呪いは皿の上で

 次の日、藤吾と桔平は三箇所目の五災厄へと向かっていた。
 その場所は先日話に出た、市の境にある山だった。話の流れ的に、次はそこだろうと2人に意見は一致した。
 そこには犬塚と呼ばれる碑とも呼べないような、石が置かれているらしい。
 らしい、というのは2人はそれを見たことがないからだ。そして、それを見た者も身近にはいない。
 その噂には補足があった。去年、落雷でその石碑が砕かれたという内容だ。それを直そうと向かった業者は、皆首を傾げながらこう言うという。
 「石碑がどこにもなかった」と。

「なあ」

 昨日と違い、天気は曇り。どんよりとした分厚い雲が空を塗り潰していた。
 今にも雨が降り始めそうな湿気も不快だ。息も詰まるような湿り気の中、桔平が藤吾に声をかけた。

「どうしたんだよ、その顔」

 心配そうに顔を顰め、藤吾の顔を指した。腫れこそしなかったが薄っすらと痣が顔に浮かんでいた。唇の端も切れている。それをへらと笑う。いつものように。
 すれば、ピシッと唇の瘡蓋が割れて血が滲む。ペロリと舐めれば苦い味が味蕾に響いた。

「あー、イケメンになったろ?」
「冗談言えるような傷じゃないだろ。何があったんだよ」
「……別に何もねえって」

 軽い口調でサラリと流すのは、説明するのが面倒だからだ。それに理解されたい気持ちも藤吾にはない。ただでさえ今は桔平に時間がないのだ。同情されるような時間さえ惜しい。
 おい、と桔平に呼びかけられようがそれをまるっと聞かないフリをして廃坑山へと向かった。気まずい空気が支配するより先に、藤吾はリュックから小瓶を差し出した。

「昨日、藤の花でジャム作ったんだよね。後で食おうぜ」

 何も気にしていないと軽い言葉にけらけらと笑う。そんな藤吾を横に、まだ桔平は何か言いたそうだった。

「ジャムはいいけどさ、お前の方が心配だよ。それも呪いの影響だったりしないよな?」

 言いたそうな顔だけにしておけばいいのに、と口の中で呟いた。彼の耳に届かない言葉をぼやく。瓶を握る腕を下ろした。
 藤吾は桔平に家庭のことを話したことはなかった。それでいいと思っていたのだ。彼と関わる時間に煩わしいものを持ち込みたくない一心で。

「呪いだったら、この上なく嬉しいよ」

 澄んだ紫のジャムが入った瓶の蓋を開ける真似をしてなお笑う。開けてもいないのに、甘い香りを感じた気がした。
 気まずくなりたくなくて言葉を続けた。だが、送ったラブコールに桔平から返事はなかった。
 いっそ雨が降って傘を差せれば、桔平の表情を覗き見るような真似もしなくて済むのに。そんなことを考えて曇天を睨んだ。

 市の境にある鉱山までの道のりは長い。駅前から出ているバスを経由する必要があった。そう多くもない本数のバスに乗り込み、2人は一番後ろの椅子に並んで座った。その間、言葉はなかった。
 疲弊していたのが理由でもあったが、互いに腹を探り合っているような気配に支配されていた。その支配から逃れる術はなく、顔を背け合うように窓の外を眺めていた。駅のロータリーを抜け、住宅街を過ぎ、徐々に人気が失せていく。
 ガタガタと揺れる窓に雫が垂れた。今更、藤吾の願いが叶ったらしい。
 窓ガラスを濡らす雨粒の奥に、何かが見えた。思わず身を乗り出す。

「犬?」

 夏の太陽に育てられた、高い草の中に何かが見えた。黒い四つ足の獣らしいそれは犬のようだ。

「いや、狸じゃないのか。流石にこの時代に野犬はいないだろ」
「……それもそうか」

 桔平の言葉にも一理ある。サイズ的にも狸と見間違えてもおかしくない。鈍臭い狸であれば、餌を求めて路上に近づいてくることもあるだろう。
 藤吾は窓からの景色を眺めることにも早々に飽きた。背もたれに背を預けながら、ようやく桔平の方へと顔を向ける。
 少しだけ、隈が濃くなったようだ。バス内が暗いせいもあるだろうが、顔色もあまりいいとは言えない。

「桔平、ちゃんと飯食ってる?」

 何となく。実に何となくだ。藤吾は何も考えずに問うた。

「……食ってるよ」

 桔平が自らの耳朶を撫でる。その仕草は後ろめたいことがある時にする、彼の癖だった。
 それを藤吾は指摘したことがあった。それを桔平も思い出したのか、慌てて手を膝の上に下ろす。その手を問答無用とばかりに藤吾が握った。
 じっとりと冷たい。

「昨日、何食ったの。魚?肉?」
「そ、れは……」

 黒目がキョドキョドと揺れ動く。手の中に押さえ込んだ指がピクピクと小動物のように跳ね回っていた。それを押さえ込んで感じるのは、ある種の興奮だった。
 少しだけサディスティックとも言えよう、その仄暗いような心地のままに欲望を口にした。

「なあ、チューしていい?」

 その言葉に嘘はない。こうやって自分の言葉に戸惑う彼を見ることにも、動きを抑え込むことにも、どうにも喜びを感じてしまう。
 薄っすらとした支配欲を自覚しながら真顔で聞くのだった。

「頼むから死んでくれ」

 言った後に、桔平の指がピクっと跳ねた。顔は窓側に向いているが、彼が後ろめたさを感じているのが筒抜けだ。
 彼のその分かりやすいところも好きだった。心の底からキスしたくなるくらい。

「もーちょいだから待ってろよ」

 窓ガラスは雨が打ちつけて、もう外の様子は伺えなかった。なのに、桔平は藤吾を見ることなく外を眺め続けていた。

 手を離すことなく、20分程。お互いの体温の境目すら曖昧になった頃にバスは目的地に停まった。
 ようやく手を離せば、手の内に汗をかいていたことにようやく気づく。小銭で乗車金を支払い、降りた先に待っていたのは山の麓だ。
 傘を叩く雨粒の振動を感じつつ辺りを窺った。
 そこには待っていましたとばかりに、バス停の脇に石碑が設置されている。藤吾よりやや低い高さのそれに連なる文字を目で追った。
 しかし、何が書いてあるのか解読は難しい。踊るようにくねった筆文字は漢字が書かれているのか、それとも平仮名なのか。全くもって読み取れない。
 藤の花が語った内容なのではないかと直感はする。しかし、漢語も古文も補修をギリギリ逃れている藤吾には解読は不可能だった。

「読めねー……」

 途方に暮れたように桔平がぼやく。藤吾と同じく、補修組を寸での所で逃れている彼も解読できなかったらしい。代わりに桔平はポケットからスマホを取り出した。
 スマホに雨が掛からないよう、桔平に傘を傾けてやればシャッター音が聞こえた。中腰から背を伸ばす桔平に合わせて、傘の傾きを戻す。

「この写真、後で藤棚の人に見せてみようと思って」
「あー、なるほどね」

 彼女であれば、石碑の内容も難なく解読することだろう。そんな信頼があった。
 しかし、藤棚の人という呼び方はどうなのだろうか。藤棚の怪異とも呼ばれていたが、彼女を何と呼べばいいのか。
 「藤花さん」「藤頭」「藤さん」。色々と思案してみるものの、気の利いた呼び名も思いつかない。
 早々に諦めて、2人は歩道とも言えないほどに細い道を前後に並んで歩いて行った。
 時々傘の縁をぶつけ合って、黙々と道を進んでいく。傾斜は緩やかだが山道だ。
 鬱蒼とした木々が立ち並び、湿気の濃度が濃くなっていくばかり。それくらい酸素が薄かった。

「うわっ!?」

 前方を進んでいた桔平が悲鳴を上げる。

「どうしたよ?」
「また狸だ。びっくりさせやがって……」

 傘を持つ反対の手で桔平が指差す。確かにガサガサと茂みが揺れ動いていた。だが、何となく引っかかった。

「なあ、狸って夜行性じゃなかったっけ?」

 確か、テレビでやっていた動物番組の記憶を手繰り寄せる。確かにその番組では狸は夜行性で、夜な夜な畑にやってきては作物を齧って農家を辟易させていた。
 桔平が藤吾の言葉に振り返る。右目は傘に隠れて見えなかった。だが、ビニール傘越しにまた瞳が淡く光を発しているのが分かった。
 以前も、桔平の目が淡く輝くのを見た。病院であの女の霊が近づいてきた時に。
 もしかすると、霊の接近に伴って輝いているのではないか。行き着いた考えに冷たい水を浴びたようにゾッとする。

「右目、変な感じしねえの?」

 病院にて、彼は焼けるようだと異変を訴えていた。その時は表情も強張っていたが、今はそんな様子はない。逆にそれが不穏だった。
 道の脇の茂みがザワザワと揺れる。その揺れ動く草葉の勢いは暴風に晒されているかのように大きく、絶え間ない。

「……それが」

 茂みの揺らぎは、すぐ近くの木にまで及ぶ。グラグラと太い幹を揺さぶり、生い茂った青い葉が揺れた。葉が数枚落ちて、傘に張り付いた。
 
「ずっと変な感じ続いてて、もう分からないんだ」

 桔平の手から傘が落ちる。その右目の瞳孔にはくっきりと三画目が刻み込まれていた。血のように赤く輝く右目を桔平が手で庇う。指の隙間からやはりぼんやりとした輝きが漏れ出ていた。
 そんな桔平の隙を待っていたように、茂みから何かが飛び出した。

「桔平!」

 叫ぶように名前を呼んだ。腕を掴んで、場所を入れ替える。反射的に開いた傘を突き出せば、傘部分に何かがぶつかった。
 それは、狸……と呼ぶには何か歪だった。
 長く真っ黒な毛に覆われてはっきりと顔は見えない。一部、毛が抜け落ちているのかやけに血色のいい肉色が覗き見えた。
 長い毛を捲き上げるように浅い呼吸をリズムよく繰り返している。そのせいでチラチラと肉色が見えてゾッとした。
 地面を踏む四つ足は、所どころ肉が抉れて骨が見えている。しかしおかしいのは背骨を突き出るように生えた骨だ。
 細かな関節を出鱈目に組み合わせたようなそれは、呼吸に合わせてヒクヒクと動く。
 僅かに残った毛が揺れ動く様は、水底に生えた藻のようだ。
 病院で嗅いだ時と同じ、嫌な匂いがした。しかし、今度はその匂いが何か分かる。
 腐った獣の被毛だ。

「何だよ、コイツ……」

 桔平を庇うように腕に抱きながら、じりと一歩下がる。開いた分の距離を埋めるが如く、獣はこちらへと近づいた。
 明確な悪意を肌で感じていた。暴力の気配に藤吾は冷たい汗に濡れる。
 突如、生温い風が渦を巻いて吹き荒ぶ。風によって獣の長い毛が流れて、その顔が顕になった。
 充血した白目。瞬きもせず血走った視線をこちらに突きつけているそれは女性の顔だった。
 黄ばんだ歯を剥き出しに唸り声を上げている。

「逃げるぞ!」

 桔平の二の腕を掴んで、来た道を戻る。桔平もようやく意識を戻したらしい。返事をするよりも先に、慌ててぬかるんだ道を駆け出した。
 落とした傘も拾わず、全身ずぶ濡れになりながら道を戻る……筈だった。下り坂になっている筈なのに、足は重くなる一方。
 まるで急な傾斜を登っているかのような重力を感じるのは藤吾だけではない。疲弊で息を切らす、桔平も同じだ。

「クッソ、まだ追ってきてやがる……!」

 付かず離れずの距離を保ったまま、異形の獣は2人を追っていた。不気味なのが、こちらが足を止めれば彼方も足を止めて様子を窺っている。
 一生このまま追われ続けるのではないか?そんな湿度を感じる悪意を感じた。
 パンパンに腫れた脹脛に鞭打ち、一歩一歩進む。足裏に斜面を感じた。靴底が滑る。
 雨は止むどころが強さを増している。肌を叩く雨粒は痛いほどだ。視界も雨に遮られ、一メートル先もよく見えない。間違ってでも逸れないように、桔平と藤吾は手を繋いで先を急いだ。
 しかし、雨が潜り込んで滲んだ視界でも、そこにバス停はないことだけは分かった。別世界に隔離されたような感覚に、不安が込み上げる。

 霧がかかったような視界の奥、聳え立つ何かが現れた。2人を待ち侘びていたように。
 それは、山肌にぽっかりと空いた穴だ。
 一寸先も見通せぬ闇が潜んでいる。深淵と呼ぶに相応しい、生者を拒む空気が渦を巻いていた。
 外観こそ、木枠で支えられたその穴は、歴史資料で見るような炭鉱のトンネルだろう。しかし、入ろうという意思は前に立つだけで挫かれていく。そんな不気味な威圧感に圧倒されていた。
 
「五災厄の、四つめって覚えてる?」

 桔平が不安そうに問う。藤吾は頷いた。
 四つめ……それは炭鉱場だった。
 だが分かっているのはそこまで。その炭鉱場に足を踏み入れると何が起きるのか。何を持ってそこが忌み地として扱われているのか、情報がないのだ。
 あの獣はその場所に追い込むために、ここまで牙を剥かなかったのだろう。それを察すると足が竦んだ。
 その予想を裏切らず、獣は身を低く構え後ろ足で地面を蹴った。桔平に飛び掛かるつもりなのだ。しかし桔平もただ怯えるだけではない。
 手を離して身を翻して避ければ、飛びかかる獣の脇腹を脛で蹴り付けた。最近はサボりがちだったは言え、流石はバスケ部員。センターを務める桔平の蹴りは鋭い。
 ギャンっと鋭い悲鳴を上げて、泥の中に獣が倒れる。うう、うう、と小さく呻いて震える姿は哀れみを誘った。

「フジ、行くぞ!」

 このまま、雨の中を彷徨っても体力を消耗するだけだ。それならばトンネルに進むしかない。腹を括って桔平が手招くトンネルに足を踏み込んだ。
 硬い土をざくりと踏む。ぬかるんでいた道とは違い、幾分歩きやすいのはここが踏み締められて固くなっているからなのだろう。
 歩き始めて10歩。不安になって入り口を振り返った。
 そこにあの獣はいない。
 だが、戻れば次はないような……そんな圧を感じて身震いをした。

「なあ、目の方は大丈夫?」
「ん……」

 何とも歯切れの悪い返事だ。暗がりの中、右目はやはり淡く光っている。
 痛みがないのならば放っておいてもいいのかもしれない。だが、好きな相手の異変を無視ができる程、真っ当な人間ならばこうはなっていない。
 なあなあとうざったく声を掛ける藤吾を半ば無視をするのも、いつものことだ。
 桔平がスマホのライト機能でトンネル内部を照らし上げる。赤茶けた土の壁と、それを覆う木の枠と板。少しだけ雨が漏れているのか、天井からパタパタと雫が滴っていた。
 それ以外に特に変わったことはない。
 変わっているところを指摘するとすれば、少し鉄臭いような気がした。

「ここなら、いい奈良漬作れるんじゃないか」

 皮肉だろうか?と思うより先に口に出して聞いていた。
 
「この湿度だとカビるかも。病院はさ、湿度が強くないから奈良漬ができたんであって……。おい、先に行くなって。お前が聞いたんだろ」

 足早に進むその背中を追いかける。振り向きもしないその背中に、話を続けていく。

「この温度と湿気なら、パンなら向いてるんじゃねーかな。第一度発酵とかにちょうど良さそう」

 高温多湿なトンネル内にその声はよく響く。
 顎に手を当てた藤吾の肩を、振り向いた桔平が勢いよく掴んだ。

「まさか、ここでパン生地作るとか言わないよ、な……?」
「できるならしたかったけど、イースト菌とか持ち歩いてねーから無理!」

 無理という言葉にホッと、桔平の緊張が解ける。それどころかその場にへなへなと蹲った。

「……ちょっと休もうぜ。足攣りそうだし喉乾いたし」