不安げな君の顔に恋をした

 なぜ俺が?
 隣の、隣の、隣のクラスのやつなんてさすがに知らないんだが?

「来てくれてありがとう。でも、必要ないから……もう来なくていいよ」

 低く冷たい声音とは裏腹に柔らかく丁寧な口調。じわじわと丁寧に閉じられていく玄関ドア。姿が完全に見えなくなり俺とそいつが隔たれた。そしてサムターンをゆっくり回したのかカチャリ、と存外に可愛らしい音が耳に響く。俺が鍵閉めるときなんていつもガチャンッ!って音なのに。最後にしっかりとチェーンをかけた音まで聞こえてきた。

「はぁっ……?」

 ……来ねえよ! 行かねえけど! そう、家が! 家が隣なんだよ……! 知らなかったんだが!?
 いつお隣の207号室はのんびりしたおじいちゃんおばあちゃんから、冷たい美形にチャンジしたんだよ。
 状況についていけず、ついまじまじと観察してそのまま見送ってしまった。

——放課後俺のクラスの神白(かみしろ)って生徒の様子見に行ってくれないか?
——入学してからずっと登校してなくて、ついに中間テストも受けに来なくてさすがになぁ。
——及木(そそぎ)と神白、お前たちアパート隣同士らしいからちょうどいいだろ。な! 神白の面倒見てやってくれよ! 頼んだぞ!

 個人情報ッ……! じゃなくて! 
 先生から頼まれたから来てみたけど、様子見以前の問題だった。
 あいつに対応するように乱暴に鍵を開け、強くドアを開け放って、神白の部屋から徒歩5秒の家に帰宅する。

飛燕(ひえん)ちゃんおかえりッ!」
「……ただいま。普通はお兄ちゃんがただいまって言うんじゃないの? いつものことだけどさー。私がいなかったら変な人だよ」
「いるのわかってるからいいんだよ」

 小学校5年生になったとはいえ、帰りが高校生より遅くなるわけがない。それに今は状況が特殊なんだからより帰って来てないわけがない。ちゃんと毎日一緒に母さんの見舞いに行ってるんだから。

「そんなことより隣が引っ越して来てたの知ってた?」
「当たり前じゃん」
「は?」

 当たり前なのか? 俺さっき知ったんだけど。

「挨拶来たよ」
「知らないんだけど」
「少し前に食べた素麺がそれだよ」
「マジか」

 春に素麺も悪くないとか思って食ったやつか。
 買い置きしてあったのかラッキーって何も疑問抱かず使ったんだよな。素麺は茹でるだけでいいから。だからつい茹ですぎてすごい量になったのは失敗だったけど。

「お兄ちゃんはお母さんのことで忙しかったから」
「飛燕ちゃんも手伝ってくれたじゃん」
「私はパパが帰って来てるときはお役御免だし。あ、お兄ちゃんがクラス分けテストでいなかった日かも」
「それならあいつもテスト受けてなきゃおかしいだろ」

 もしかしてあいつ、そのテストすら受けてなかったりするのか?

「あいつ? あの綺麗なおばさまをあいつ呼ばわりはさすがのお兄ちゃんでもちょっと……」
「綺麗なおばさま??」
「え? 綺麗なおばさまって感じの人が挨拶に来たよ?」
「はぁ……?」

 どう考えてもあいつは綺麗なおばさまではないよな。なら、なんだ? 母親か? ありそうだな。まぁ、誰でもいいか。

「まぁいいや、ありがと」
「いえいえ。今日はきっと豪華なサラダが……」
「はいはい」

 ちゃんと見た目にも気をつかうよ。
 あれ? そういえばさっき俺がピンポン押す前にあいつ出てきたな。出かけるつもりだったのか? 不登校だからって引きこもりな訳ではないのか。
 制服では……なかった。もううろ覚えだけど私服だったな。
 なんかすっごい戸惑っているというか、落ち着かない、みたいな表情だったか? 目がフラフラ泳いでた気がする。
 いやまぁ、そりゃ出かけるつもりでドア開けたら人がいました、なんて戸惑うか。
 にしても170(169)センチの俺より10センチくらい背が高かったぞ。同じ高校1年のくせにデカくね? 羨ましい。俺も小さくはないけど! 既に身長の伸びが悪くなってるなんて認めない。





「あ」
「……っ」

 アパートのエントランス。
 今日の買い出しで必要なものを指折り数えながら学校から帰ってくると前方から神白が歩いてきている。
 そうだった。先生に頼まれた不登校児は隣人だった。
 パチっと目が合う。
 瞬間、すううと視線の動きで線が引けそうなくらい、綺麗な動きであからさまに目を逸らされた。あからさまなのに動作が丁寧で、目が追いかけていく。
 それはそれとして。別に、ただの帰宅なんだから。そんなに過剰に避けなくてもいいだろ。
 俺も向こうも足を止めることなく、やや距離をあけてすれ違った。ただそれだけ。
 振り返ることもなく、神白のことは頭の端に追いやり今日の予定の確認を再度始める。母さんのお見舞いに行って、今日は買い出しにも行く。卵を買うのを忘れてはならない。

「飛燕ちゃんおかえり」
「ただいま。お兄ちゃんもおかえり」
「え、俺におかえりって言ってくれるのか」
「お兄ちゃんがいつも自分で言われる機会奪ってるんでしょ!」

 そうかも。

「ただいま……。母さんの洗濯物用意してくるから飛燕ちゃんも支度済ませて」
「もうやったよ! あとはお兄ちゃんが制服着替えてくればいいだけだから!」
「マジか。サンキュー」
「私がお母さんの着替えとか!下着とか!やるから、お兄ちゃんは触っちゃダメ!」
「やってくれるなら、まぁ助かるけど」

 母親の物にまで気を遣える思慮深さと恥じらいは大変好ましい成長だけど、この家の洗濯担当はずっと俺だ。いつからやってると思ってんだ。
 母さんのはもちろん、飛燕ちゃんの色気のないパンツも、ほぼ家にいない親父のゴムの伸び切ったパンツすら知ってるっつの。
 なんの感情もないわ……。
 ただ腕を組んでプンプンとしてる妹は可愛いから良し、だ。





「転院すんの?」
「リハビリは、リハビリ特化の病院でやるんだってさ」
「へぇ」
富貴(ふき)からもパパに連絡しておいて」
「了解」

 病院のシステムなんて知らないからなぁ。
 身の回りのことするくらいなら俺にもできるけど、これは親父召喚しないと厳しいか。単身赴任先からほぼ毎週気合いで帰ってきてくれているから今回も問題ないだろ。

「本っ当に、入学前に事故に遭うなんてついてない。入学式くらいちゃんと富貴の晴れ姿を……。あ、そういやあんた部活は? バスケやってたじゃん甚ちゃんと」
「入らなかったけど。だから今いるんじゃん。甚鉄も入らなかったし」
「私のせいか。気にせずやればいいよ」
「母さんのせいじゃねえよ」

 誘われてやり始めただけだし。やってるときはもちろんちゃんと楽しく真剣だった。
 でも、選手目指したいわけでもなし。全国大会で優勝を目指す気概もなく。楽しくゲームできればいい感じのゆるい部活だったから良かったんだ。

「今は飛燕ちゃんに飯食わすのが生き甲斐だから」

 俺の下手くそな料理もモリモリ食べてくれる。
 それが結構嬉しくて、最近は野菜の区別もだいぶつくようになってきた。

「ついに料理始めたんだっけ? 出来合いのものじゃダメなの?」
「さすがに飽きたんだよ。種類豊富とはいえ毎日はな。こんな機会でもないと料理なんて一生やらなかっただろうし」
「私の手伝いしようとしてほっぺに油はねて泣いてたのに。あんなに嫌がってたのに。成長したなー……」
「火傷冷やすために水道に頭突っ込まれたら誰だって嫌になるだろ」
「あんたそれ! そこだけ切り取ったら虐待に聞こえるから他所で言うんじゃないよ!」
「言わねえよ……」

 頼まれなくても言わないだろ。俺にとっても良い思い出じゃないし。勝手にやって失敗して。余計なことはするもんじゃない。

「子供の新陳代謝羨ましいな、まったく。ツルツルに治りやがって。いやでも私の咄嗟の判断のおかげでもあるな……。やばい、嫉妬してたら気持ち悪くなってきた……」
「無理して起きてなくていいから気にせず寝てろよ。顔見に来てるだけだし」
「具合悪いけど暇なんだよ……」
「そうかよ」

 話す元気が出てきただけ回復してるってことなんだろうな。

「吸い飲みに水足しておくね!」
「ありがとー……。じゃあパパによろしく」
「あぁ」
「お母さんまたね!」





「あ……神白じゃん」

 近所にある地域密着型の大型スーパー、ルポマーケット。通称ルポマ。
 妹に宿題をやってろと言い『お兄ちゃんの方がお母さんより口うるさい』というありがたいお言葉をいただくという一幕を終えて先に家に帰した。
 それから買い出しに来たんだけれども。
 夕方から夜にかけてのこの混雑時に、レジでせっせと商品のバーコードを読み込んでいる長身の男。
 可もなく不可もない、強いて言えば若干ゆったりめのシンプルなシャツとパンツに、ルポマの絶妙にダサいロゴとキャラクターがプリントされた明るい水色のエプロン姿。
 隣の隣の隣のクラスの不登校児、神白。
 アパートのエントランスで会ったぶりだな……。まさか1日で2回も会うとは想像もしなかった。
 すっげえ迷惑そう。マスクしてるけどあれはたぶん、放っておけ、話しかけるなって表情。ちょっと驚いて、つい声に出して名前呼んじゃっただけだ。何かするつもりはないから安心してほしいなぁ。
 生活圏が被ってるっぽいから、これまでもすれ違ったことがあったのか?
 ただ顔というか、存在を認識してなきゃ会ってもわからないからな。あいつ今マスクもしてるし。やっぱりわかるわけないな。
 会計を済ませてカゴを受け取る。カゴには無事にゲットした卵が入っている。赤と白の違いが全くわからなくて今日も悩んだが、ミッションは達成だ。

「バイトお疲れ、頑張ってな」

 俺の後ろにまだまだ並んでいる客を見て大変そうだなと他人事のように思う。