苔色の長い髪はさらさらと風に揺れて、シャンプーのいい匂いを俺のもとまで運んでくる。先輩は女性用のシャンプーの匂いが好きだから、一年中ずっと花の匂いがする。勿論校則違反である。クリーム色の編み込みニットは、先輩の色素の薄さを際立たせていて、履き古されているジーパンはヨレヨレだけど、スタイルがいいからかっこいい。
先輩は、いつもちょっと前のめりに歩いている。猫背ってわけじゃないけど、頭の中で延々と考えごとをしているせいで、歩いているときの姿勢にまで気が回らないらしいのだ。あの長身で無表情にずんずん歩いてこられると、ちょっとこわい。あと、ずっと手に何かしらの本を持っている。あの人は財布もスマホも持ってこないのに、たった一冊の本だけは欠かさず毎日家で選んで持ってくるのだ。
先輩を見かける文芸部の仲間が、いつ見ても本を持っているものだから、とうとう或る日、そのとき持っていた本の著者、ベンジャミン・スティーブンソンから取って、「ベンジャミン」というあだ名が付けられたと言う。
実際、先輩は北欧系のハーフで、鼻は尖っているし、肌はすごく白い。瞳だって薄いグレーだ。俺は、先輩のその淡い瞳の色をじっと見つめるのが好きだ。眺めていると、だんだん、水がぽとりと落とされたみたいに、色々ないろに滲んで見えてくるのだ。まあ、至近距離で見たことがあるのは写真でだけだが。
今日も先輩は、畳が設置された部室の隅のこたつで、文庫本を読んでいる。先輩の今日のセレクトは、夏目漱石「こころ」だ。俺はあんまり文豪と呼ばれる作家の本は読まない。というか読めないが、「こころ」くらいなら高校の教科書で読んで知っている。たしか、主人公の「私」が「先生」と呼ばれる人物と親しくなるが、「先生」は過去の後悔から自殺してしまうのだ。そのとき、「K」と呼ばれる男も関係してくるのだったか。知っている本のあらすじはこんなもので、先輩が何故「こころ」を読んでいるのかなんて、とても推測できなかった。
部室には俺と先輩のふたりだけだ。でもそれも当たり前のことかもしれない。だって今日はクリスマスイヴだ。恋人と過ごすとまではいかなくても、男友達と遊びに行くくらいできるだろう。俺は文芸部と兼部している軽音部のクリスマスパーティーに行こうかと思っていたのが、部室棟に続く道を歩く先輩の後ろ姿を見つけてしまったので、付いてきた次第だ。
ところで、この部室にはクーラーやヒーターと言った暖房器具が一切存在しない。そのため夏は蒸し殺しだし、冬はこうして凍えることになる。俺は大学限定の先輩のストーカーまがいなことをしているが、距離感は大事にしたいタイプなので、同じこたつに入ったりはしないと心に決めて、パイプ椅子に座っていた。だが寒い。ユニクロのダウンでは誤魔化せない寒さだ。流石に最高気温0度で暖房無しこたつ無しで過ごすというのは見込みが甘かったか。
「……入れよ」
最初、それが自分に向けられたものだと気が付かなかった。だって先輩から話しかけられたことなんて、今まで一回もなかったから。でも、恐る恐る振り返ると、先輩は無表情にこたつ布団の裾を持ち上げて待機してくれていた。俺が先輩の初めての行動に戸惑っている間、しばらく無言のにらみ合いが続いた。
俺は小さく会釈して、四人用こたつの先輩の右側に座った。先輩は特に気にした風もなく、もう文庫本に視線を戻している。
「……テレビつけていいすか」
「いいよ」
この距離感での沈黙に耐えられず、リモコンのボタンを押した。どのチャンネルも長時間の特番で、まさにクリスマスといった感じだ。昭和の名曲とか、流行ったアニメとか、今年あった時事ニュースの特集なんかやっている。そのどれにも興味が持てなくて、適当にクイズ番組をつけて、もそもそとこたつの布団を肩までかぶった。すると先輩は、部室に来てからずっと畳に置いていたビニール袋を手に取って、こたつの上に乗せた。そのまま押して、俺の前までブツがきた。
「クリスマスプレゼント」
「え……?」
先輩の無言の圧によって、俺はプレゼントを開けざるを得なくなった。白いビニール袋はあれか、サンタクロースのプレゼント袋を意識しているのか。うすうす分かっていたが、入っていたのは本だった。だがタイトルも著者名もない。
「俺が初めて書いた小説」
「まじか」
ここで正直に言うが、俺は先輩の文章に惚れてこの高校に入ってきた。この文芸部は去年の学園祭で、無料で部誌を配っていたのだ。その部誌の何人もが書いた小説の中に、先輩の小説はあった。今も鮮明に憶えている。読み進めるごとに文字が本から浮き上がって、螺旋状になって俺を取り巻き、軽妙な語り口は読んでいるこちら側が小躍りしそうになるほどリズムがよかった。比喩も決して少なくないのに、あんまりに美しく物事を例えるから、極上の詩を読んでいるような高揚感が身を包んだ。物語はいたってシンプルだったが、それがよかった。
「……今読んでもいいですか」
返事を聞いた瞬間、頁を開いた。頁数は五枚ほどで、手書きの目次を見る限り、短編集のようだ。俺は限界まで本に顔を近づけて、鼻息荒く読み始めた。
どれくらい時間が経ったかは検討も付かない。ただ、先輩の小説を読んでいた間は世界の時間が止まっていたし、雪もやんでいたし、テレビも付いていなかった。そこには著者たる先輩すらもいなかった。
俺の目からはぼろぼろ涙がこぼれてはこたつ布団を濡らした。たったの五頁で、この人が小説家たる所以を見た気がした。たしかに今の先輩の文章と比べると、多少は荒削りな部分もあった。だが、小説の芯みたいなところは変わっていないように思う。美しかった。
「どうだった」
「最高でした。今も昔も、先輩の書かれる小説は最高です」
そう、と先輩は金色の睫毛を伏せた。そうか、先輩の地毛は金色だから、睫毛も金色なんだ。
「なんか、お前になら見せてもいいかなって」
そう言って先輩は、柔らかい苔色の髪をくるくる指に巻き付ける。まるで刺繡糸のような光沢のある髪を見ていると、駐車場のコンクリートの隙間から生える苔を思い出す。ちょっと苦めな、渋い色をしているのだ。
「お前も髪染めたら」
「なんでですか」
「俺の髪色がそんなに好きなら」
違う、ちがう。先輩の髪だから好きなんだ。
「何色が似合うと思いますか」
俺は今カルマヘアだ。真っ黒い髪は一度も染めたことはない。
「ん。明るい金髪とかどうだ」
「染めます。今すぐにでも」
「はは笑」
先輩は笑ったが、俺が一向に笑わないのを見て、
「……まじか?」
とピタリと静止した。そしてしばらく思案すると、ニカッと歯を見せて笑う。先輩のそんな顔、初めて見た。静かにしてると森の妖精みたいなのに、笑うと一気に陽気な雰囲気になる。
「行こか、薬局」
多分いまマイナス三度くらいある。風の冷たさで耳が引きちぎれそうだ。夜空は遠すぎて星なんてみえないし、月だけが煌々と光っていた。たまに車が通り過ぎては、びゅうと強い風が吹く。こんな時間に開いているのはパチンコ店かカラオケスナックだけだった。
先輩の隣を歩くのは初めてだ。こんなに間近にあの横顔が見られるなんて、しあわせだと思った。強風に靡く長い髪が、時折視界を遮る。尖った鼻先は赤くなっていて、同じく赤くなった頬の薄い皮膚の血管が透けて見えて、輪郭ごと闇夜に溶けていきそうだった。上に来たスナフキンの服みたいな上着も素敵だ。ただ、マフラーは持っていないみたいで、その長い首が露わになっていた。
「寒くないんすか」
「あほ。めちゃくちゃ寒いわ」
この人は意外と、口が悪い。まあ意外だったがどうと言うことでもない。小説と、小説を書いている人間は別なのだから。むしろ、なんだかこの人の人間味に触れられた気がしてうれしい。
「先輩も人間なんすね」
「当たり前だろ。小説を書いてようが書いてなかろうが、人間は人間でしかないんだよ」
ちょっと、耳が痛い話だ。俺はこの人を神聖視しすぎているきらいがある。そのことを他ならぬこの人自身に気付かれていたのだ。俺には才能がない分、持ってる人が一等まぶしく見える。先輩が一番まぶしい。
薬局に着くと、先輩はまっすぐに染髪剤のあるコーナーに向かった。俺はのろまに後ろを付いていく。ブリーチ剤の棚の前でしゃがみこんだ彼は、思わず、「平成か!」と突っ込みたくなるようなパッケージの箱を両手に持っていた。どちらがいいのか、吟味している様子だ。
「両方買いましょう」
「え?まじ?」
俺は持ってきた買い物かごの中に、二つとも放り込んだ。値段は見なかった。先輩は当然のごとく財布なんて持ってきていない人なので、俺が払う。ブリーチ剤は意外と高くて、一気に財布の中身が寂しくなった。バイト代が出た直後でよかった。閉店間際にやってきた俺たちに、店員は若干迷惑そうに「あざっしたー」と言った。
外に出るとまた極寒地獄だ。雪もちらほら降り始めた。先輩は足元の水が飲めないキリンみたいに、曲がらない首を精一杯コートに埋めている。ちょっと可愛いな、と思った。先輩は白い息を吐きながら、
「俺ん家でいい?」
と言った。何のことか一瞬分からなかったが、少し考えて合点がいく。
「いいんすか」
「うん」
先輩の家の風呂場は狭かった。しかもユニットバスだ。こういうところこだわる人かと思っていた。白い電球は切れかけで、ジー、ジーと音がする。よく見るとハエが中で死んでいた。先輩はツンとした刺激臭のある白いクリームと、薄い紫色のクリームを一つのバケツに入れて混ぜる。二つのブリーチ剤を混ぜていいものなのかどうかは、俺と先輩には判断できなかった。そもそも何故バケツがここにあるのだろうか。
「雨漏りすんだよ」
シャカシャカとスプーンで混ぜながら、先輩は言う。顔に出ていたみたいだ。
「てかちょっと待ってください。あんた、タトゥー入れてたんですか」
肘から手首にかけて、ツタに生えた小さな花々が描かれていた。白、赤、黄色、ピンク。ツタの生命力ある萌黄色もうつくしい。それが先輩の血管の浮いた白い腕によく映えて、ひとつの芸術作品のように見えた。先輩はああ、と言って腕を顔の前に持ち上げて見せてくれた。
「インスタでいい彫り師さんを見つけてな。彫ってもらった」
「SNSとかやるんすね、先輩」
「そういうお前はやらないよな」
頭から穴の開いたゴミ袋をかぶせられて、トイレの上に座らされた。便器のシンとした冷たさがやけに響いた。
「いくぞー」
薬局で一緒に買ったゴム手袋に大量のクリームをつけて、洗ったばかりの俺の頭にべとりと置いた。それから頭頂部の丁度左右対称なところを起点に手櫛で塗り込んでいく。不思議な感触だった。
「痛くない?」
「痛くない」
先輩曰く、ブリーチをするときに頭がピリピリしたり、人によっては耐え難いほど痛くなったりもするらしいのだ。先輩は毎回悲鳴を上げながら美容師さんにやってもらっているらしい。あの苔色の髪にそんな苦労があったとは、知らなんだ。
「これで五分放置だってさ」
ひと仕事終えた先輩は、満足げに額の汗を拭った。そのままドカッと浴槽の上に腰を下ろした。
「何気に緊張したわ。人の髪触るの」
そんなこと言いながら、彼は楽し気に笑っている。
「あとで一緒に風呂入ろーぜ」
先輩は尻ポケットからしなびた煙草ケースを取り出すと、あ、という顔をした。
「受動喫煙ダメ、絶対」
「なんでそこだけ律儀なんですか」
先輩が喫煙者であるということは知っていた。全面禁煙のはずのうちの高校の敷地内にも、何カ所はやっぱりそういう場所がある。俺は普段はそういう人たちと目を合わせないようにしているのだが、たまに先輩っぽい人を見かけて、見とれていたから。煙草ってかっこ悪い、が今の風潮だが、先輩の煙草の吸い方はとても様になっていて、かっこいい。
「別にいいですよ」
「いや、マア、な」
口元をもにょもにょさせながら、先輩は煙草をしまった。
「うお!マジで金髪になっとる!」
見てみ、と鏡を指さした。
「……誰?」
「あははははは」
先輩は空の浴槽の中に寝転がって腹を抱え、笑い転げている。
「俺がイケメンでよかったですね。イケメンじゃなきゃ似合ってないですよこの髪色」
「事実だから怒れねーけど言い方が腹立つ」
そろそろ頭皮が限界かなと思い始めたとき、浴槽にお湯が溜まった。俺と先輩は全裸で風呂場の入り口に立っていた。一応言っておくがもう体はシャワーで流してある。あとは湯船に浸かるだけ。
「二人入れますか?」
「無理だけど片方寒いのは何か、あれじゃん」
結局、俺と先輩はお互いに体育座りをして、向かい合って入るという形に落ち着いた。
「お湯ぬるくないすか。何度ですか」
「三十九度。これが限界俺的には」
皮膚が薄い先輩には、これぐらいが丁度いいらしい。あと、彼はあれでも着膨れしていたのだな、と思った。
「こんなに胸薄い人初めて見ました」
「いや見んなし」
サッと隠した胸板は、肺気胸にでもなってしまいそうな薄さだ。それにうっすら肋骨も浮いている。色素の薄い黒子もいくつかある。
「先輩、煙草」
「エ、持ってきたん」
「はい」
どうしても先輩の煙草を吸う姿が正面から見たかった。水道付近に置かれたライターを取って、ぼっ、とつける。先輩は顔を近づける。薄暗い風呂場の中で、俺の持っているライターが一番明るく先輩を照らしていた。先輩の端正な顔が遠のいていくと、「フ―」と煙と息を吐きだした。風呂場に煙が充満して、白んだ視界の中、彼が横目に俺を見て笑った。
先輩は、いつもちょっと前のめりに歩いている。猫背ってわけじゃないけど、頭の中で延々と考えごとをしているせいで、歩いているときの姿勢にまで気が回らないらしいのだ。あの長身で無表情にずんずん歩いてこられると、ちょっとこわい。あと、ずっと手に何かしらの本を持っている。あの人は財布もスマホも持ってこないのに、たった一冊の本だけは欠かさず毎日家で選んで持ってくるのだ。
先輩を見かける文芸部の仲間が、いつ見ても本を持っているものだから、とうとう或る日、そのとき持っていた本の著者、ベンジャミン・スティーブンソンから取って、「ベンジャミン」というあだ名が付けられたと言う。
実際、先輩は北欧系のハーフで、鼻は尖っているし、肌はすごく白い。瞳だって薄いグレーだ。俺は、先輩のその淡い瞳の色をじっと見つめるのが好きだ。眺めていると、だんだん、水がぽとりと落とされたみたいに、色々ないろに滲んで見えてくるのだ。まあ、至近距離で見たことがあるのは写真でだけだが。
今日も先輩は、畳が設置された部室の隅のこたつで、文庫本を読んでいる。先輩の今日のセレクトは、夏目漱石「こころ」だ。俺はあんまり文豪と呼ばれる作家の本は読まない。というか読めないが、「こころ」くらいなら高校の教科書で読んで知っている。たしか、主人公の「私」が「先生」と呼ばれる人物と親しくなるが、「先生」は過去の後悔から自殺してしまうのだ。そのとき、「K」と呼ばれる男も関係してくるのだったか。知っている本のあらすじはこんなもので、先輩が何故「こころ」を読んでいるのかなんて、とても推測できなかった。
部室には俺と先輩のふたりだけだ。でもそれも当たり前のことかもしれない。だって今日はクリスマスイヴだ。恋人と過ごすとまではいかなくても、男友達と遊びに行くくらいできるだろう。俺は文芸部と兼部している軽音部のクリスマスパーティーに行こうかと思っていたのが、部室棟に続く道を歩く先輩の後ろ姿を見つけてしまったので、付いてきた次第だ。
ところで、この部室にはクーラーやヒーターと言った暖房器具が一切存在しない。そのため夏は蒸し殺しだし、冬はこうして凍えることになる。俺は大学限定の先輩のストーカーまがいなことをしているが、距離感は大事にしたいタイプなので、同じこたつに入ったりはしないと心に決めて、パイプ椅子に座っていた。だが寒い。ユニクロのダウンでは誤魔化せない寒さだ。流石に最高気温0度で暖房無しこたつ無しで過ごすというのは見込みが甘かったか。
「……入れよ」
最初、それが自分に向けられたものだと気が付かなかった。だって先輩から話しかけられたことなんて、今まで一回もなかったから。でも、恐る恐る振り返ると、先輩は無表情にこたつ布団の裾を持ち上げて待機してくれていた。俺が先輩の初めての行動に戸惑っている間、しばらく無言のにらみ合いが続いた。
俺は小さく会釈して、四人用こたつの先輩の右側に座った。先輩は特に気にした風もなく、もう文庫本に視線を戻している。
「……テレビつけていいすか」
「いいよ」
この距離感での沈黙に耐えられず、リモコンのボタンを押した。どのチャンネルも長時間の特番で、まさにクリスマスといった感じだ。昭和の名曲とか、流行ったアニメとか、今年あった時事ニュースの特集なんかやっている。そのどれにも興味が持てなくて、適当にクイズ番組をつけて、もそもそとこたつの布団を肩までかぶった。すると先輩は、部室に来てからずっと畳に置いていたビニール袋を手に取って、こたつの上に乗せた。そのまま押して、俺の前までブツがきた。
「クリスマスプレゼント」
「え……?」
先輩の無言の圧によって、俺はプレゼントを開けざるを得なくなった。白いビニール袋はあれか、サンタクロースのプレゼント袋を意識しているのか。うすうす分かっていたが、入っていたのは本だった。だがタイトルも著者名もない。
「俺が初めて書いた小説」
「まじか」
ここで正直に言うが、俺は先輩の文章に惚れてこの高校に入ってきた。この文芸部は去年の学園祭で、無料で部誌を配っていたのだ。その部誌の何人もが書いた小説の中に、先輩の小説はあった。今も鮮明に憶えている。読み進めるごとに文字が本から浮き上がって、螺旋状になって俺を取り巻き、軽妙な語り口は読んでいるこちら側が小躍りしそうになるほどリズムがよかった。比喩も決して少なくないのに、あんまりに美しく物事を例えるから、極上の詩を読んでいるような高揚感が身を包んだ。物語はいたってシンプルだったが、それがよかった。
「……今読んでもいいですか」
返事を聞いた瞬間、頁を開いた。頁数は五枚ほどで、手書きの目次を見る限り、短編集のようだ。俺は限界まで本に顔を近づけて、鼻息荒く読み始めた。
どれくらい時間が経ったかは検討も付かない。ただ、先輩の小説を読んでいた間は世界の時間が止まっていたし、雪もやんでいたし、テレビも付いていなかった。そこには著者たる先輩すらもいなかった。
俺の目からはぼろぼろ涙がこぼれてはこたつ布団を濡らした。たったの五頁で、この人が小説家たる所以を見た気がした。たしかに今の先輩の文章と比べると、多少は荒削りな部分もあった。だが、小説の芯みたいなところは変わっていないように思う。美しかった。
「どうだった」
「最高でした。今も昔も、先輩の書かれる小説は最高です」
そう、と先輩は金色の睫毛を伏せた。そうか、先輩の地毛は金色だから、睫毛も金色なんだ。
「なんか、お前になら見せてもいいかなって」
そう言って先輩は、柔らかい苔色の髪をくるくる指に巻き付ける。まるで刺繡糸のような光沢のある髪を見ていると、駐車場のコンクリートの隙間から生える苔を思い出す。ちょっと苦めな、渋い色をしているのだ。
「お前も髪染めたら」
「なんでですか」
「俺の髪色がそんなに好きなら」
違う、ちがう。先輩の髪だから好きなんだ。
「何色が似合うと思いますか」
俺は今カルマヘアだ。真っ黒い髪は一度も染めたことはない。
「ん。明るい金髪とかどうだ」
「染めます。今すぐにでも」
「はは笑」
先輩は笑ったが、俺が一向に笑わないのを見て、
「……まじか?」
とピタリと静止した。そしてしばらく思案すると、ニカッと歯を見せて笑う。先輩のそんな顔、初めて見た。静かにしてると森の妖精みたいなのに、笑うと一気に陽気な雰囲気になる。
「行こか、薬局」
多分いまマイナス三度くらいある。風の冷たさで耳が引きちぎれそうだ。夜空は遠すぎて星なんてみえないし、月だけが煌々と光っていた。たまに車が通り過ぎては、びゅうと強い風が吹く。こんな時間に開いているのはパチンコ店かカラオケスナックだけだった。
先輩の隣を歩くのは初めてだ。こんなに間近にあの横顔が見られるなんて、しあわせだと思った。強風に靡く長い髪が、時折視界を遮る。尖った鼻先は赤くなっていて、同じく赤くなった頬の薄い皮膚の血管が透けて見えて、輪郭ごと闇夜に溶けていきそうだった。上に来たスナフキンの服みたいな上着も素敵だ。ただ、マフラーは持っていないみたいで、その長い首が露わになっていた。
「寒くないんすか」
「あほ。めちゃくちゃ寒いわ」
この人は意外と、口が悪い。まあ意外だったがどうと言うことでもない。小説と、小説を書いている人間は別なのだから。むしろ、なんだかこの人の人間味に触れられた気がしてうれしい。
「先輩も人間なんすね」
「当たり前だろ。小説を書いてようが書いてなかろうが、人間は人間でしかないんだよ」
ちょっと、耳が痛い話だ。俺はこの人を神聖視しすぎているきらいがある。そのことを他ならぬこの人自身に気付かれていたのだ。俺には才能がない分、持ってる人が一等まぶしく見える。先輩が一番まぶしい。
薬局に着くと、先輩はまっすぐに染髪剤のあるコーナーに向かった。俺はのろまに後ろを付いていく。ブリーチ剤の棚の前でしゃがみこんだ彼は、思わず、「平成か!」と突っ込みたくなるようなパッケージの箱を両手に持っていた。どちらがいいのか、吟味している様子だ。
「両方買いましょう」
「え?まじ?」
俺は持ってきた買い物かごの中に、二つとも放り込んだ。値段は見なかった。先輩は当然のごとく財布なんて持ってきていない人なので、俺が払う。ブリーチ剤は意外と高くて、一気に財布の中身が寂しくなった。バイト代が出た直後でよかった。閉店間際にやってきた俺たちに、店員は若干迷惑そうに「あざっしたー」と言った。
外に出るとまた極寒地獄だ。雪もちらほら降り始めた。先輩は足元の水が飲めないキリンみたいに、曲がらない首を精一杯コートに埋めている。ちょっと可愛いな、と思った。先輩は白い息を吐きながら、
「俺ん家でいい?」
と言った。何のことか一瞬分からなかったが、少し考えて合点がいく。
「いいんすか」
「うん」
先輩の家の風呂場は狭かった。しかもユニットバスだ。こういうところこだわる人かと思っていた。白い電球は切れかけで、ジー、ジーと音がする。よく見るとハエが中で死んでいた。先輩はツンとした刺激臭のある白いクリームと、薄い紫色のクリームを一つのバケツに入れて混ぜる。二つのブリーチ剤を混ぜていいものなのかどうかは、俺と先輩には判断できなかった。そもそも何故バケツがここにあるのだろうか。
「雨漏りすんだよ」
シャカシャカとスプーンで混ぜながら、先輩は言う。顔に出ていたみたいだ。
「てかちょっと待ってください。あんた、タトゥー入れてたんですか」
肘から手首にかけて、ツタに生えた小さな花々が描かれていた。白、赤、黄色、ピンク。ツタの生命力ある萌黄色もうつくしい。それが先輩の血管の浮いた白い腕によく映えて、ひとつの芸術作品のように見えた。先輩はああ、と言って腕を顔の前に持ち上げて見せてくれた。
「インスタでいい彫り師さんを見つけてな。彫ってもらった」
「SNSとかやるんすね、先輩」
「そういうお前はやらないよな」
頭から穴の開いたゴミ袋をかぶせられて、トイレの上に座らされた。便器のシンとした冷たさがやけに響いた。
「いくぞー」
薬局で一緒に買ったゴム手袋に大量のクリームをつけて、洗ったばかりの俺の頭にべとりと置いた。それから頭頂部の丁度左右対称なところを起点に手櫛で塗り込んでいく。不思議な感触だった。
「痛くない?」
「痛くない」
先輩曰く、ブリーチをするときに頭がピリピリしたり、人によっては耐え難いほど痛くなったりもするらしいのだ。先輩は毎回悲鳴を上げながら美容師さんにやってもらっているらしい。あの苔色の髪にそんな苦労があったとは、知らなんだ。
「これで五分放置だってさ」
ひと仕事終えた先輩は、満足げに額の汗を拭った。そのままドカッと浴槽の上に腰を下ろした。
「何気に緊張したわ。人の髪触るの」
そんなこと言いながら、彼は楽し気に笑っている。
「あとで一緒に風呂入ろーぜ」
先輩は尻ポケットからしなびた煙草ケースを取り出すと、あ、という顔をした。
「受動喫煙ダメ、絶対」
「なんでそこだけ律儀なんですか」
先輩が喫煙者であるということは知っていた。全面禁煙のはずのうちの高校の敷地内にも、何カ所はやっぱりそういう場所がある。俺は普段はそういう人たちと目を合わせないようにしているのだが、たまに先輩っぽい人を見かけて、見とれていたから。煙草ってかっこ悪い、が今の風潮だが、先輩の煙草の吸い方はとても様になっていて、かっこいい。
「別にいいですよ」
「いや、マア、な」
口元をもにょもにょさせながら、先輩は煙草をしまった。
「うお!マジで金髪になっとる!」
見てみ、と鏡を指さした。
「……誰?」
「あははははは」
先輩は空の浴槽の中に寝転がって腹を抱え、笑い転げている。
「俺がイケメンでよかったですね。イケメンじゃなきゃ似合ってないですよこの髪色」
「事実だから怒れねーけど言い方が腹立つ」
そろそろ頭皮が限界かなと思い始めたとき、浴槽にお湯が溜まった。俺と先輩は全裸で風呂場の入り口に立っていた。一応言っておくがもう体はシャワーで流してある。あとは湯船に浸かるだけ。
「二人入れますか?」
「無理だけど片方寒いのは何か、あれじゃん」
結局、俺と先輩はお互いに体育座りをして、向かい合って入るという形に落ち着いた。
「お湯ぬるくないすか。何度ですか」
「三十九度。これが限界俺的には」
皮膚が薄い先輩には、これぐらいが丁度いいらしい。あと、彼はあれでも着膨れしていたのだな、と思った。
「こんなに胸薄い人初めて見ました」
「いや見んなし」
サッと隠した胸板は、肺気胸にでもなってしまいそうな薄さだ。それにうっすら肋骨も浮いている。色素の薄い黒子もいくつかある。
「先輩、煙草」
「エ、持ってきたん」
「はい」
どうしても先輩の煙草を吸う姿が正面から見たかった。水道付近に置かれたライターを取って、ぼっ、とつける。先輩は顔を近づける。薄暗い風呂場の中で、俺の持っているライターが一番明るく先輩を照らしていた。先輩の端正な顔が遠のいていくと、「フ―」と煙と息を吐きだした。風呂場に煙が充満して、白んだ視界の中、彼が横目に俺を見て笑った。
