濡れてもすぐに乾くようなジャージ生地のパンツだ。地面にどっかりと尻を下ろし、背中を壁に預ける。
どっと疲労が襲った。無意識のうちに長い長い溜め息が漏れる。
「なあ、朝も言ったけどさ……。顔どうしたんだよ」
ただでさえ溜まった疲労が益々重くなる。
「何でそんなこと聞くんだよ」
笑みを浮かべる表情から発せられたとは思えぬくらい、言葉に棘が目立った。藤吾の隣に座り込んだ桔平が横から顔を覗き込む。
何、と口を開きかけたが声にならない。ちりつく感情を一瞬でも忘れるくらい、その顔は端正だったからだ。
藤吾好みの顔が曇る。睫毛を伏せて絞り出すように言う。
「お前のこと、頭おかしいって思ってるよ。それでも……友達だと思ってる。だから心配してんの。いい加減事情くらい聞かせてくれないか」
桔平はイイヤツだ。嫌味がない性格で、バスケ部ではセンターのポジションで、こんな頭がおかしい男のことも見捨てられない。
だから藤吾は桔平が好きだった。なのに、その真っ直ぐさが今は苛立ちを誘った。
「俺はさ、桔平のこと恋愛対象として好きだよ。だから……、だからさあ。友達って言い切るの、今くらいはやめてくれねーかな」
同時にホッとしていた。母親と同じように当たり散らさずに済んだことに。
「……悪い。じゃあ、それはやめるから話せって。誰にも言わないから」
心底申し訳なさそうに桔平の表情が歪む。しかし藤吾の表情も同じだ。各々胸に引っ掛かるものを感じながら、会話を続けた。
藤吾は極めて明るく声を張り上げる。場違いなほどに明るくだ。
「俺んとこの母親、俺以上に頭パーになってんの。数ヶ月前に父親が浮気して出てってから。 んで、俺がママ〜って呼ぶと発狂しちゃってさあ。だから“明美ちゃん”って呼んだりなんかして」
桔平の持つスマホのライトがチカチカする。揺らぐ光に照らされる自分は今、笑顔でいられているか藤吾は自信がなかった。
だから大袈裟なくらい口角を吊り上げ、身振り手振りを加えた。
「そいで、俺が夏休み中に家にいないモンだから、ブチ切れちゃって。もー、父親似のイケメンのツラをボッコボコよ。あー、でもまだ拳じゃなくってビンタなだけ愛情あるのかもー?」
演技がかったボディランゲージはまるで子供向けアニメのように大袈裟だ。 ブンブンと振りかぶる腕に、縮こまったり伸び上がったりする体、揺れ動く頭も、全部が忙しない。
「……俺のこと、友達として好きなんだろ」
おどけた動きが止まる。
桔平の腕の中に藤吾の体が収まっていた。誰かの体温を全身で享受するのはどれ程久しかっただろうか。
桔平の血迷ったとしか思えぬ行動を、咎めるための言葉を口にした。しかしその声は震えてしまった。
「友達を慰めるのにハグしちゃ悪いのかよ」
やっぱり、桔平はイイヤツなのだ。
相手が望むものを察して、それを先回りして与えるような優しさを持っている。
だが、それが残酷だって誰も教えなかったのだろう。
欲しい人から欲しいものを与えられているのに、これを一生手にしたままでいられないことの辛さをきっと彼は分かっていない。与える側の人間は、それを理解できないのだ。
だからこそ、与えられる側は絞り出すような声でこう言うしか無かった。
「……ありがとよ」
イイヤツの隣に立つには、イイヤツの振る舞いが必要だった。気がおかしくなったとしてもそれは藤吾の身に染み付いている。
だからこそ、鬱屈とした感情を呑み込んで感謝を伝えた。
彼の肩に顔を押し付け、感情の波が凪ぐのを待つ。気付かぬうちに手足も震えていたらしい。その震えが治るまでの時間、桔平は藤吾を抱き締めていた。
「フジの言ってた通り、最近ちゃんと食えてなかった」
「……え?」
「バスん中の話の続きだよ。聞き出すだけして聞き出して、黙っとくのは良くないかって思っただけ」
ようやくハグを終わらせると、再び桔平は横に座った。そうして右手を藤吾に差し出す。
「今日も何か持ってきてんだろ。出せって」
桔平のどこか開き直ったような態度に、やや戸惑いながら藤吾はリュックサックのジッパーを下ろした。しかし、今日入っているラインナップは予定が狂ったせいで整合性に欠けたものになっていることだろう。
自信なさげに一つずつ桔平の手に置いていった。
まず一つ目は、計量済みの薄力粉と強力粉が入ったジップロック。塩。そして水とオリーブオイル。キャンプ用品売り場のセールで買った、小型のガスバーナー式のコンロ。そして先程も見せた藤のジャムだ。
桔平はそれらを床に置いた自分のリュックの上に並べていき、最後に藤吾を睨んでいた。しかし殴らないのはきっと先程の話を聞いたせいだろう。
しかし、有り余る感情によって桔平の息は浅くなっていた。
「待てって。ほらイースト菌はないって嘘ついてねえだろ」
「結局パン作りの材料じゃねえか。犬塚で何する気だったんだよ?!」
話せば長くなると訴えて、前のめりになる桔平を落ち着かせる。
「犬塚と言えば、石碑だし。それが割れたんなら一枚位、いい感じのサイズの石があるだろうなってことで。その石碑の破片を鉄板にして、ピタパンを焼こうかなーと」
声にならない様子で桔平の顔が歪む。本当は藤の花や、病院の温度を活かしたものを利用するつもりだったが、知らない場所で何かをするとなればいよいよ難しい。
結果としてそうするつもりだったのが、やはり発想自体正気ではない。そのことを桔平の態度が大いに物語っていた。
「撤回するわ。友達じゃねえよ、こんな奴」
そんなことを言っても彼は友人を見捨てられない。彼は藤吾を見捨てるチャンスは過去に二回あったのだ。三回目の正直ってことで、口ではどうこう言っても藤吾を見限ることはない。
先程のハグによってその確信を得ている藤吾は最早無敵だった。
腕時計を外し、リュックサックから除菌シートを取り出して指まで丹念に拭う。
白い粉が入ったジップロックに水と塩とオリーブオイルを適量流し込めば、ジップロックの袋越しに揉み始めた。
桔平の怯えるような視線を横目に、ある程度粉と液体を馴染ませれば、袋の中に手を突っ込んで生地を纏めていく。指の間をグニュグニュと生地が絡む感触を楽しみつつ、準備を終えれば除菌シートで念入りに張り付いた生地を拭った。少しだけ指がペタつく。
そして手に取ったものは、壁に掛けられていた古めかしいスコップだ。長時間放置されていたのか、錆が浮いているが藤吾が気にかけるようなことではない。
手で土を払って、除菌シートで拭いていく。
「あのさ。祀られている石碑を欠片とはいえ、鉄板にするのがどんだけ罰当たりが分かってる?」
「あったり前だろ。俺は呪いで死にてえんだから、罰当たり上等上等」
桔平以外のことなんて、最早眼中にない。誰かに咎められようと呪われようと知ったこっちゃないと鼻で笑いながら、ガスコンロの上にスコップを乗せた。
が、それを桔平が手で払い退けた。
「いやいや待て待て、言いたいことは分かるよ」
「分かってんならやめろ!」
“すき焼き”という料理がある。日本人であれば一度は口にする機会があるだろう、牛肉を甘辛いタレで煮込んだ料理。
「鋤って農具を熱して作ったことから、すき焼きって呼ばれるようになったらしいぞ。だからこれも立派な料理に……」
言い切るより前に、桔平はスコップをぶん投げた。
野球部でもないのに綺麗な投擲フォームだ。クルクルと横回転しながら、炭鉱の奥へと消えていく。遠く遠くで地面に落ちる音が聞こえた。
桔平は肩を怒らせ、投げたスコップの方向を見続けている。そんな彼を横目に、リュックに腕を突っ込んだ。そうして使い捨てのアルミプレートを取り出す。
直火で使えるそれは、万が一のことを考えて用意していた代物。いわゆる保険だ。
「桔平くんにもちゃんとしたの食べさせたいから、今日はこいつを使いまーす」
ガスコンロの上にカコンと乗せる。軽い素材だからか、生地を乗せるまでは指で抑えないと安定が悪いが、風も吹いていない洞窟内であれば何とかなるだろう。
5分ほど寝かせた生地を一つに丸めた。それを潰して平たく伸ばして、アルミプレートの上に乗せる。オリーブオイルを塗っていたおかげか、じゅわっと生地が焼ける音と共に小麦の匂いが立ち上った。
そこで、洞窟内で火を扱う危険が今更過ぎった。
ここは坑道だ。蓄積したガスに引火するか、二酸化炭素中毒を起こすか。命に関わる考えが2パターンも思いついたが、まあいいやと開き直って生地を素手でひっくり返した。
少なくとも、ここでうっかり死ねるなら一人ではなく桔平も一緒だ。彼がそれをどう思うか分からないが、藤吾にとってはそれもハッピーエンドに過ぎないとあえて黙っておくのだった。
「あっちち」
ぷくーっと生地が膨らんでいき、こんがりと綺麗な焼き目がついた。大成功だ。桔平の目の前で、それを二等分にカットすれば、ふかっと湯気が立ち上る。
ピタパンの膨らんだ真ん中は空洞だ。その中にティースプーンでジャムを救って詰め込んでいく。
「ほれ、桔平」
アルミ皿に乗せられた半分のピタパンを差し出した。
意外にも、桔平は素直にその皿を受け取る。ぐう、と腹の音が隣から響いた。
「……悔しいけど、美味そう」
生地の熱で温められたジャムの香りは芳しい。それが桔平の食欲を刺激したのだろうか。
悔しいけど、と顔を顰められようと作ったものを美味しそうだと評されるのは当然嬉しい。
「冷めないうちに食ってよ」
「……これで腹壊したら、責任取れよ。頂きます」
桔平の歯がサクッと音を立ててピタパンを齧る。もぐもぐと咀嚼する様子を観察するように横から眺めてしまった。
少しだけ小鼻を膨らませながら、桔平は一口目を飲み込む。
「美味い」
ボソリと溢した一言に、頬がみるみると緩む。今度は自分もと、藤吾は手にしたままだったピタパンを頬張った。
さっくりとした生地の中に詰まったジャムは、昨日と同じく芳醇で甘い。温まったせいでとろみが減って、生地から溢れたジャムが指を汚した。少しだけ食べにくいが、それでも問題ないくらいに生地とジャムの相性は抜群だ。
香ばしい焼けた小麦と、僅かに舌に残るオリーブオイルも、即席で作ったとは思えぬくらいに上等だった。
流れ出ようとするジャムに苦戦しながら、二人は黙々とピタパンを頬張る。咀嚼する二つの音が洞窟内に響く、この時間はどこか和やかだった。
「ご馳走様」
皿を空っぽにして、桔平が両手を合わせた。
「ん、お粗末さまでした」
指に残ったジャムを舐め取りながら藤吾が返す。
食べている間に熱が引いたガスコンロから、ボンベを抜いて箱に戻していく。使ったアルミ皿はくしゃくしゃに丸めてビニールに入れて、袋の口を縛った。
しかし、ここから道を戻るのは正しくないような、そんな予感がする。こういう時に感じる藤吾の嫌な予感は大体当たるのだ。
「桔平?」
不意に、彼が立ち上がって来た方向と反対側を向く。また、様子がおかしくなったかと思ったがどうやら違うらしい。
そして彼が向いた方向から突如、暖かな風が流れ込んできた。
「……こっちだ」
風に流されて紫色の花弁が転がってきた。じっくり見なくても分かる。藤の花だ。二人分のリュックを引っ提げて藤吾も立ち上がる。
桔平が藤吾の手を自然と握るのは、この先に何があるか分からない不安からか。それとも、必要としてくれているからなのか。
──俺、頭おかしいから桔平の考えてること全然分かんねえや。
それでも、と。指を絡める桔平の手を握り返しながら、風が吹く方向へと進んで行った。
どっと疲労が襲った。無意識のうちに長い長い溜め息が漏れる。
「なあ、朝も言ったけどさ……。顔どうしたんだよ」
ただでさえ溜まった疲労が益々重くなる。
「何でそんなこと聞くんだよ」
笑みを浮かべる表情から発せられたとは思えぬくらい、言葉に棘が目立った。藤吾の隣に座り込んだ桔平が横から顔を覗き込む。
何、と口を開きかけたが声にならない。ちりつく感情を一瞬でも忘れるくらい、その顔は端正だったからだ。
藤吾好みの顔が曇る。睫毛を伏せて絞り出すように言う。
「お前のこと、頭おかしいって思ってるよ。それでも……友達だと思ってる。だから心配してんの。いい加減事情くらい聞かせてくれないか」
桔平はイイヤツだ。嫌味がない性格で、バスケ部ではセンターのポジションで、こんな頭がおかしい男のことも見捨てられない。
だから藤吾は桔平が好きだった。なのに、その真っ直ぐさが今は苛立ちを誘った。
「俺はさ、桔平のこと恋愛対象として好きだよ。だから……、だからさあ。友達って言い切るの、今くらいはやめてくれねーかな」
同時にホッとしていた。母親と同じように当たり散らさずに済んだことに。
「……悪い。じゃあ、それはやめるから話せって。誰にも言わないから」
心底申し訳なさそうに桔平の表情が歪む。しかし藤吾の表情も同じだ。各々胸に引っ掛かるものを感じながら、会話を続けた。
藤吾は極めて明るく声を張り上げる。場違いなほどに明るくだ。
「俺んとこの母親、俺以上に頭パーになってんの。数ヶ月前に父親が浮気して出てってから。 んで、俺がママ〜って呼ぶと発狂しちゃってさあ。だから“明美ちゃん”って呼んだりなんかして」
桔平の持つスマホのライトがチカチカする。揺らぐ光に照らされる自分は今、笑顔でいられているか藤吾は自信がなかった。
だから大袈裟なくらい口角を吊り上げ、身振り手振りを加えた。
「そいで、俺が夏休み中に家にいないモンだから、ブチ切れちゃって。もー、父親似のイケメンのツラをボッコボコよ。あー、でもまだ拳じゃなくってビンタなだけ愛情あるのかもー?」
演技がかったボディランゲージはまるで子供向けアニメのように大袈裟だ。 ブンブンと振りかぶる腕に、縮こまったり伸び上がったりする体、揺れ動く頭も、全部が忙しない。
「……俺のこと、友達として好きなんだろ」
おどけた動きが止まる。
桔平の腕の中に藤吾の体が収まっていた。誰かの体温を全身で享受するのはどれ程久しかっただろうか。
桔平の血迷ったとしか思えぬ行動を、咎めるための言葉を口にした。しかしその声は震えてしまった。
「友達を慰めるのにハグしちゃ悪いのかよ」
やっぱり、桔平はイイヤツなのだ。
相手が望むものを察して、それを先回りして与えるような優しさを持っている。
だが、それが残酷だって誰も教えなかったのだろう。
欲しい人から欲しいものを与えられているのに、これを一生手にしたままでいられないことの辛さをきっと彼は分かっていない。与える側の人間は、それを理解できないのだ。
だからこそ、与えられる側は絞り出すような声でこう言うしか無かった。
「……ありがとよ」
イイヤツの隣に立つには、イイヤツの振る舞いが必要だった。気がおかしくなったとしてもそれは藤吾の身に染み付いている。
だからこそ、鬱屈とした感情を呑み込んで感謝を伝えた。
彼の肩に顔を押し付け、感情の波が凪ぐのを待つ。気付かぬうちに手足も震えていたらしい。その震えが治るまでの時間、桔平は藤吾を抱き締めていた。
「フジの言ってた通り、最近ちゃんと食えてなかった」
「……え?」
「バスん中の話の続きだよ。聞き出すだけして聞き出して、黙っとくのは良くないかって思っただけ」
ようやくハグを終わらせると、再び桔平は横に座った。そうして右手を藤吾に差し出す。
「今日も何か持ってきてんだろ。出せって」
桔平のどこか開き直ったような態度に、やや戸惑いながら藤吾はリュックサックのジッパーを下ろした。しかし、今日入っているラインナップは予定が狂ったせいで整合性に欠けたものになっていることだろう。
自信なさげに一つずつ桔平の手に置いていった。
まず一つ目は、計量済みの薄力粉と強力粉が入ったジップロック。塩。そして水とオリーブオイル。キャンプ用品売り場のセールで買った、小型のガスバーナー式のコンロ。そして先程も見せた藤のジャムだ。
桔平はそれらを床に置いた自分のリュックの上に並べていき、最後に藤吾を睨んでいた。しかし殴らないのはきっと先程の話を聞いたせいだろう。
しかし、有り余る感情によって桔平の息は浅くなっていた。
「待てって。ほらイースト菌はないって嘘ついてねえだろ」
「結局パン作りの材料じゃねえか。犬塚で何する気だったんだよ?!」
話せば長くなると訴えて、前のめりになる桔平を落ち着かせる。
「犬塚と言えば、石碑だし。それが割れたんなら一枚位、いい感じのサイズの石があるだろうなってことで。その石碑の破片を鉄板にして、ピタパンを焼こうかなーと」
声にならない様子で桔平の顔が歪む。本当は藤の花や、病院の温度を活かしたものを利用するつもりだったが、知らない場所で何かをするとなればいよいよ難しい。
結果としてそうするつもりだったのが、やはり発想自体正気ではない。そのことを桔平の態度が大いに物語っていた。
「撤回するわ。友達じゃねえよ、こんな奴」
そんなことを言っても彼は友人を見捨てられない。彼は藤吾を見捨てるチャンスは過去に二回あったのだ。三回目の正直ってことで、口ではどうこう言っても藤吾を見限ることはない。
先程のハグによってその確信を得ている藤吾は最早無敵だった。
腕時計を外し、リュックサックから除菌シートを取り出して指まで丹念に拭う。
白い粉が入ったジップロックに水と塩とオリーブオイルを適量流し込めば、ジップロックの袋越しに揉み始めた。
桔平の怯えるような視線を横目に、ある程度粉と液体を馴染ませれば、袋の中に手を突っ込んで生地を纏めていく。指の間をグニュグニュと生地が絡む感触を楽しみつつ、準備を終えれば除菌シートで念入りに張り付いた生地を拭った。少しだけ指がペタつく。
そして手に取ったものは、壁に掛けられていた古めかしいスコップだ。長時間放置されていたのか、錆が浮いているが藤吾が気にかけるようなことではない。
手で土を払って、除菌シートで拭いていく。
「あのさ。祀られている石碑を欠片とはいえ、鉄板にするのがどんだけ罰当たりが分かってる?」
「あったり前だろ。俺は呪いで死にてえんだから、罰当たり上等上等」
桔平以外のことなんて、最早眼中にない。誰かに咎められようと呪われようと知ったこっちゃないと鼻で笑いながら、ガスコンロの上にスコップを乗せた。
が、それを桔平が手で払い退けた。
「いやいや待て待て、言いたいことは分かるよ」
「分かってんならやめろ!」
“すき焼き”という料理がある。日本人であれば一度は口にする機会があるだろう、牛肉を甘辛いタレで煮込んだ料理。
「鋤って農具を熱して作ったことから、すき焼きって呼ばれるようになったらしいぞ。だからこれも立派な料理に……」
言い切るより前に、桔平はスコップをぶん投げた。
野球部でもないのに綺麗な投擲フォームだ。クルクルと横回転しながら、炭鉱の奥へと消えていく。遠く遠くで地面に落ちる音が聞こえた。
桔平は肩を怒らせ、投げたスコップの方向を見続けている。そんな彼を横目に、リュックに腕を突っ込んだ。そうして使い捨てのアルミプレートを取り出す。
直火で使えるそれは、万が一のことを考えて用意していた代物。いわゆる保険だ。
「桔平くんにもちゃんとしたの食べさせたいから、今日はこいつを使いまーす」
ガスコンロの上にカコンと乗せる。軽い素材だからか、生地を乗せるまでは指で抑えないと安定が悪いが、風も吹いていない洞窟内であれば何とかなるだろう。
5分ほど寝かせた生地を一つに丸めた。それを潰して平たく伸ばして、アルミプレートの上に乗せる。オリーブオイルを塗っていたおかげか、じゅわっと生地が焼ける音と共に小麦の匂いが立ち上った。
そこで、洞窟内で火を扱う危険が今更過ぎった。
ここは坑道だ。蓄積したガスに引火するか、二酸化炭素中毒を起こすか。命に関わる考えが2パターンも思いついたが、まあいいやと開き直って生地を素手でひっくり返した。
少なくとも、ここでうっかり死ねるなら一人ではなく桔平も一緒だ。彼がそれをどう思うか分からないが、藤吾にとってはそれもハッピーエンドに過ぎないとあえて黙っておくのだった。
「あっちち」
ぷくーっと生地が膨らんでいき、こんがりと綺麗な焼き目がついた。大成功だ。桔平の目の前で、それを二等分にカットすれば、ふかっと湯気が立ち上る。
ピタパンの膨らんだ真ん中は空洞だ。その中にティースプーンでジャムを救って詰め込んでいく。
「ほれ、桔平」
アルミ皿に乗せられた半分のピタパンを差し出した。
意外にも、桔平は素直にその皿を受け取る。ぐう、と腹の音が隣から響いた。
「……悔しいけど、美味そう」
生地の熱で温められたジャムの香りは芳しい。それが桔平の食欲を刺激したのだろうか。
悔しいけど、と顔を顰められようと作ったものを美味しそうだと評されるのは当然嬉しい。
「冷めないうちに食ってよ」
「……これで腹壊したら、責任取れよ。頂きます」
桔平の歯がサクッと音を立ててピタパンを齧る。もぐもぐと咀嚼する様子を観察するように横から眺めてしまった。
少しだけ小鼻を膨らませながら、桔平は一口目を飲み込む。
「美味い」
ボソリと溢した一言に、頬がみるみると緩む。今度は自分もと、藤吾は手にしたままだったピタパンを頬張った。
さっくりとした生地の中に詰まったジャムは、昨日と同じく芳醇で甘い。温まったせいでとろみが減って、生地から溢れたジャムが指を汚した。少しだけ食べにくいが、それでも問題ないくらいに生地とジャムの相性は抜群だ。
香ばしい焼けた小麦と、僅かに舌に残るオリーブオイルも、即席で作ったとは思えぬくらいに上等だった。
流れ出ようとするジャムに苦戦しながら、二人は黙々とピタパンを頬張る。咀嚼する二つの音が洞窟内に響く、この時間はどこか和やかだった。
「ご馳走様」
皿を空っぽにして、桔平が両手を合わせた。
「ん、お粗末さまでした」
指に残ったジャムを舐め取りながら藤吾が返す。
食べている間に熱が引いたガスコンロから、ボンベを抜いて箱に戻していく。使ったアルミ皿はくしゃくしゃに丸めてビニールに入れて、袋の口を縛った。
しかし、ここから道を戻るのは正しくないような、そんな予感がする。こういう時に感じる藤吾の嫌な予感は大体当たるのだ。
「桔平?」
不意に、彼が立ち上がって来た方向と反対側を向く。また、様子がおかしくなったかと思ったがどうやら違うらしい。
そして彼が向いた方向から突如、暖かな風が流れ込んできた。
「……こっちだ」
風に流されて紫色の花弁が転がってきた。じっくり見なくても分かる。藤の花だ。二人分のリュックを引っ提げて藤吾も立ち上がる。
桔平が藤吾の手を自然と握るのは、この先に何があるか分からない不安からか。それとも、必要としてくれているからなのか。
──俺、頭おかしいから桔平の考えてること全然分かんねえや。
それでも、と。指を絡める桔平の手を握り返しながら、風が吹く方向へと進んで行った。
