呪いは皿の上でほどける

 次の日、藤吾は遅刻をしていた。激しい腹痛と吐き気に襲われて家を出る時間になってもトイレに駆け込む羽目になった。
 脱水にだけはならないように生温いスポーツ飲料をちびちび飲みながら、待ち合わせ場所へと向かう。藤吾の足が向かうのは、2人が通う高校だ。その正門にシャツとジャージという装いの桔平が立っていた。

「今にも死にそうな顔してるじゃん」
「ヤッタァ……」

 覇気のない声と顔に、心配半分面白さ半分といった具合に桔平の顔が歪む。いっそ笑わせてやろうと高らかに屁の音を響かせる。
 低音のラッパのような屁の音に「ングっ!」と声を桔平がくぐもった声を上げた。してやったりとドヤ顔する藤吾の尻を、桔平の膝が軽く蹴りつける。

「臭えわバカ!」
「やだぁ〜、フローラルだろ」
「ありえねえー……」

 いよいよ我慢できなくなったのか、桔平が噴き出す。こんなしょうもないことで笑いたくないのか時折表情筋を整えようとしているところもいじらしい。
 桔平がこうして笑ってくれるのも久しく感じた。
 冗談を言い合いながら、2人は学校の裏へと向かっていた。例の見晴らし丘は学校から極めて近い場所に位置するのだ。

「しかし暑ぃなー……」

 昨日の今日で、夜に向かうのは止めることにした。代わりに高い位置にある太陽は容赦なく肌を炙り続けている。
 なのに、藤棚に続く緩やかな坂はぬかるんでいた。乾くことのない土がスニーカーのソールに張り付いてずるりと滑る。
 坂に足を取られる間にも開いた毛穴からはだくだくと汗が流れる。背中の傷に染みた藤吾は分かりやすく顔を顰めた。
 桔平もシャツが汗で張り付くのか、パタパタと裾を捲り乾かそうと足掻いている。
 お互いの会話も少なくなるほどの酷暑だった。当然、こんな時期に藤の花が咲いている筈がない。せいぜい、藤棚に備え付けられた木製のベンチに座るだけになるだろうと確信をしていた。
 桔平もそうなるだろうと予感していたのだろう。だからこそ、目を疑う光景に大きく目を見開いた。

「……ありえるか?これ」

 木枠で作られた立派な藤棚には、紫の花が余すことなく咲き誇っている。さらさらと花弁が重なり合う音が涼しげだった。
 丘を登り切った先に待ち構えていた幻想的な光景に、暑さも忘れて桔平も藤吾も呆然とする。何かの罠かもしれないと疑う気持ちはあった。だが、昨日感じたような拒絶の気配はない。
 互いに目配せをして、満開の藤棚へと近づいた。ふわりと淡い花蜜の香りがする。

「もしかしてこれ蜃気楼とか?蜂も全然いないし……」

 藤棚の下に足先に桔平が潜り込んだ。手を伸ばして花に触れる。骨ばった指がツンと花の束を突けば、はらりと紫の花が落ちた。
 藤吾も落ちた花弁を摘み上げて指で擦る。しっとりとした薄い花弁だ。なので、藤吾はその花弁を口に運んだ。

「うーん、味はするし本物じゃね?」
 
 藤吾の奇行にも少しは桔平も慣れたのか。「そうか」とばかりに首を縦に振った。2人はそれ以上の会話はせず、ベンチに腰を下ろす。
 花と葉に遮られた陽光は和らぎ、心地の良い風が髪を撫でた。ざっと下から巻き上がる風で花弁が散る。反射的に瞼を閉じ、次に開いた藤吾の前に何者かが静かに佇んでいた。
 柔らかい浅葱色の訪問着を纏った小柄な女性らしい。らしい、というのは、髪の毛のように頭頂部から生え揃った藤の房に覆われ、首から上は一切詳細が分からないせいだ。
 一方で首から下は人間の体そのもの。袖から除く手は白く、草履を履いた足は小さかった。
 藤の異形を前にしても、藤吾も桔平も悲鳴を上げなかった。その異形からはひりつくような悪意を感じないからだ。満開の花を前にして、恐怖を感じないのと同じだろう。

「私が見えますのね」
 
 凛とした涼やかな声だった。若々しい少女とも、妙齢に差し掛かった女性とも年齢は計りかねる、美しい声。

「はい。あなたがこの忌み地の、……藤棚の方なんでしょうか?」

 藤の花がうふふと可憐に笑う。袖を上げ、人間であれば口元があるだろう部位を抑える仕草をする。妙に人間臭い仕草だった。

「ええ。 私が藤棚の怪異、とも呼ばれていることを知っていますのよ」

 当の本人──いいや、当の本藤に知られているのは気まずかった。しかし、彼女は気にしている様子はない。
 ベンチに座ったままの2人に対し、藤の彼女は恭しく頭を下げる。

「そして、そちらの方が今回の人身御供であることも」
「……お見通しなんですね」
「この丘は街の全てを見通せますもの」

 見晴らし丘の名に偽りなしということか。彼女は見た目に反し、友好的なようだ。先日の女の霊と打って変わって、彼女は敵意の欠片もない。
 藤吾が何をしようとしているかも知っている上で、彼女は言葉を続けた。

「その貴方。呪いを食すのは名案だとは思いますの。希死念慮があるのならば」

 しかし正気ではないと藤の花が首を左右に振る。やはりその仕草は随分と人間臭い。だが、その言葉に藤吾は救われた。五災厄の内の一つに太鼓判を押されたようなものだ。
 両手で拳を握ってガッツポーズをする藤吾に桔平は苦々しい顔をするばかりだった。

「フジ、お前死んだ後のこと考えてる?」
「何にも。友達、お前くらいだし」

 そんなシリアスなことを考えるだけのキャパは藤吾にない。背負っていたリュックサックを膝に下ろして、いそいそと取り出したのは、ガラス製の小瓶だ。今朝煮沸してきたそれはジャムとか詰めるのにちょうどいいサイズをしている。
 それを藤の彼女へと差し出した。それを見て不思議そうに藤頭を横に傾げる。

「厚かましいのは百も承知で、ここに少し花を詰めてくれませんか?」

 意思の疎通ができる相手でだと、藤吾であっても少しは抵抗がある。だが逆に言えば、こうして交渉の余地があるということだ。
 厚かましいというより、突拍子もない申し出を横で聞いていた桔平の拳が肩を殴る。それでも藤吾は小瓶を下げる真似はしない。
 藤の花は少しの間、言葉を失っていた。だが藤吾の奇行を先日の夜から把握していたためか、こくりと首を縦に振る。
 だがその前に、と彼女は右手の人差し指を立てた。

「私の花は、どのように食べてくださいますの?」

 当然の質問だ。彼女の一部をどのように食べるのかを説明するのもやや気後れするが、答えを待たれては言わない訳にはいかない。
 ゴソゴソと次にリュックサックから取り出したのは、ジップロックに移された白砂糖だ。それを小瓶と一緒に差し出しながら、花弁と砂糖を瓶の中に交互に詰めることを身振り手振りも加えて説明する。

「ようは砂糖漬けです。花の風味も損なわず、長期間楽しむことができる」

砂糖漬けは奈良漬よりも、漬けるのに時間がかかる。だが、待つだけの価値があるのだと力説を終えれば、桔平に殴られた肩を自ら摩った。

「素敵ね。散った後も枯れずに居られるのは──。ええ、いいわ」

 どうやら彼女のお気に召したらしい。ふわりと上がった言葉尻に安堵を覚えた。
 彼女は自らの房を摘み、先端を摘んだ。花の房がひらひらと小瓶に詰められていく。多めに摘んでくれたらしい、小瓶に収まりきらない花弁を桔平へと差し出した。それをいそいそと桔平がコンビニの袋に詰めていく。
 ガラス瓶に詰められた紫の花弁は瑞々しく、宝石のように澄み渡っていた。これに砂糖をかけてしまうのは勿体無いと思えるほどに。
 しかし、言った以上は実行するまでと藤吾は砂糖を注いでいった。

「ところで、貴方もフジと言うのね」
「え?ああ、本名は藤吾って言うんですけどそう呼ばれてます」

 砂糖を注ぐ手は少し震えて、小瓶から幾つかの粒が転がった。

「……藤はこの街を象徴する花よ。その理由はご存知?」

 小学生の頃、社会の授業で習ったことだ。藤吾も桔平もその理由を知っている。だからこそ、この藤棚にこの歳になるまで近づかなかった。それも見通しているかのように、彼女は静かに笑う。
 笑みを浮かべているかは当然分からないが、嫋やかに微笑んでいるのが伝わってくる。

「知ってます。人身御供の鎮魂のためでしょ?」

 砂糖、花弁、砂糖、花弁と地層を作るように交互に重ねていく作業。その傍で桔平が答えた。
 彼女は座ることなく、背筋を伸ばしたまま肯定に首を振る。

「よく出来ました。その通りだけど、この街の贄を慰めるだけではないの。市の境に古い山があるでしょう?」

 市の境にあるのは封鎖された鉱山だ。昭和中期にに封鎖されたと聞いている、その鉱山が何だと言うのか。
 小瓶に詰める作業の手を止めて、彼女を伺った。桔平も藤吾と同じく、息を潜めて続きを待つ。焦らすような沈黙の後、2人が知らない街の過去が語られた。