風が流れてくる方向へと進む。その先には光が見えた。
しかし、その光は強くその先に何が潜んでいるかは分からない。手を引く桔平の足は止まらない。だからその足の向かうまま、藤吾は共に進んだ。
それは坑道の出口だった。坑道に出口というのもおかしい話だ。基本的に坑道は貫通することはない。
だから、これはきっと入り口になるのだろう。こちらの世界にとって。
雨は止んでいた。木枠で固定された入り口も同じ。しかし明らかに先程までいた場所とは何かが違う。
穏やかな日が照りつける道は坂道だ。そこを降って行った先にはバス停があった。サビの浮いていないバス停の看板には、「山宝八」と書かれていた。
「ヤマタカラハチ……、ハチホウザン?」
どうやらこの看板は右から左に読むように書かれているらしい。そのように表記していた時代は第二次大戦後までだった、と歴史の授業で学んだばかりだ。
ここ数日、奇怪な目にばかり会ってきた二人は最早驚かなかった。あの坑道を抜けたのならば、何かしらがあるだろうと身構えていたおかげもあるだろう。
ここはきっと八宝山の名が残っていた時代なのだ。
「あらぁ、何処から来たのお」
間延びした声は二人に掛けられていた。その声の主は、気の良さそうな老婆だ。モンペにほっかむり、泥だらけのエプロン。昭和という時代に相応しい姿をしている。山菜を取りに来ていたのか、背中に背負った籠には瑞々しいフキが詰め込まれていた。
「あの、俺たちは」
「民俗学の勉強の為、こちらに来ました。そのフキ立派ですねー。ここらで採れるものなんですか?」
桔平が答えるのに割り込んで、藤吾が答えた。出鱈目を並べた言葉を疑うことなく老婆は信じてくれたようだ。
皺の多い優しそうな顔がくしゃくしゃに笑う。
「そうだったのお。都会から来たんでしょう。ハイカラな服来ているものねえ。うんうん、この山菜はぜーんぶこのお山で採れたんですよ」
ジャージとシャツという出立はどうやらハイカラの範囲に収まるようだった。そのことに安心して、少しだけ肩の力が抜ける。
よっこいせ、と下ろした籠を傾ける。どうやらフキを見せてくれているらしい。
促されるままに中を見れば、光沢のある葉が太陽を浴びて輝いていた。フキへの感想だけは本物だった藤吾は、その立派な山菜に感嘆の声を漏らす。
フキに混ざっているのは紫蘇だ。野生の紫蘇は香りも強く、独特の青い匂いがツンと鼻腔を刺激する。
「ええ、でもちょっと道が分からなくて……。もし良ければ村まで案内していただけないでしょうか?」
「はいはい。勿論ですよ。ついていらっしゃいな」
案内のお礼にと、山菜の入った籠を桔平が担いだ。見た目以上に重いらしい。うっと小さく呻きながら背負う彼に、藤吾は耳打ちした。
「目の感じはどうよ?」
背中は曲がっているが、その足は早い。見失わないように二人も足早に親切な老婆を追いかける。
「逆に……落ち着いてきたような?ずっと変な感じがして、麻痺してるだけかもしれないけど」
とにもかくも、異変は今のところないらしい。例の右目の発光も目立っていない。それならば今は、せかせかと歩く彼女の背を追うことに集中するべきだろう。
長い緩やかな坂の途中に見えたのは小さな集落だった。瓦屋根の小さな家がポツポツと点在しており、当然コンクリートの道は一本もない。
山から水を引いているのか、水路が多くユスリカが柱を幾つも作っていた。
山道を降り切れば、不意に籠を背負った背中が振り向く。
「そういえば、今日はどこに泊まるの?」
「あ……、いや要件が終わったら帰る予定です」
「えぇ?それは無理よお。もう最終バスは行っちゃったじゃないの」
日の高さから見て、時刻は16時くらいだろう。田舎のバスは最終が早いという常識はこの時代も通じるようだ。
「行く宛がないならうちに泊まってきなさい。娘夫婦には説明しておくからねえ」
「二世帯暮らしなんですか?」
「ええ、そうよぉ」
蚊柱を手で払いながら、道を進んでいく。どうやら彼女は二人を家に泊める方向で気持ちが固まっているようだ。
桔平と藤吾、二人は目を合わせて「好意に甘えよう」と意思を確認しあった。
「すみません。それじゃあお願いします」
足を止めて、老婆に頭を下げる。その気配を感じたのか、また曲がった背中が振り返る。
うんうんと頷きながら、二人の前をまたしてもせかせかと老婆が進んでいく。広い道幅を進む途中、何処かから醤油で魚を煮込む香りがした。
その匂いを辿るように、その香りは強くなっていく。
「はい、着きました」
煮魚の匂いはこの家から漂っていた。二世帯で暮らすには十分すぎる大きさの民家だ。台所と思わしき、少しだけ空いた窓から白い湯気が立ち昇っている。
石垣に囲まれた庭の中には犬がいた。黒い毛並みにそこそこ大きい立ち耳。どうしてか尻尾の先だけ白いという変わった模様をしていた。
客人である二人に気づいたのか、警戒心を剥き出しに牙を見せる。
「これっ、クロ!お客様に失礼を働くんじゃない」
ピシャリと老婆が叱りつけられ、犬は大人しくその場に座り込んだ。クロと呼ばれた犬からすれば、彼女はヒエラルキーが高いらしい。
叱られてシュンとする犬を横目に見た表札には「桐島」と書かれていた。
藤吾と同じ苗字だ。
「なあ、フジと同じ苗字だ」
「お、マジだ。珍しいもんでもないし驚くもんじゃないだろ」
そんな二人のやり取りは聞こえていなかったのか、老婆は引き戸を開けて玄関に上がっていく。
「ただいまあ、日奈子。お客様を連れてきたので、お茶いただけないかしらー?」
見た目からは想像できないほどに大きな声で廊下に向かって声を張りあげる。日奈子と言うのは、彼女の娘だろう。
その呼びかけから間も無くして、パタパタという足音が近づいてきた。
着物の上に割烹着を着た、小柄な女性が現れる。その着物は浅葱色だ。可愛らしい印象に対して左側にある泣きぼくろが艶っぽい。
「お客様? もう、お母さんったらいっつも急なんだから……」
少しだけ困ったように眉根を寄せるが、こちらに向き合う頃には笑みを見せていた。笑った時、くしゃっとなる顔は母親に似ているようだった。
「初めまして。桐島日奈子と申します。ええっと、母とはどのような関係で……?」
「あ……っと、すみません。急なことになってしまって。泊まる場所がなくて困っていたところをお声掛けいただいた、感じです」
です、のタイミングで説明していた桔平が頭を深々と下げた。一瞬の遅れを取って藤吾も頭を下げる。
「山には熊も出るでしょ。だから放っておけなかったのよぉ」
流石に娘が咎めるのに一理あると、申し訳なさそうに老婆も頭を下げていた。三人に頭を下げられては日奈子もそれ以上責められないのか、「全くもう」と溜め息ついで上がるように促した。
それを合図に、桔平が玄関の入り口に籠を置く。
「ありがとうございます」と上がる前に一言礼を告げ、靴を丁寧に揃えてから、今度は廊下を行く日奈子へとついて行った。
彼女の母と違い、その速度は少し遅いくらいだった。
「母が強引で困ったでしょう。ごめんなさいね」
どうやら、母が無理に連れてきたと思っているのか。そんなことはないと二人揃って首を横にブンブンと振る。
親切にして貰ったのだと弁明するが、それも理解して貰えたかは怪しい。それくらい、普段からお節介な性格をしているのかもしれない。
二階に続く木製の階段を前に「暗いから気をつけてくださいね」と忠告してくれる彼女も、母によく似ているような気がしたがそれは黙っておくことにした。
窓のない階段は薄暗い。少しカビ臭い気がしたが、これも昭和の風景の一つなのだろう。
上がりきった先には細い廊下が続き、障子が隔てられた一室があった。その奥が客間らしい。そこは二人が寝起きするには十分な広さを持つ畳の間だった。日焼けした襖を開き、押入れから日奈子が布団を下ろす。
「この間干したからフカフカですからね」
夏用の薄い掛け布団と、敷布団を受け取って畳に敷いた。防虫剤の匂いでうっかりノスタルジーに浸りそうになる。
二つの布団を畳んだ状態で並べ、リュックを部屋の隅に置かせて貰う……が、炭鉱で床に置いた畳に置くのはちょっぴり罪悪感を覚える。なのでタオルを取り出してそれを敷いてから置いた。
「あの、もし良ければ夕飯のお手伝いさせていただけませんか?」
そう申し出たのは藤吾だ。障子を閉めて出て行こうとした日奈子がその言葉に目を丸くする。
「男の人が?ご冗談でしょう?」
「いえ、本気です。料理における民俗学を勉強しているので、是非お願いします。邪魔にならないようにしますから」
藤吾のその申し出の真意を知っている桔平は黙っていた。だが、ここで何もしないのも心苦しく感じるのは彼も同じだったのだろう。
「俺からもお願いしたいです。雑用でも何でもしますので」
その言葉に形のいい目をパチクリさせる。だが、その熱意を汲んでくれたのかふっと小さく微笑んで首を縦に振った。
一つに纏められた髪の毛が解け、一房顔に掛かった。それを掻き上げながら二人を手招く。
「男の人が料理するところを見るのは初めてよ」
どこか面白そうに、悪戯っぽく笑うのだった。
しかし、その光は強くその先に何が潜んでいるかは分からない。手を引く桔平の足は止まらない。だからその足の向かうまま、藤吾は共に進んだ。
それは坑道の出口だった。坑道に出口というのもおかしい話だ。基本的に坑道は貫通することはない。
だから、これはきっと入り口になるのだろう。こちらの世界にとって。
雨は止んでいた。木枠で固定された入り口も同じ。しかし明らかに先程までいた場所とは何かが違う。
穏やかな日が照りつける道は坂道だ。そこを降って行った先にはバス停があった。サビの浮いていないバス停の看板には、「山宝八」と書かれていた。
「ヤマタカラハチ……、ハチホウザン?」
どうやらこの看板は右から左に読むように書かれているらしい。そのように表記していた時代は第二次大戦後までだった、と歴史の授業で学んだばかりだ。
ここ数日、奇怪な目にばかり会ってきた二人は最早驚かなかった。あの坑道を抜けたのならば、何かしらがあるだろうと身構えていたおかげもあるだろう。
ここはきっと八宝山の名が残っていた時代なのだ。
「あらぁ、何処から来たのお」
間延びした声は二人に掛けられていた。その声の主は、気の良さそうな老婆だ。モンペにほっかむり、泥だらけのエプロン。昭和という時代に相応しい姿をしている。山菜を取りに来ていたのか、背中に背負った籠には瑞々しいフキが詰め込まれていた。
「あの、俺たちは」
「民俗学の勉強の為、こちらに来ました。そのフキ立派ですねー。ここらで採れるものなんですか?」
桔平が答えるのに割り込んで、藤吾が答えた。出鱈目を並べた言葉を疑うことなく老婆は信じてくれたようだ。
皺の多い優しそうな顔がくしゃくしゃに笑う。
「そうだったのお。都会から来たんでしょう。ハイカラな服来ているものねえ。うんうん、この山菜はぜーんぶこのお山で採れたんですよ」
ジャージとシャツという出立はどうやらハイカラの範囲に収まるようだった。そのことに安心して、少しだけ肩の力が抜ける。
よっこいせ、と下ろした籠を傾ける。どうやらフキを見せてくれているらしい。
促されるままに中を見れば、光沢のある葉が太陽を浴びて輝いていた。フキへの感想だけは本物だった藤吾は、その立派な山菜に感嘆の声を漏らす。
フキに混ざっているのは紫蘇だ。野生の紫蘇は香りも強く、独特の青い匂いがツンと鼻腔を刺激する。
「ええ、でもちょっと道が分からなくて……。もし良ければ村まで案内していただけないでしょうか?」
「はいはい。勿論ですよ。ついていらっしゃいな」
案内のお礼にと、山菜の入った籠を桔平が担いだ。見た目以上に重いらしい。うっと小さく呻きながら背負う彼に、藤吾は耳打ちした。
「目の感じはどうよ?」
背中は曲がっているが、その足は早い。見失わないように二人も足早に親切な老婆を追いかける。
「逆に……落ち着いてきたような?ずっと変な感じがして、麻痺してるだけかもしれないけど」
とにもかくも、異変は今のところないらしい。例の右目の発光も目立っていない。それならば今は、せかせかと歩く彼女の背を追うことに集中するべきだろう。
長い緩やかな坂の途中に見えたのは小さな集落だった。瓦屋根の小さな家がポツポツと点在しており、当然コンクリートの道は一本もない。
山から水を引いているのか、水路が多くユスリカが柱を幾つも作っていた。
山道を降り切れば、不意に籠を背負った背中が振り向く。
「そういえば、今日はどこに泊まるの?」
「あ……、いや要件が終わったら帰る予定です」
「えぇ?それは無理よお。もう最終バスは行っちゃったじゃないの」
日の高さから見て、時刻は16時くらいだろう。田舎のバスは最終が早いという常識はこの時代も通じるようだ。
「行く宛がないならうちに泊まってきなさい。娘夫婦には説明しておくからねえ」
「二世帯暮らしなんですか?」
「ええ、そうよぉ」
蚊柱を手で払いながら、道を進んでいく。どうやら彼女は二人を家に泊める方向で気持ちが固まっているようだ。
桔平と藤吾、二人は目を合わせて「好意に甘えよう」と意思を確認しあった。
「すみません。それじゃあお願いします」
足を止めて、老婆に頭を下げる。その気配を感じたのか、また曲がった背中が振り返る。
うんうんと頷きながら、二人の前をまたしてもせかせかと老婆が進んでいく。広い道幅を進む途中、何処かから醤油で魚を煮込む香りがした。
その匂いを辿るように、その香りは強くなっていく。
「はい、着きました」
煮魚の匂いはこの家から漂っていた。二世帯で暮らすには十分すぎる大きさの民家だ。台所と思わしき、少しだけ空いた窓から白い湯気が立ち昇っている。
石垣に囲まれた庭の中には犬がいた。黒い毛並みにそこそこ大きい立ち耳。どうしてか尻尾の先だけ白いという変わった模様をしていた。
客人である二人に気づいたのか、警戒心を剥き出しに牙を見せる。
「これっ、クロ!お客様に失礼を働くんじゃない」
ピシャリと老婆が叱りつけられ、犬は大人しくその場に座り込んだ。クロと呼ばれた犬からすれば、彼女はヒエラルキーが高いらしい。
叱られてシュンとする犬を横目に見た表札には「桐島」と書かれていた。
藤吾と同じ苗字だ。
「なあ、フジと同じ苗字だ」
「お、マジだ。珍しいもんでもないし驚くもんじゃないだろ」
そんな二人のやり取りは聞こえていなかったのか、老婆は引き戸を開けて玄関に上がっていく。
「ただいまあ、日奈子。お客様を連れてきたので、お茶いただけないかしらー?」
見た目からは想像できないほどに大きな声で廊下に向かって声を張りあげる。日奈子と言うのは、彼女の娘だろう。
その呼びかけから間も無くして、パタパタという足音が近づいてきた。
着物の上に割烹着を着た、小柄な女性が現れる。その着物は浅葱色だ。可愛らしい印象に対して左側にある泣きぼくろが艶っぽい。
「お客様? もう、お母さんったらいっつも急なんだから……」
少しだけ困ったように眉根を寄せるが、こちらに向き合う頃には笑みを見せていた。笑った時、くしゃっとなる顔は母親に似ているようだった。
「初めまして。桐島日奈子と申します。ええっと、母とはどのような関係で……?」
「あ……っと、すみません。急なことになってしまって。泊まる場所がなくて困っていたところをお声掛けいただいた、感じです」
です、のタイミングで説明していた桔平が頭を深々と下げた。一瞬の遅れを取って藤吾も頭を下げる。
「山には熊も出るでしょ。だから放っておけなかったのよぉ」
流石に娘が咎めるのに一理あると、申し訳なさそうに老婆も頭を下げていた。三人に頭を下げられては日奈子もそれ以上責められないのか、「全くもう」と溜め息ついで上がるように促した。
それを合図に、桔平が玄関の入り口に籠を置く。
「ありがとうございます」と上がる前に一言礼を告げ、靴を丁寧に揃えてから、今度は廊下を行く日奈子へとついて行った。
彼女の母と違い、その速度は少し遅いくらいだった。
「母が強引で困ったでしょう。ごめんなさいね」
どうやら、母が無理に連れてきたと思っているのか。そんなことはないと二人揃って首を横にブンブンと振る。
親切にして貰ったのだと弁明するが、それも理解して貰えたかは怪しい。それくらい、普段からお節介な性格をしているのかもしれない。
二階に続く木製の階段を前に「暗いから気をつけてくださいね」と忠告してくれる彼女も、母によく似ているような気がしたがそれは黙っておくことにした。
窓のない階段は薄暗い。少しカビ臭い気がしたが、これも昭和の風景の一つなのだろう。
上がりきった先には細い廊下が続き、障子が隔てられた一室があった。その奥が客間らしい。そこは二人が寝起きするには十分な広さを持つ畳の間だった。日焼けした襖を開き、押入れから日奈子が布団を下ろす。
「この間干したからフカフカですからね」
夏用の薄い掛け布団と、敷布団を受け取って畳に敷いた。防虫剤の匂いでうっかりノスタルジーに浸りそうになる。
二つの布団を畳んだ状態で並べ、リュックを部屋の隅に置かせて貰う……が、炭鉱で床に置いた畳に置くのはちょっぴり罪悪感を覚える。なのでタオルを取り出してそれを敷いてから置いた。
「あの、もし良ければ夕飯のお手伝いさせていただけませんか?」
そう申し出たのは藤吾だ。障子を閉めて出て行こうとした日奈子がその言葉に目を丸くする。
「男の人が?ご冗談でしょう?」
「いえ、本気です。料理における民俗学を勉強しているので、是非お願いします。邪魔にならないようにしますから」
藤吾のその申し出の真意を知っている桔平は黙っていた。だが、ここで何もしないのも心苦しく感じるのは彼も同じだったのだろう。
「俺からもお願いしたいです。雑用でも何でもしますので」
その言葉に形のいい目をパチクリさせる。だが、その熱意を汲んでくれたのかふっと小さく微笑んで首を縦に振った。
一つに纏められた髪の毛が解け、一房顔に掛かった。それを掻き上げながら二人を手招く。
「男の人が料理するところを見るのは初めてよ」
どこか面白そうに、悪戯っぽく笑うのだった。
