃って笑った最後の思い出になった。
雪成は二軒隣に住んでいる幼馴染だ。同じ頃家を買い、子供の歳が近かったこともあり直に近所付き合いを始めたそうだ。
雪成の両親は二人とも会社に勤めていたので平日は学童に行くことも多かったが、たまには光留の家で暗くなる頃まで過ごすことも多かった。
なので母もおやつを作る日は雪成の分まで作るのはいつものこと。そして、その翌々日くらいには雪成の家から果物やケーキなどが届くのもいつものことだった。
「ただいま」
チャイムを鳴らせば、いつもだったら母親が玄関の鍵を開けてくれるのだがこの日はいくら待ってもドアは開かなかった。
「買い物にで行っちゃったのかな?」
言いながらドアノブに手を掛けると、鍵はかかっていなかった。
「あれ?」
在宅中でも玄関の鍵は掛かっているのが常だ。だが、たまたま掛け忘れたのだろうと思い、光留はそのまま家の中に入った。
「ただいま」
「おじゃまします」
家の中に入っても返事はない。だが、微かに物音が聞こえた。やはり在宅しているのか。
「おかあーさーん、ゆきも来たよー」
音はキッチンの方からだ。玄関からすぐの廊下を真っすぐ進んだ突き当たり右側はキッチンだ。ドアの手前でランドセルを下ろす。
すりガラスの付いたドアの向こうには人影が見えた、母だろう、そう思いながら開けると思いもよらない光景が待っていた。
「おか………………」
言葉が途切れる。感情が全てシャットダウンした。
ただ目を見開き、その場から動けなくなってしまった。後から着いてきた雪成がどうしたのかと肩越しに覗き込む。
「?!」
「……おかあさん……」
二人の目の前には母のリカと妹の光里がいた。
光里は生気のない青白い顔で母の腕のなかにいた。そして、母は妹の細い腕を指の先から喰らいつき、その顔は血だらけになっていた。
二人が入ってきたことに気付いたリカが顔を上げる。
彼女の周りは血溜まりになっていた。光里を胸に抱いてはいるがそれが自分の娘だとは分かっていないだろう。
そして、目の前には息子がいることも、自分が何者なのかも。
「おか……」
「光留!!」
「!!」
雪成が大きな声を出したことで、光留はやっと目の前の状況を把握出来た。頭の中に『感染者』という言葉が思い浮かぶ。
リカも声に驚いたのかは分からないが、立ち上がりかけていた体勢を一瞬止めた。
「光留!」
光留の腕を取り、雪成は廊下を走り出した。引っ張られながら後を振り返ると、正気を失った顔で母親が声にならない咆哮を上げた。
「……!!」
「いそげ!」
混乱と恐怖の中で雪成が強く握る手の感触だけが頼りだった。
もつれる足を動かし雪成の後に続く。
背後で足音が聞こえ、見なくても母が追いかけてくるのが分かる。
雪成は玄関へ行かず、玄関横の階段を駆け上がった。腕を引かれる遠心力で体が倒れそうになったが、何とか持ちこたえ光留も階段を登る。
母は勢いのまま玄関で転んだが、直に体勢を直すと階段へと進み追いかけてきた。
「早く……!」
「うん……」
踊り場を曲がる時焦りから一段踏み外して転んでしまった。その拍子に雪成が握っていた手も解ける。
「!!」
痛みよりも動転してしまい、手足をバタつかせ四つん這いで階段を登ろうと藻掻く。
「光留!」
再び雪成が手を握ってくれたけれど、狭い階段で体を起こすのは困難だった。普段であれば何てことない動作が全然上手く出来ない。
「?!」
もたついている間に足先を掴まれた。見なくてもそれが何なのか分かり、体が硬直する。
雪成も異変に気付き、起き上がらせようと尚も腕を引っ張るが光留は恐怖で固まったまま逃げることが出来ずにいた。
「光留!!」
雪成の声に励まされ、掴まれている右足をバタつかせるがリカは両手を絡みつけていた。
間近で見る母はもう母の面影すらなかった。
真っ赤な唇の中には感染により急激に成長した牙のような歯が見え、土気色の顔の中の血走った目は獲物を捉えた獣のように鋭く光っている。
「……あ……」
くるぶし丈の紺色のズボンと靴下の間の素足に、痛いほど強く冷たい手の感触が襲いくる。ぎゅっと握られ、振り払うように足を上下に振るが母の腕は離れない。
「うわぁぁ……!やめ、やめて……!!」
リカと目が合う、眼球に映る恐怖した自分の顔がはっきりと見えた。それほど近い距離に母がいる。
それからはスローモーションのように、リカの動きが見えた。
大きく開けた口の中の牙、口から胸元にかけ濡れた赤い血、爪が食い込んだ足にリカが噛み付いた。
「……!!!」
「光留!」
焦ったような雪成の声と共に、足に痛みが走る。バタつかせていたので、牙は直に外れたがまだ足は掴まれたままだ。
「おばさん、ごめん!」
雪成が背負っていたランドセルを至近距離から投げつける。それは顔面に当たり、バランスを崩したリカは上体を後方に逸らした。
もがいていた足が丁度リカの鎖骨の辺りに当たり、そのまま階段から転げ落ちて行く。
「光留!今のうちに!!」
「う、うん……」
再び腕を引かれ二人は階段上の光留の部屋に逃げ込んだ。
ドアを閉め直に鍵を掛ける。
雪成は壁際の衣装ケースやカラーボックスをずるずると押し、ドアの前に置いた。バリケードの代わりだろう、そうやってドアが開くのを防いだ。
光留はただその様子を見て呆然と立ち尽くしていた。
頭の中には『感染者』に関する僅かな知識がぐるぐると駆け巡る。
「どうしよう……か、噛まれた……」
噛まれた者は数十分後に感染者になってしまう。正確な知識なのか、単なる噂なのか小学生の光留には分からない。
分からないからこそ怖かった。
「血が出てる……ベッドに座って」
「……ゆき……」
「だいじょうぶだから……ハンカチ……ここか?」
ドアの前に移動した衣装ケースの引き出しを探りゲームのキャラクターの描かれたハンカチを取り出す。
ベッドに座る光留の足首にはくっきりと歯型が刻まれ血が流れ伝い靴下を赤く染めていた。
「ゆき……」
「だいじょうぶだよ」
きっと言っている雪成も何が大丈夫かなんて分かっていなかったのだと思う。
雪成は歯型の上にタオルハンカチを当て、その上から包帯代わりにハンカチで縛った。
痛みはまだあったが、傷跡が見えなくなったことは光留に安心感を与えた。
それに繰り返される「だいじょうぶ」という言葉も、光留に取っては心強く感じていた。
「うん……」
光留が落ち着きを取り戻すと同時に部屋のドアを開けようとしているのか、ガチャガチャと廊下から音がする。
「……!!」
光留も雪成もドアを注視していたが、その音は直に止んだ。息を殺し様子を伺っていると、階段を降りていく音が聞こえた。
どうやら母は侵入を諦めたようだ。
後から分かったことだが、階下には妹の死体があったため母は襲ってこなかったらしい。それほどに妹の体に肉の部分は残っていなかったと聞いた。
「……行ったみたいだ……」
ほっとした様子で光留の隣に雪成も腰を下ろした。
はぁ、と長い息を吐き出すと雪成は背中からベッドへ転がった。
「……どうしたらいいんだろう……」
ぽそりと雪成が呟く。
光留も同じ気持ちだった。
父は夜にならないと帰ってこない。小学生の二人はスマートフォンなど外部と連絡を取れる手段を持っていなかった。
途法に暮れた気持ちを抱えていたが、雪成が跳ね起きた。
「そうだ、外にいる人に警察を呼んで貰えないかな?」
雪成はベランダに通じるガラス戸を開け、そのまま柵へしがみついた。
5月の17時前といえばまだ外は明るい。南向きの日当たりの良いベランダには洗濯物が干してあった。
身を乗り出すようにして家の前の道路を眺める。通行人は見当たらないが、交通量の少ない車道とは言え全く車の往来がない。
だが、周辺を見ている内に異変に気付く。
車は確かに走ってはいない、だが、車道にドアを開けたままの車が置き去りになっている。それは一台ではなかった。
帰ってきた時には分からなかったが、通りの先にも一台無人の自動車があった。
そして。
「……感染者だ……」
誰もいないと思っていた歩道には感染者がいた。車の影からふらふらと歩いてくるのは感染者だろう、頭から血を流し腕も骨折したように曲がった手首をふらつかせ歩いている。
運転中に発症したのかもしれない。
ベランダから見えるのはほんの一部だ。だが、向かいの家の庭先に、その隣の隣の家の玄関にも感染者はいた。
「……!」
雪成は慌てて部屋の中に戻ると、ガラス戸を閉め施錠しカーテンを閉めた。
「どうしたの?」
「……感染者がいる……」
「え……」
「何人もいる……これじゃあ外にいる人が襲われるよ……」
「そんな……」
「そっか、だからパトカーの音がしていたんだ……」
「じゃあ、そのうちこの辺にもパトカーが来るかな……?誰かが通報してないかな……」
「……そうだといいな」
力なく笑うと、雪成はまた光留の隣に座った。
ちらりと光留の足首に巻かれたハンカチを見ながら、心配そうな顔で聞いてくる。
「痛い……?」
「ううん、そんなには……」
「……テレビで噛まれたら直に感染するみたいに言ってた、だから光留はだいじょうぶ、きっと感染してないんだよ」
「……そうなのかな……」
「そうだよ」
「……うん……そうだ、ジュース、あるんだ、あとお菓子も」
「どこ?」
「机の一番下の引き出しの中」
「取ってくる」
嘘か本当かはそのときは分からなかった。まだあの頃は感染者のことは曖昧な情報ばかりが流れていた。だからテレビで見たというのも本当で、だけど情報が間違っていたとは分からなかった。
ただ、光留が感染してないということだけは事実だった。
「あ、チョコクッキー」
「うん、食べよっか」
「うん」
そんな場合ではないのかもしれない。二人の心の中にはまだ恐怖心も強く残っていた。だからこそいつも通りの行動がしたいと思ったのかもしれない。気を紛らわしたかった、というのが正しい。
引き出しの中にあったオレンジジュースのペットボトルとチョコクッキーの箱をベッドの上に置いて、二人は小さく笑った。
励ましあった、と言ってもいいかもしれない。
「おいしい……」
雪成が開けた箱の中から一枚クッキーを取り出して食べる。甘くてサクサクのチョコレート味のクッキー。
それは妹も好きだったお菓子だ。
そのことを思い出し、もう妹はいない。そして母もいないと思ったら目から涙が溢れてきた。
「う……っう……」
クッキーを食べながら突然泣き出した光留に戸惑いながら、雪成は光留の細い肩に手を掛けた。
「だいじょうぶだ」
「……うん」
「きっと、警察が助けてくれるよ……」
「うん……」
涙が止まらなかった。家族の思い出が溢れ出てくる。何気ない日常のことから家族旅行や誕生日などの特別な日のこと。
それらの幸せが何の前触れもなく全て壊されたのだ。暴力的で理不尽だ。
抗おうにも光留は小学生で無力だ。ただ泣くことしか出来ない無力な自分にも腹がたった。
「うぅ……ひっ……ぅ……」
光留が泣いている間、雪成はずっと背中を擦ってくれた。小さな温かい手が薄いTシャツ越しに伝わり、それがたまらなく生を実感させてくれた。自分は、雪成は生きているんだということが恐怖に打ち勝つ唯一の希望に思えた。
「だいじょ……なにか……あ、ヘリの音……?」
顔を見合わせると、雪成はまたベランダへと急いだ。
泣いたことを恥じるように、強くゴシゴシと目元を拭いびっこを引きながら雪成がいるベランダへと光留も出向く。
「……警察かな?自衛隊……?なんだろ……?」
上空を飛ぶヘリコプターだけで判別出来る程の知識はないが、思わず家の上に来た時に二人はヘリに向かい手を振った。
ただ、誰かに助けてほしい一心で。
「行っちゃったね……」
「うん……でも、見つけてくれたのかもしれないし……」
「そうだよね」
また部屋の中に戻る。静かになると遠くからパトカーや救急車のサイレン音が聞こえてくる。
確実に何かが起こっている、そしてその真っ只中にいるのだ。
「……雪成は怖くないの?」
光留の質問に驚いたように目を見開き、少し考えてから雪成は答えた。
「……こわいよ」
それまで合わせていた視線を外し、ぽそりと。
「……うん……こわいよね……」
二人して寄り添う。
雪成の正直な気持ちが聞けたからか、この時から光留の恐怖心は薄れた。別にそれは自分がしっかりしなくては、という気持ちではなく、同い年の雪成だって怖いのだから仕方ないというある種の諦めも入っていたのかもしれない。要は開き直ったのだ。
「……あ」
「ん?」
「パトカーの音……近付いてない……?」
「え?」
雪成が立ち上がり、ベランダへに急いで出た。ガラス戸が開けられるとその音は室内に大きく入ってきた。
「パトカーだ!!」
ベランダに出ていた雪成が室内に向かい叫ぶ。音は複数台分聞こえる。居ても立ってもいられず、光留もベランダに出た。
大通り方面からパトカーが住宅街の車道へ入ってきた。それも一台ではなく、数台続いているしバスのような車両もあった。最後に救急車も到着した。
車道に停まったパトカーから警官が出てくる。
家の前に停まったパトカーもあるので、光留と雪成は大声で叫んだ。
「助けてください!!」
パトカーに乗っていたのはスーツを着た警察官たちだった。その後方に停まったバスのような車両からは盾をもった特殊部隊のような警官たちがバラバラと降り、各方向に散らばって行った。
光留の家の前のパトカーから降りたのは四十代くらいの男性四人だ。
「危ないからベランダに出ないで!家には他に誰かいるのか?!」
門の前で一人が尋ねる。
隣に立つ男が無線で何かを話しているのが見えた。
「母が……あ……」
「一階に感染者がいます!!」
口籠る光留の隣で、被せるように雪成は大声を出した。
それを聞いた男たちは顔を見合わせ、また無線で連絡をした。
「君たちは室内に!そこは安全か?」
「はい!」
「では我々が行くまで部屋は開けないように!」
「はい!」
ベランダから室内に戻り施錠すると、安堵感が全身を巡り二人は床にへたり込んだ。
「よかった……これで助かった……」
「うん……」
ほっとして、深呼吸をして思い出す。
「でも、お母さんは……」
「……もう、あれはお前のお母さんじゃない……」
「……うん……」
「怪我もすぐ診てもらえる、ほんとによかった」
「うん……」
暫くして階下で物音がした。
帰ってきた時にドアは施錠したので、警察は何らかの方法でドアを開けたのだろう。
騒がしい足音のような音の後に聞こえてきたのは銃声だった。
「……!!」
それは一発では止まらず何発も続いた。
その音が止むまで光留はしゃがみ込み耳を塞いだ。雪成は側で幼馴染を見守っていた。
「……音が止んだ……」
雪成の呟きに光留が顔を上げる。
すると直に階段を登ってくる音がした。
トントン、ドアがノックされる。
「警察です、もう安全ですよ、出てこられますか?」
先程の男性警官かと思ったが違うようだ。迎えに来たのは婦警だった。
「ちょっと待ってください、今開けます」
雪成は立ち上がると、ドア前に置いたバリケード代わりの退かしていく。それを眺めながら、光留も立ち上がった。
ドアを開けると母親と同じくらいの歳の制服を着た婦人警官が立っていた。
「大丈夫?よくがんばったね」
優しい笑顔で二人を迎えてくれた。
そしてその後には最初に見たスーツ姿の警官が二人立っている。
「あの、光留が怪我してて……」
「怪我?」
三人の視線が光留に集まる。居心地が悪そうに、光留は三人の顔を順番に見ながら口を開いた。
「……噛まれて……」
「?!」
場の空気が変わったのが二人にも分かった。だが、それは直にまた優しい声に消える。
「それは……何時頃のこと?」
「何時……だろ……」
「噛まれてからどれくらい時間が経っているか分かるか?」
男が割り込んでくる。真剣な声に光留は気後れしながらも学習机の上にある時計に目をやる。
「一時間は経ってると思います……」
「一時間……」
「……それじゃあ、念のため病院で診てもらいましょう、ちゃんとした場所で消毒しないといけないからね」
婦警の手が優しく肩に触れ、部屋から出るように促す。
付き添われながら階段を降りていく。婦警、光留、雪成、その後に二人の警官たちの順だ。玄関が見えると、そこには他の警官たちがいた。廊下に落ちる血痕を見て、光留は走り出した。
「あ……!」
後で静止の声が聞こえたが、そのままキッチンへ入る。
「……あぁ……」
床には母だったものが横たわっていた。
顔半分は吹き飛ばされ、腕や脇腹にも大きな穴が空いていた。
慌てて廊下へ連れ出された時に見えたのは床に転がる小さな黒髪。それはきっと妹の頭部だ。
「光留」
「……」
「だいじょうぶ……?」
「うん……」
「さぁ、こっちへ……救急車に乗ってもらうわね、話も中で聞きます」
「……はい……」
玄関から外へ出ると青いビニールシートがコンクリートの門のところなどに掛けられ中が見えないようになっていた。
「君はこっちへ、君にも話を聞きたい」
振り返ると先程の警官が雪成に話しかけている。
「……ゆき……」
一人で救急車に乗り込むのは心細いので、出来たら一緒に来てほしい。
雪成も光留が言いたいことが分かったのだろう、隣に立つ警官に何かを言っているが首を振った所を見ると拒否されたようだ。それから二、三言話を続けて雪成が光留のところへ小走りにやってきた。
「オレは着いて行けないんだって、だけどあとで病院を教えてくれるって言われた、ちゃんと治療してもらわないといけないって……」
「……」
「一人で行ける……?」
「うん……」
母と妹を亡くし分からないまま病院に連れて行かれるのかと思うと、不安だ。だけど、雪成の言うとおりちゃんと治療を受けた方がいいのは光留も分かる。
何故噛まれたのに感染者にならずに済んだのか。そもそも噛まれた全員が感染者になるのか、ならない人間もいるのか。
分からないことばかりだ。
だから、それを知るためにも。
「だいじょうぶ」
笑顔を作ろうとして失敗してしまった。雪成はそれも分かったのだろう。力強く頷くと、手を握ってくれた。
「きっとだいじょうぶだから」
「うん」
温もりが離れると、婦警が肩を軽く叩きこちらよ、と案内してくれた。
雪成はそのまま警官たちと何か話している。
車道に停まった救急車まで行く間で左右に首を巡らせ周辺を観察する。
周りの家にも感染者が出たのか、警察が出入りしている家もある。
そういえば歩道にいた感染者たちはどうなったのだろう。道にいるのは警察官ばかりなので、きっと感染者は駆除されたに違いない。それだけは安心出来ると思えた。
「まずは怪我の手当からね、病院でちゃんと先生に見てもらいますけど応急処置をさせてちょうだい」
「はい」
「私は宮崎、君は?」
「……佐々木光留です」
救急車は既に後方のドアが開いていた。
初めて乗る救急車に緊張しながら、光留は婦警の後に続いた。
「ここは彼の家?」
「そうです」
「オレは最上、こっちは潮崎、君は?」
「……川倉……川倉雪成です」
「小学生?」
「はい、六年です」
「そう……災難だったな」
「……」
災難という言葉を掛けられたのは雪成の人生で初めてだった。だが、そう言うなら自分よりも光留の方だ。
「あの……光留は……」
「心配しなくてもいい、彼は感染しない、病院で手当をして少し検査をするくらいだ……体よりも精神的ショックの方が大きいだろうな……」
「……」
あんなことがあったのだ、当然だ。自分であったらどうだろう、光留のように振る舞えただろうか。
「君が支えてあげなさい」
無意識に俯いていた顔を上げ、最上を見る。気遣うような瞳は、彼にも子供がいるのかもしれないと思わせるような優しさであった。
「はい」
「それと……」
一旦区切り、表情を一転させ警察官の顔で質問をしてきた。
「君は彼が噛まれて……感染すると思わなかったのか?」
感染者の正確な情報は少なくても、噛まれれば感染するというのは誰もが知る共通事項である。
雪成は質問の意図が読めず首を傾げた。
「……彼が感染者になったらどうするつもりだったんだ?」
「そこまでは……考えていませんでした、でも……光留はだいじょうぶだと……何か思えて……とにかくあの時は夢中だったから、おばさんから逃げないと……光留を守らないとって」
「そうか」
最上は何度も頷く。そうか、と再度呟き、真っすぐに雪成を見下ろした。
「君は素質があるかもしれない」
「?」
「彼は……あの子はこれから大変な思いをすることになる……君はあの子を守りたいと言った」
「……はい」
「まだ分からないかも知れないが、このウイルスはまだまだ分からないことだらけだ、だから一人でも多くの人間が立ち向かっていかなければならない、ならなくなる時がくる……そしていずれあの子は守られるべき存在になる、その時は君が守るんだ」
「……」
「……すまんな、おっさんのたわごとだ」
「あの……」
「ん?」
「……もし、光留に何かあった時にオレはあいつをどうやって守ったらいいんですか?」
「君がそれを知りたいというなら我々は君を全力で教えられる、そうだな、あと三年経ったら……」
「三年以内に感染者に襲われないって言えないですよね……?」
「……それはそうだ……じゃあ……」
最上は苦笑しながらスーツの内ポケットから名刺入れを取り出した。
「この感染で今日本中がパニックだ、落ち着くまでは時間がかかる、きっと君の生活にも影響が出るだろう、だからそれらが落ち着いたら連絡をくれ、彼を守りたいという気持ちが消えなかったらな」
「……はい」
「では君も送ってい行こう、親御さんに今回のことの説明をしなければ」
最上が言ったようにこの日を境に日本だけでなく世界中で、ニルウイルスについての報道が盛んに行われるようになった。
世界中で発生したこのウイルス感染は第一次パンデミックと呼ばれることになる。
