夕陽の向こう側

1

 窓から差し込む夏の名残を残したような陽を浴びながらの授業は、集中力が途切れがちになる。
 黒板を見ながら光留(みつる)はあくびを噛み殺した。
 板書された文字をノートに一行遅れで書き写す。暑い。二学期が始まり一ヶ月、まだ残暑は続いている。

 体の左半分に熱を感じながら、窓の外を見る。いつもの校庭に違和感があった。
 『感染者』だ。何故いるんだろう?と思うと同時に前方の席から声が上がった。

「先生、感染者が校庭に……!」

 クラス中の視線が窓の外に集まる、中には立ち上がったり逆に身を縮めるように怯える者もいた。
 グラウンドの土色に似た顔色、ぎこちない動き、所々に血痕が見られるシャツに濃紺のズボン、革靴は片方だけ。片方は素足だ。明らかにおかしな様子はどう見ても『感染者』もしくは『狂騒者』だ。

「みんな、落ち着いて……」
『校内に感染者が現れました、慌てず体育館に避難してください、繰り返します……』

 担任である笹山の注意に被るように校内放送が入る。途端にクラスの中が騒がしくなる。
 光留は校庭の感染者を見てから、クラスの中を見渡した。一番奥の席で視線が止まる。

「……」

 視線の先には幼馴染の川倉 雪成(かわくら ゆきなり)がいた。同い年なのに、幼馴染は独特の落ち着きを見せ、時折ひどく大人びて見える。童顔で丸顔の自分は時折中学生に見られると言うのに、幼馴染は逆に大学生に間違えられることが多かった。
 顔が老けている、という訳ではない。一重の瞳はいつも何を考えていいるのか分からないと言われ、滅多に笑顔を見せないからだろうか。
 だが、小さい頃からの付き合いのある光留はその動かない表情からでも、大体の感情が読めた。
 雪成は視線を合わせると軽く頷いた。
 光留はそれだけで、少しだけ心の中のざわめきが消えるのを感じた。

『……体育館へ避難してください、鍵の解除を許可、鍵の解除を許可します、速やかに行動に移してください』

「聞いたな、体育館へ移動だ、委員長、誘導を頼む」
「はい」
「先生〜、鍵の解除って?」
「それはあとだ、とにかく今は移動な!みんな荷物は置いて体育館へ移動だ!」
「はーい」

 狭山がドアの前に立ち誘導を促す。廊下には既に他のクラスの生徒も移動を始めている。まるで授業の為の教室移動のような雰囲気だ。
 だが、中には光留のようにざわざわする胸の内を抱える者も少なくない。
 感染者に親族を殺された者や、もしくは親族から感染者を出した者、感染者との関わりが強い者たち。その差が緊張感の差を生み出してしていた。
 その時、どこからか銃声が聞こえた。あまり遠くない場所から聞こえたのと、今の状況からクラス内ではすぐに何が起きたのかが連想された。
 窓際に近かった者が声を上げる。

「感染者が倒れてる!」
「え?じゃあもう避難しなくてもいいんじゃね?」

 どこから狙撃されたのかは分からないが、さっきまでふらふら歩いていた感染者が倒れている、ピクリとも動かない所を見ると完全に斃されたようだ。

「避難解除はされてない、とにかく体育館へ行くぞ」

 笹山の声に不服そうな声が上がったが、生徒たちは教室の外へ出る列に並び出す。

「川倉」

 担当の声に幼馴染が返事をする。雪成はドアに近付くと狭山から何かを受け取っていた。
 そして、真っ直ぐに光留の元へやってきた。

「光留」

 光留は廊下へ出る列の後方へ並んでいた。不安そうな顔をしている者はいるが焦って体育館へ急ごうとしている者はいなかった。
 廊下からも生徒の呑気な声が聞こえているし、動画撮影を始めている者までいる。

「……ちょっといいか」
「?」

 列から外れ教室後方へと雪成が向かう。忘れ物か?でも荷物は置いていくようにとの指示だ。
 ドアの方を振り向くと笹山の視線は雪成に向いている、だが特に咎める気配もない。

「遅れるよ?」
「大丈夫だ」
「川倉、じゃあ頼んだぞ」
「分かりました」

 教室から笹山が退出すると、二人だけになってしまった。雪成は後方の掃除用具入れを開けている。何をしているのかと覗き込むが、雪成の背中が邪魔をして分からない。幼馴染は自分よりも5センチ程背が高い。
 微かにカチャリと音がして、金属がぶつかるようなような音がした。

「じゃあ、行くか」
「?」

 雪成は肩から黒色のトートバッグを提げている。真ん中には白インクで印刷された校章が見える、担任から頼まれた物を持って行くのだろうか?

「ゆき、何それ」
「いいから、ほら、行こう」

 背中を押されながら教室から出ると、廊下の先の方にクラスメイトや笹山の後姿が見えた。先頭は階段を降り始めているようだ。
 他のクラスの移動も終わりかけなのか、光留たちのように遅れて歩いている数人がいるだけだ。不思議なことに雪成と同じような校章入のトートバッグやリュックを提げている者が多い。
 急がなくてはいけないのでは?と思うが、雪成の歩調はいつも通りで焦る様子はない。

「キャー!!!」

 前方で悲鳴が上がった。それは一つではない、あちこちからだ。そして、後姿はすぐさま恐怖に満ちた顔の生徒たちに変わる、皆が逆走してきたのだ。


 『感染者』は六年前突如として現れた。
 それは日本だけでなく、地球上のあらゆる場所に。
 最初は映画やアニメの中だけの存在であった『ゾンビ』が出るという噂程度のものだった。それが都市部で実例が見つかると、またたく間に数が拡大していった。
 各国の警察や軍が鎮圧に乗り出し、国境を超えた医療チームが遂にあるウィルスが原因で発症する病だと特定された。

 所謂『ゾンビ』というのは屍人還り、動き出した死者のことを指すが、この『感染者』も同様に、人間の体は生者としての機能を失っているのに、肉体だけが動いているのだ。
 感染者ウィルス、通称『ニルウイルス』に感染し、突然死を迎えた人間がまるでゾンビのように動き出し生者を襲う。
 感染経路は不明。発症は『発露』と呼ばれた。そして、感染するのはほとんどの場合は大人である。若くても18歳以上とされている。
 だが、噛まれたり引っ掻かれた者は年齢関係なく感染してしまう。
 爆発的に増えたのは人の多い駅や学校などでの集団感染が原因だ。
 六年前に起きたそれは、第一次パンデミックと呼ばれている。

 最初の発生から時折自然発生するこの現象はいまだ解明されていない。
 そして有効な予防法治療法もまだ治験段階である。
 だからこの世界中には『感染区』として感染者だけが彷徨う地区がある。そして住民が安全に暮らせる場所は『保護区』その中間の十数キロの距離を『緩衝区』と呼ばれている。

 この数年で分かったことはまだ少ない。ニルウィルスがどこから来たのかまだ解明はされていない。
 落下した隕石からとか、古代の遺跡からとか、ある国の研究が偶然生み出したとか噂は付きない。
 だが、そんな中でも警察と自衛隊の協力により対感染者用の組織も樹立。そして民間にもその組織はある。突然の発露に備えてである。
 法整備も進み『感染者』に対しある訓練を受けた者は感染者を撃退する術を与えられている。学校内において教師もしくは生徒の一部にも講習を受講させ、銃などの所持を許可されていた。
 だからこそ、校庭の感染者は教師により斃されたのだ。



「感染者だ!!」
「教室へ入れ!」
「押さないでよ!」
「急げ!」

 廊下にいた生徒たちは教室内へと逃げ込む。
 光留はまだ何が起きたのか理解出来ずにその場で固まってしまっていた、だが、止まった思考を動かすように大声で呼ばれた。

「光留!」
「……あ……」
「こっちだ、急ごう、窓から逃げるぞ」
「窓……?」

 ブレザーは教室に置いたままだったので、シャツの上から腕を捕まれ強い力で教室内に引き込まれた。
 慌てて足を動かし、教室の中へと入り込む。周りにいた生徒たちも直に入ってきた。

「どうする?!」
「ベランダから脱出……カーテンを繋いでそれで降りよう」
「そうだな、カーテンを外す者とバリケードを作る者に分かれろ、急げ」

 教室内にいるのは十人程だ。指示が出たと思ったら皆が直に行動に移している。
 オロオロしているのは光留を入れても数人程度で、もしかしたら廊下に残っていたのは学級委員長たちだったかと思うくらいにテキパキと指示を出し行動に移していた。
 カーテンが次々と取り払われる一方で、教室の前後にある二つの引戸の前には机が積み上げられていく。戸は鍵を掛けた上でモップの柄が斜めに立て掛けられ、つっかえ棒の役割を果たす。

「ゆき……」
「光留はそこにいてくれ、直に終わるから」
「……」

 雪成は中央にある机を廊下側に押しやっている。手伝いたかったが、自分が入っていく隙が見つからない。皆手慣れた様子で机や椅子を並べたり、積んだりしている。
 光留のようにただ様子を見ているだけの者もいるが、その全員が女子生徒だ。やはり手伝おうかと思っているうちにバリケードは完成した。

「下はどうなってる?」
「今のところ感染者の姿は見当たらない!」

 カーテンをベランダの手摺に縛り付けながら男子生徒が叫ぶ。隣のクラスで見たことがあったが、名前は知らない。

「どうして校内に感染者がいたんだ?発露か?」
「分からない……今はそれよりも避難だ」
「誰から行く?」
「……対象者からにしたいが、とりあえず一人は降りて護衛に回らないとだろうな……」
「分かった、じゃあ、まずオレが行く」

 教室とベランダでやり取りが聞こえてくる。
 とりあえず感染者は今は外にはいないらしい。対象者、と聞こえたが何のことだろう?

「開けて!!」

 ドンドン!とドアを叩く音が廊下側でする。

「お願い、開けて!!入れてよ!!!」

 ガタガタと戸を開けようとする音がする、鍵が掛かり更にモップの柄がつっかえ棒のように斜めに立てかけてあるので外からは開けることが出来ない。更に開けられたとしても、バリケードを突破するのは容易ではないだろう。

「ねぇ……開けた方が……」
「だめだ、感染者がいるんだ、噛まれているかもしれない」
「……でも……」

 ドアはずっと叩かれている、その音は一つではないし、声も一人ではない。他の教室でも同様に閉め出しているのだろう、そして逃げ遅れた生徒が何人もいるのだ。

「準備が出来た、皆早くベランダへ!絶対にドアは開けるな!」
「キャー!!!やだ……やめて……!!来ないで……!」

 悲鳴と共に怒声も聞こえる。それに人が倒れるような音も。教室内が一瞬静まり返る。

「急いで、ベランダへ!!」
「……そうだ、とにかく今は脱出するしなかい、降りたら走って体育館へ行くんだ!!」
「光留、こっちだ」
「……ゆき……」

 ベランダに出ると、結び合わせたカーテンに捕まりながら生徒たちが降りている。カーテンは二箇所に縛られていた。
 二階からなので、然程時間はかからなそうだ。

「川倉!佐々木!ここにいたんだ……!あ、そうか、カーテン……」

 ベランダに隣の教室との区切は飛び越えられる小さな柵しかない。前方の廊下にいたクラスメイトたちがそこにはいた。

「カーテンを何枚か結んでロープの代わりにして降りればいい、そっちに感染者はいるのか?」
「え?いない、廊下にいるみたいだけど……」
「そうか……ちょっと様子を見てくる、光留は先に降りてて」
「え……?」
「山形」

 隣のクラスで見たことのあった男子生徒は山形と言うらしい。よく日に焼けた丸坊主の山形は、雪成の呼び掛けにベランダの手摺から体を離した。

「どうした?」
「隣の教室を確認してくる、悪いけどこいつ頼む」
「分かった、感染者がいても一人で応戦しないで応援を呼びに来い」
「あぁ」
「ゆき……!」

 光留の声に一瞬振り向こうとしたが、雪成はそのまま隣の教室の中へと入っていった。

「こっちに来てて、彼女のあとに続いて降りて、降りたら直に体育館へ走って」
「……山形……」
「大丈夫だから、えっと、佐々木かな?彼女は三島、三組だ、佐々木と川倉は二組だったよね」
「あ、うん……」
「ほら、三島、先に降りて」
「直ぐに来る?」
「行くよ、でもオレを待つ必要はない、分かっているよな?」
「……うん」
「焦らずゆっくり降りればいい、ここは二階だ、直に一階に着くよ」
「うん……」

 最初躊躇う仕草をしていた三島だったが、覚悟を決めたのか身を乗り出し足を柵の外側に伸ばしゆっくりと柵を乗り越える。
 手摺に縛られたカーテンを掴み、スカートから覗く足の間にカーテンを差し込みそろそろと降りていく。
 五分も掛からなかっただろう、三島は地上へ降り立つとベランダへ顔を向けた。そして手を降ると、一目散に体育館へと駆け出した。
 グラウンドにはまだ避難を続けている生徒たちがいて、教師が所々で誘導している。下に降りれば無事体育館へたどり着くことが出来そうに見えた。



「次、佐々木も」
「……うん……」

 高さにして三メートルくらいか?もっとあるか?
 二階からであれば落ち方が悪くない限り死なないし、怪我だってしない高さだ。
 深呼吸して手摺を掴む。ふと隣の教室に視線を向ければ、雪成がベランダの手摺にカーテンを結んでいるのが見えた。向こうの教室も着々と避難準備が進んでいるようだ。
 自分がここでもたもたしていては避難が遅れてしまう。
 光留はもう一度深呼吸をして、手摺を掴んだ手に力を込めた。

「わー!!」
「?!」

 叫び声の後に、ドスンという重い物が落ちたような音がした。
 音の方角を見れば、生徒が蹲っている。

「おーい、大丈夫だったか?」
「あー……なんとか……大丈夫だ」

 よろよろと立ち上がり、ベランダに向かって手を振っている。どうやら飛び降りたらしい。

「飛び降りる?」
「……止めておくよ……これで行く」
「それがいい」
「わー!!」
「騒がしいな……今度は……」
「急げ、感染者が増えてるぞ!!」

 その声は雪成が行った教室とは反対の教室から聞こえた。

「佐々木、急いで」
「え……あ、う、うん……」
「キャー!!」
「おい、教室から机持ってきてベランダにもバリケード作らないとだめだ、どこか突破されてるぞ!」

 左手側の教室を見ると、数人がベランダ内に留まっているがその先には感染者が二人いた。まだ感染したばかりの様子で見た目はほとんど通常の人間と変わらない。
 だが、目の焦点が定まらず口の端からよだれを垂らしふらふら歩いている様は感染者の特徴だ。
 それに二人とも、首や手首に噛み跡がある。『発露』ではなく『感染』による発症だ。高校生でも『発露』から感染者になる場合もある、どこかのクラスで起きたのかもしれない。
 もしかしたら、先程廊下にいた感染者から逃げていた生徒をどこかの教室が入れたが、既に噛まれた後だったか。もしくは、入れた際に感染者も入ってしまったか。

「そんな……平賀さん……」
「おい!感染してる、早く逃げるぞ!!」「だめだ……そんな……」

 一人の生徒が感染者にゆっくりと近付いていく。平賀と呼ばれた女子生徒の視線は正面にいる男子生徒には向けられていない。焦点の合わない、どこを見ているか分からない濁った瞳、それに上履きの右側が脱げ靴下になっていも平然と歩く不自然さ。手首に付いた噛み跡。
 必死に止める手を振り切り、男子生徒は平賀へ抱きつく。

「平賀さん、オレが分からないのか?!」

 虚ろな目が男子生徒の顔に向く、だが見ているのかは傍からは分からない。
 早く離れろとの友人の決死の叫びは耳に届かない。

「……ぁ……」
「平賀さん?」


 青紫色の唇が開くと、ウイルスにより異常発達した犬歯がはっきりと見える。そこで漸く彼は正気に戻った。

「あ、あぁ、やめ……止めてくれ……」

 慌てて彼女を離しても遅い。平賀は背中にしっかりと腕を回していた、必死に抵抗しているにも関わらず、平賀の腕は離れない。
 肉体までウィルスは改造し筋力は女子生徒だった頃の何倍にも強力になっている。
 そして更に口を大きく開け男子生徒の喉元に噛み付いた。

「うわぁぁぁ………!!」

 周りは助けることも出来ず、ただその恐ろしい光景を見ていた。人間が壊れていく様を。
 ドサリと力の抜けた肉体がコンクリの床に倒れ込む。その体内をウィルスが駆け巡り約十分程で新たな感染者が生まれるとされている。

「逃げろ……!」

 初めに声を出したのは山形だった。
 固まってしまった光留をはじめ、その場にいた全員に聞こえる程の大声をもう一度出す。

「早く逃げろ!」
「に、逃げろって言っても……」
「隣のベランダまで行って下に降りろ、早く!」

 山形の視線は真っすぐに感染者に向けられている。今は動いていないがベランダの床には新たな感染者候補もいる。
 早く逃げないといけないのに、誰も体が動かない。

「急げ!」 

 感染者は様子見している訳では無いだろうに、山形を警戒しているように見える。
 二人の距離は二メートルもない。

「光留、こっちだ!」

 その声に振り返ると雪成が手を挙げている。珍しく焦ったような顔、その顔を見た途端に何故か気持ちが落ち着いた。

「ゆき」

 くるりと背中を向けたと同時に大きな破裂音が隣から聞こえた。一瞬足が止まるが、直に走り出した。



 手を捕まれると同時に雪成は走り出した。雪成がいたベランダではカーテンをロープ代わりにした脱出が続いている。クラスメイトの川上たちが何か言っていたがそこを通り過ぎ、もう二つ先の教室の中へと入る。
 その教室には誰もおらず、机や椅子が散乱していない、誰も逃げ込まなかったようだ。

「ベランダから逃げないの?」
「下からの援護が足りない」
「援護……?」
「あとで説明する、オレたちは別ルートから逃げる、とりあえず廊下に出て三階へ行く」
「……三階?」
「オレの後に付いて走るんだ、何を見ても足を止めるな、死にたくなければな」
「……うん」

 いつもと様子の違う幼馴染だが、何か確信を持って逃亡しているように思える。あとで説明すると言っているので、それに従うしかないだろう。
 焦燥、不安といった感情とは無縁そうな顔しか見たことがなかった。だけど、いや、だからこそなのだろうか、こんな危険な状況であるにも関わらず冷静でいられるのは。

「……落ち着いているな」
「え?」
「パニックになってもおかしくないのに」

 教室の中を突っ切り、廊下の気配を伺う。雪成はどこか感心しているように小さな声で光留を見ながら言う。

「うーん、落ち着いているっていうか……雪成が焦ってるのが珍しくて……なんか落ち着いちゃったっていうか……ほら、他の人がパニックになっているのを見ると冷静になれるっていうか……」
「頼もしいな」
「……」

 それはお前の方だよ。言葉にすると照れくさくなりそうだし、茶化すみたいで光留は何も言えなかった。

「多分、校内に感染者はいる、ただ、駆除も進んでいる筈だ……状況を見ながらだけど、三階まで行って非常階段で一階に向う」
「一階にそのまま行くのじゃ駄目なの?」
「……駄目という訳じゃないけど、三階に用がある」
「……わかった、じゃあ出て右側の階段?」
「あぁ、だけど三階に付いたら一番右端の空き教室に入る」
「……わかった」
「……行くぞ」
「うん」
 
 どんなに静かに開けたとて多少の音は出る。だが、その音がやけに大きく耳に届く。
 廊下は静かだった。そこに動いている者はいないからだ。
 最初に出た雪成は左右を確認すると、一度だけ背後を振り向き光留に頷くと直に走り出した。そして、光留もその後に続く。
 だが、数歩の所で足が止まりそうになった。

「……!」

 あちこちに血溜まりが出来、倒れたままの者もいる。仰向けに倒れた生徒の額の真ん中には穴が空き、そこから流れ出た血が顔と髪を濡らしている。

「光留!」

 雪成の声にはっとして足を動かす。止まりそうになる足をまた必死に動かし、あいてしまった距離を詰める。
 残り教室一つ分の所で、雪成が背中に手を回し手の平を見せるように指を開く。走るスピードがゆっくりと落ちていくことと合わせると、停止の合図のようだ。
 ぴたりと止まった雪成の背後に付く。

「後を見ててくれ」

 振り返らない雪成からの言葉に、こくりと頷き背中合わせになるように体勢を変える。前に何かいるのかもしれない。背後には今のところ動く者は誰もいない。

「教室の様子を見る、そこから動かないでいてくれよ」
「え……」
「すぐ戻る、廊下を見ててくれ、何かあったら声を出すんだ」
「……分かった」

 背中から雪成の気配が消えると、教室のドアが開く音がする。そちらを振り向きたい衝動にかられるが何とか我慢して、背後を注視し続ける。
 突然破裂音のような音が教室から聞こえた。それも一発ではない、続けざまに三発。
 びっくりして教室を振りかえる、さっきの我慢は一瞬で無駄になってしまったがそんなのは今はどうでもよい。
 銃声だ、校内で聞くはずのない音を今日は何度も聞いている。さっきベランダでも。そういえば、あれは。

「……ゆき……?!」

 教室から出てきた雪成は疲れたような顔をしている。そしてその右手には黒い鉄の塊が握られている。

「……行くぞ」
「ゆ、ゆき、それ……」
「あとで説明する」
「でも」
「階段には多分感染者がいる、今の音で寄って来る」
「……あとで絶対説明するんだな?」
「する」
「……」
「今はオレに付いてきてくれ」
「……うん」

 銃を構えながら走る雪成に聞きたいことは山程あるが、聞いてるような余裕がないのは光留にも分かる。そして、雪成の今の行動が自分を守ってくれているのだと言うことも。

「もう立ち止まるなよ」

 階段に差し掛かると、雪成は持っていた銃を上段に構えそのまま引き金を引いた。
 一番上から感染者が転がり落ちてくる。
 それだけではなく、階段には数体の死体。これも皆感染者だろうか。
 またどこかで銃声がする。上からなのか下からなのかは分からない。
 ただ、今は雪成の背中を見つめ足を動かすしかないのだ。
 そして気付いた、幼馴染の背中はこんなにも広くて大きいものだったのかと。



 使われていない教室なら鍵がかかっているではないかと思ったが、杞憂に終わった。
 雪成が提げている校章入のトートバッグには弾倉も新しい銃も空き教室の鍵もなんでも入っていた。

「少し休んだら移動する」
「……うん」

 一階分を上がっただけなのに、心臓がバクバクと音を立て呼吸が上手く出来ない。全力疾走した訳でもないのに、足がひどく重い。
 手近な椅子に腰掛けようとしたら、雪成から手招かれた。
 窓から差し込む陽はいつもの日常と変わらないのに、その窓辺に立つ雪成の格好は異様だった。
 紺色のジャケットだから分かりにくいが、白いシャツの襟や胸元付近にはべったりと血痕が付いている。それは手や首筋、頬にもだ。
 それなのに普段と変わらない顔をしているのだ。
 まだ鼓動が早い、体が硬く自分が緊張しているのが分かる。幼馴染と一緒にいるのに、安堵できる心持ちになれない。
 さっきまで、あんなに頼もしいと思っていたのに。
 血や死体を見過ぎたせいかもしれない。
 そして、感染者だ。
 母と妹を殺した感染者が校内にいる。そう思うと忘れていた恐怖が蘇ってくる。
 頭の奥の方で警鐘がなる。
 何かが引っ掛かるが、それが何なのか分からず心の中に不安が広がる。

「こっち、後方の席に座ってて」
「……わかった」

 カーテンを締めてまわる雪成を見ながら、言われた通り一番後の席の椅子に座る。
 窓の外は明るくて、校内でこんなことが起きているなんて誰も思わないだろう。
 そういえば何で警察は来ないのだ?通報はしているだろうに、遅すぎはしないか?
 ベランダに出た時、遠くの方でパトカーの音が聞こえた、だけどいまだ警察は高校に入ってこない。

「なんで警察はまだ来ないんだろう……」

 思わず口から出る。雪成は瞬きをしてから「分からない」とだけ言った。

「……はぁ」

 体育館へ移動しようとしてた時からまだ一時間も経っていない、それなのにもう数時間も経過したような疲労感を感じる。

「光留、大丈夫か?」
「あ、うん……」
「これ」

 差し出されたのは水のペットボトルだ。
 さっきから教室後方のロッカーを開け中に顔を突っ込んでいたのは、これのためか。
 雪成を見ると手にはライフル銃のような物を持っていた。

「……は?」
「とりあえず休憩だ、水でも飲んで……」
「なに、それ……」

 視線を雪成の手に移し、顔をを見上げる。さっきまでの焦燥感はない、無表情を貫く表情は見知らぬ男のように見える。
 短い前髪の下の一重の瞳が途端に冷たく見える。

「説明するって言ったよね?」
「……今は時間がない」
「……じゃあ、一個だけ」
「……何だ?」
「雪成はなに……なんなの……?」

 何故、教師から指名されたのか。
 何故、銃を持っているのか。
 何故、銃を扱えるのか。
 何故……雪成なのか。

 聞きたいことだらけだ。
 じっと光留を見つめてくる表情は変わらないのに、少しだけ困っているような気配を感じる。幼馴染だからこそそれが分かる。

「……感染者に対し学校でも応戦出来る措置が取られるようになったことは知っているよな?」
「うん」
「大体は教師だ、だけど生徒たちにも応戦出来る者がいる、緊急時以外では伏せられているけど……通称『狩人』と呼ばれていて、この学校にも各クラスって訳ではないけど学年に何人かいる、その内の一人がオレだ」
「なんで……」
「一個だけ、だろ?」
「……」

 目を逸らさず話してくれた雪成ではあったが、話し終わるとふっと視線を逸らした。
 まだ疑問は残る。なんで?なんで、お前なんだよ?
 お前は家族を殺されたりしていないだろう?
 雪成には感染者を憎むべき理由でもあるのか?
 なんで?

『だいじょうぶだよ、大丈夫』

 まだ幼さの残る声が記憶の奥から湧き上がってくる。震える体を抱きしめてくれる細い腕。
 あれは。

「……る、みつる、光留!」
「……」
「大丈夫か?」

 さっきまで立っていた雪成は、血の気の引いた白い顔の光留の前に片膝を付き、心配そうな顔で見つめてくる。


「……うん……大丈夫……」
「もう少し休んでから移動しよう」
「うん……」

 おぼろげな、あれは記憶だろうか?
 よくわからないが、感触まで知っているというのは遠い日の記憶なのかもしれない。あの声はたぶん雪成、だけどどんな状況だったのか覚えてない不思議な記憶だ。
 受け取ったまま飲んでいなかったペットボトルを開け口を付ける。
 一口飲んで息を吐き出す。それからゴクゴクと勢いよく飲み出す、自覚していなかったが喉が随分と渇いていたようだ。

「はぁ……」

 半分以上飲んでしまった。これはどうしようかと思っていると、目の前に手が差し出される。

「入れておく」
「ありがと……」

 渡されたペットボトルを机の上に置いた黒色のリュックの中へ入れる。そのリュックも正面に校章が付いいる、学校から支給された……武器?ということなのだろうか。
 リュックを背負い、手にはアサルトライフル。よく見ればさっきまで使っていた銃はズボンのベルトに取り付けたホルダーの中に入っている。リュックの中にはこれ以外の物も入っているのかもしれない。だが、聞く気にはなれなかった。

「廊下に出て非常階段へ向う、多分非常階段であれば安全だ、そのまま地上へ出たら体育館まで走れ」
「……うん」

 時折銃声が聞こえてくるが、近くではない。三階には誰もいないのか静かだ。

「行けそうか?」
「うん……」

 椅子から立ち上がると、先に雪成がドアへと向う。じっと廊下の気配を伺うようにドアに顔を近付けていたが、光留を振り返り頷く。
 声を掛けるでもなく、ドアを素早く開けると一直線に非常階段へと走り出した。
 そこには死体しかない。さっきも見たが斃された感染者だけが横たわる。ここは一年生の教室が多く、三年である光留たちからすれば知らない生徒が多い。
 ここが三年の教室がある廊下であれば、廊下に無造作に転がる感染者の顔を見ていちいち立ち止まっていたかもしれない。
 光留はなるべく前だけを見て、足を動かし続けた。