呪いは皿の上でほどける

「ただいまー。可愛い息子のおかえりですよーっと」

 玄関には脱ぎ捨てられたパンプスが落ちている。爪先が扉に向くように綺麗に並べてから藤吾は家に上がった。
 家の中は薄暗く、リビングも灯りがついていない。どうやら寝ているようだ。なるべく足音を立てないよう、起こさないように気を遣いながら廊下からキッチンへと向かう。その際、何を思ってか花の入った袋をリュックに隠した。
 その何気ない行為が正しかったことを理解したのは、ほんの数秒先のこと。
 アイランドキッチンに向かう途中、リビングに彼女がいることに気がついてしまった。
 ソファーに座ったまま項垂れて顔も上げない。カリカリと爪を擦り合わせる音を規則正しく響かせていた。

 ──今日はダメな日か。

 声に出さず、諦念の呟きを溢した。口の端が引き攣るのを笑みの形に押し込め、電気のスイッチを探り当てる。

「起きてたの、明美ちゃん。すぐ夕飯作るから──」
「どこ行ってんの、私のこと放って毎日毎日……」
 
 唸るような声で問われる。藤吾は言葉に詰まり、沈黙の間を埋めようとカチカチと電気のスイッチを爪で弾いた。

「明美ちゃん、薬飲んだ?飲んでないならお水持ってく──」
「質問に答えなさいよ!」

 スイッチに触れる手に何かが投げつけられた。引っ込めるのが間に合わず、その勢いでスイッチを押し込んでしまう。パッと照らされたリビングは惨状としか言いようがない。藤吾は状況の悪さを察して俯いた。
 出かける前に片付けたのに、ティッシュや紙屑が散らばっている。彼女のために作った食事は空っぽだが、皿もそのままだった。潰れた目玉焼きの黄身が、皿の淵にカピカピにこびり付いている。
 
 どうやら投げつけられたのはグラスだったようだ。ゴロゴロと転がっていくそれを視線で追いかける。
 グラスがぶつけられた痛みは強く残る。手の甲の骨がジンジンと疼き続けた。触れたそこだけ熱を持っている。
 手の甲を庇う、そんな仕草さえ気に入らないのだろう。
 「被害者ぶったりして!」と激しく罵り、床に落ちたゴミを蹴散らしながら迫り来る。
 そんな彼女に力ない笑みを取り繕った。父親みたいに暴力さえ振るえれば勝てるだろうに。それをするだけの勇気がない自分に自嘲するばかりだった。

「桔平のとこだよ。だってアイツもうすぐ死ぬじゃん。だから」

 その言葉は頬を張られて途切れた。鋭い痛みに、またへらへら笑った。

「ママだってもう少し遅かったら死んじゃうところだったんだからさあ!少しは考えてよ。パパももういないんだよ!この家には藤吾とママしか!」

 ヒステリックな声も羅列する言葉も聞き慣れたものだ。父親は慣れる前に出て行ったらしいが、その判断は正しいだろう。そして、藤吾を置いて行ったこともだ。
 彼が一人息子を顧みずに置いていかなければ、桔平と出会うこともなかった。だから藤吾は父を恨んではいなかった。そして母親のことも。どれだけ辛く当たられようと、この家を手放さずにいてくれることに感謝していた。
 誤魔化すような笑みを浮かべる顔を何度も肉のついた手が襲う。右、左と交互の頬を殴られながら考えるのは一つだけ。
 病院で桔平に殴られた時の方が痛くなかったな、と。レースのカーテン越しに日が落ちていくのを眺めながらぼんやりと思うのだった。

「ごめん。ごめんって明美ちゃん。俺がもっとしっかりするから」

 卵の薄皮を隔てたような感覚に包まれる中、母親に媚びるのも慣れたものだ。ひとしきり暴力を振るった母親を寝室にまで連れて行き、布団を被せながら求められる息子を演じる。
 形だけの謝罪を口にしながら彼女の背中をトントンと叩いてあやした。老女のように丸まった背中は震えていた。何かをボソボソ呟いているようだ。だが、その内容はきっと家を出て行った藤吾の父か、藤吾本人への恨み言だろう。それが聞こえなくなったら解放の合図だ。
 薬でむくんだ瞼が閉じているのを何度も確認してから、彼女の寝室を静かに出て行く。
 その頃にはとっぷりと日が暮れていた。
 グラスがぶつけられた手の甲は腫れ上がり、顔もうっすらと赤くなっている。放っておけば痣になるだろう顔に保冷剤を当てがった。
 藤吾は疲弊していた。精神的にも肉体的にも。だが、まだベッドに入るわけにはいかない。
 なけなしの気力を振り絞った。リュックから花弁が入った袋を取り出し、その足で今度こそキッチンへと向かう。

 ザルに花弁を入れてまずは軽く水洗い。ざっくりと水を切ってから、小鍋に紫の花弁を丁寧に移す。小鍋に敷き詰められた花弁に砂糖を振り掛け、さらに水分を抜いていった。
 その際、引っ掛けてできた薬指のささくれに砂糖が染みた。その痛みもヘラヘラと笑って無視して、作業を続けていく。リビングの惨状に背中を向けた、アイランドキッチンは狭い。
 市販のレモン果汁を小鍋にひと匙加え、コンロに火を灯す。円を連ねる炎で温められた砂糖が、とろんと煮崩れるのは直ぐだった。
 砂糖の甘い匂いと花の淡い香りが立ち上る。その香りを顔で受け止めながら、ずるずるとその場に蹲った。膝に顔を埋めておきながら涙の一つも流せない。
 あるのは、異常なまでの焦燥だった。
 藤吾は桔平に残れた時間の少なさを直感していた。
 それだけは確かなのに、彼が一週間後も生きているのか、それとも半年かも分からない。見通せない寿命に明確な不安を感じていた。
 なのに、藤吾の口角は上がったままだった。
 不安など僅かにもないかのように、淀みない仕草で立ち上がって鍋を底から掻き回した。
 花弁の一枚一枚に均等に熱が通り、砂糖を絡める。
 沸々と煮立った砂糖の熱で花弁が千切れる。粉々に砕けて形を失う紫色は、やがてゼリー状に変わっていく。鍋を掻き混ぜるゴムベラが重くなった。
 藤の花のジャムの完成だ。

「……」

 ゴムベラをそのまま洗ってしまうのは、花を摘んでくれた彼女にも悪い気がして躊躇した。
 ならば、とまだ熱を持つゴムベラに舌を伸ばした。
 昔々、両親がまともだった頃に一緒に作った苺ジャムで同じことしたっけ、なんて記憶を手繰り寄せながら。

「……うま」

 苺とは異なる、酸味の少ない甘さが口いっぱいにふわりと広がる。果肉の代わりに、花の風味が豊かに香った。
 煮立ったジャムで舌が焼けようと構わない。ゴムベラに残るジャムの残滓を犬のように舐めとっていった。

「なあ、聞こえる? 聞こえてんならさ、……俺から桔平を奪わないでよ」

 ゴムベラを眺めながら呟く。その瞳に一切の輝きはない。
 緑色のヘラに残るジャムを受話器に見立てたかのように、五災厄の一人である彼女へ声をかけた。
 ──惨めでクソみたいな人生のど真ん中にいるのだ。
 この恋が結ばれないものであったとしても。
 桔平の結婚式で、誓いのキスを目の当たりにして鼻垂らすほど咽び泣くような、情けない失恋をしても。
 せめて、せめて、こんな形で彼を失うような人生を歩ませないでくれと。
 悲壮な思いで縋るその表情は、やはり笑みが崩せなかった。

「それがダメなら、俺も連れてって」