桔平は面倒見のいい男だった。考えなしで行動しがちな藤吾をよく気にかけ、可能な限りで制そうとしていたように思える。そしてその彼の面倒見の良さは発揮されていた。
「いいか?着いて行ってやるけど、万が一の時は置いてくからな」
「……はーいはいはい。分ーかってますって」
赤錆が浮いた正門は夜風に晒されてギイギイと不吉な音を響かせる。門の外塀には「仁川診療所」と書かれたプレートが磔にされている。その診療所の名前を知らなければ解読も難しい位に擦り減っていた。
形だけでもと門に巻きつけられたチェーンは左右に引っ張れば、簡単に解けて地面に落ちる。それを跨いで、敷地に入れば冷たい空気が肌を撫でた。
来訪者を拒む、じっとりとした空気に怖気つく。
だが、一度は来た場所だと平静を取り繕って、藤吾は先を急いだ。その後ろを桔平が片目を抑えながら追いかける。最初は目を暗闇に慣らそうとしているのかと思ったが、どうやら様子がおかしい。
「──桔平」
出入り口の扉を押し開け、いよいよ病院に足を踏み入れた。その頃には桔平の顔色は明らかに悪くなっているようだった。片目を抑えている指も震えている。
「痛えの?」
「いや、何か変な感じ。……疼くような痺れるような」
右目を押さえ続ける桔平の手首を掴み、そっと引き剥がす。抵抗はなかった。
窓から差し込む月明かりで、病院の中は意外にも明るい。だからこそ、彼の瞳の異変に藤吾は気づいてしまった。暗闇の中で、瞳に刻まれた「一」の文字が滲むような輝きを発していることに。そしてその輝きは徐々に増していく。
蛍火のような淡い輝き。その輝きと共に、何かの気配が近づいてくる。否、近づいているのではない。
廊下の奥に鎮座する闇。それが、何かを形作ろうとしていた。同時に生温い腐臭が漂った。
ギリギリギリと荒縄を締め上げるような軋む音が奥から響く。そうして鈍い軋みの後、つんざくような悲鳴が廊下を駆け抜けた。
──アイツだ。
「桔平!」
恐怖の表情のまま身動き一つしない桔平の腕を掴んだ。その場から引き離そうと遠慮ない力で、近くの病室へと引き摺り込む。
幾つものベッドが並ぶ大部屋のようだ。ベッドが多い分、隠れられる場所は多い。一番近いベッドの下に桔平を押し込み、藤吾も続いてベッドの下に身を潜ませた。
狭いその場所に男二人で隠れるには、密着する必要がある。藤吾はほとんど無意識に桔平を胸に抱き寄せていた。桔平も状況に恐怖しているのか。驚くほど大人しく、藤吾に身を寄せた。引き締まった筋肉質な体は、子犬のように小さく震えている。
こんな状況だと言うのに、その存在をいじらしく感じてしまった。
「……目が、焼けるみたいに熱い。アイツが近づいてきてから」
どうやら、あの怪異が近づくことで目に異変が生じるらしい。少しでも桔平のその焼けるような感覚が癒えるよう、藤吾は右目を手で覆った。
痙攣する瞼を撫でながら、大丈夫だと恋人のような距離感で囁く。その声に強張りながら桔平が頷いた。
ガラスを踏み締める音が近づいた。アレが近くに迫っている。
「大丈夫。そんなにしつこくないからきっと直ぐに──」
今ならキスをしても有耶無耶にできるんじゃないか。下心満載で顔を傾け、腕の中の桔平を見た。額にちゅっとする位なら事故を装えるかも、なんて。
しかし、そこにあったのは青白い顔。真っ赤に充血した白目は、脂を塗ったようにぬらぬらと不気味に輝いている。ボソボソに固まった長い黒髪の隙間から、恨みがましい視線を藤吾に送っていた。
藤吾の腕の中にいたのは桔平ではない。
「き──」
「オギャア」
腕の中の女の唇が開き、赤ん坊の鳴き声を上げた。まるで吹き替え音声のように瑞々しい赤子の鳴き声を発しながら、血走った瞳からボロボロと大粒の涙を流す。
乳臭い甘ったるい匂いで、胃の腑がきゅっと縮み上がった。
「……マジでごめんなさい!」
泣いている人を前に、動揺しない人間は多くはないだろう。藤吾もそうだ。身に覚えのない罪悪感のせいで思わず謝罪を口走る。
だが、恐怖による反射で腕の中の存在を突き飛ばした。その体は相手が女性だとしても異常に軽い。
突き飛ばした勢いでベッドの下から抜け出し、廊下に飛び出した。
「き、桔平!どこだ!?」
廊下は相変わらず薄暗い。しかし、その奥に桔平だけははっきり見えた。その背中に呼びかけても背中が遠ざかっていく。
──置いて行かれた?
そんな不安に駆り立てられながら、必死に後を追った。彼の名前を呼びながらバタバタと。騒がしく。その後ろから「オギャア」と泣き声が迫る。
こちらを顧みることない桔平と、気持ちの悪い泣き声を発する女の霊。それらに挟まれ、各々と一定の距離を保ったまま必死に走った。
「待てって!そっち地下──。クソッ!」
長い廊下を駆け続ける。最奥に辿り着けば、そこは2階に続く階段が待ち構えていた。その踊り場へと下る桔平が見えた。一度、こちらを振り返り藤吾と視線が合う。その右目の異様な発光が強まっていた。誘われる走行性の虫の如く、右目の放つ残光を追う。
地下一階に下りるも桔平の姿はそこにはなかった。だが、彼がどこに向かったのか薄々勘づいていた。この階に藤吾が足を運んだことがある。
パンパンに腫れたふくらはぎを引き摺って向かった先、そこは死体安置所だ。一階と異なり、窓のない地下は真っ暗だ。なのに桔平は迷うことなくそこに辿り着いていた。
そして彼は死体安置棚の一つを開けて佇んでいる。死体を安置する狭い箱をスマホで照らして覗き込む。どうやら所狭しと札が貼らているようだ。
そして、その中に一抱えできるくらいの壺が置かれている。陶器で作られた壺にもベタベタと古めかしい札が貼られ、異様な雰囲気を醸し出していた。
言うならば、それは祭壇だった。それも何かを崇めるためのものではなく封じるための、禍々しい気配が壺の中に止まっている。まるで血に飢えた獣を前にしたかのように、足が竦んだ。その壺を前に桔平は微動だにしない。
「おーい。大丈夫ー、じゃなそうか。もしかしなくても」
から元気で底抜けに明るい声をかける。だが桔平の表情は虚だった。無我の表情で瞬きすらしない。その人形のように感情の消えた顔を覗き込み、声をかける。しかし反応はない。
ならば、正気ではない藤吾がすることは一つ。激しい運動で乱れた呼吸を整えるために深呼吸を繰り返す。そうして、桔平の目の前で手を叩いて再三反応を伺った。
「よっしゃ反応なし」
それを確認すれば、桔平の顎をくいと掬い上げる。こちらに顔を傾かせる角度を取り唇を重ねた。
子供がするような、ただ唇同士を合わせるだけのキスだ。吐息を重ねたのはほんの数秒のこと。しかし、桔平の意識を呼び戻すのには成功したらしい。
顔の右側に激しい破裂音が爆ぜ、顔が横にブレる。ガチン!と歯が噛み合う音を立て、灼熱の痛みが襲った。思わず頬を抑える。
「よ、お帰り」
「ふざけるのも大概にしろよ!さっきから!」
突き飛ばすのも限界だったのか。いよいよ拳を握ったらしい。殴ったままの姿勢でふるふると桔平の体が震えている。
口の中に溢れる血の味を飲み込みながら、へらと力無い笑みを浮かべた。
「ふざけてねえよ。俺、好きなんだもん。桔平のこと」
藤吾の持つスマホのライトを除き、光源のない死体安置所で告白の言葉が湾曲する。
死の気配が一層濃い、この一室で一人取り残されたように桔平の顔がくしゃくしゃに歪んだ。
キスした形のいい唇が声にならない言葉を結ぶ。
その言葉を理解しながら無視して、藤吾は壁から幾つも突き出た内の一つの取っ手を握る。その取っ手には白い布が巻きつけられていた。数日前、ここを訪れた藤吾が目印に巻きつけたものだった。
「お、あったあった」
目印通り、死体安置棚の中には奈良漬が置かれていた。シーツに包まれたままのそれをヒョイと手に取る。
「目的のもんは手にしたし、後は脱出だけってわけ。行けそ?」
桔平は泣き出しそうな表情を崩さなかった。その理由だって藤吾は理解できる。その理由が自分にあることも。
ふざけた真似を演じながら、その罪悪感は常に藤吾の胸を炙っていた。
「……行ける」
桔平が不意に藤吾の手を握った。ドキンと胸が弾むのは、桔平のその仕草は恋する男心をくすぐったからだ。
「俺、さっきおかしかった、よな。だから……ここ出る前は握ってくれねえか。不安なんだ」
だが、それが桔平が想いに応えてくれたわけではないことは直ぐに理解させられた。
「俺のこと、好きなら頼むよ」
何もかも勘違いする前で良かったのかもしれない。追い詰められて憔悴していることが分かっただけ儲け物だ。萎んでいく心を押し殺しすのは慣れたもの。
じっとりと汗ばむ手を握り返して、力強く頷いた。
「俺のこと、存分に利用しなよ。それでも好きって約束するわ」
頼りなさげな手を引いて、死体安置所を出る。それだけで良かったのに、背後から届いた桔平の言葉に胸が引き裂かれそうだった。
「卑怯でごめん」
「──、それは俺が言うべきじゃんか」
その言葉に返事はない。何とも重い沈黙を抱えながら、真っ黒な廊下を戻る。階段に差し掛かる直前、再び暗闇が形を作る。
追いかけ回していたあの女性の怨霊だ。それが完全に形を練り上げるより前に、桔平の手を引いて走った。
「振り向くなよ」
持ち手もない壺を抱き抱え、片手で桔平の手を引いているせいで腕を前後に振ることができない。その不自由さに苦心しながら必死に階段を駆け上がる。
息が切れるが、立ち止まる選択肢はない。四肢が重たくて堪らなかった。
そんな藤吾の前に桔平が躍り出た。バテ始めた藤吾の代わって桔平が藤吾の腕を牽引する。引かれるまま、必死に足を前後に動かした。
彼はこういう男なのだ。置いていくとか言っておきながら、実際置いて行った方が確実に逃げられるのに、彼は情に負けて見捨てられない。
その人の良さがやっぱり好きだった。
「やっぱりさあ!お前のこと超好き!」
その言葉に返されたのは、焦りで血走る視線だった。場違いな告白に苛立たせてたとしても、その顔も好きだった。
恋に火照って汗ばむ背中に鋭い痛みが走る。ザクっと鋭く肉を抉る音が耳に届いても、恐怖さえ感じない。ドキドキ弾む恋情を前にして痛みはスパイスだ。チョコレートに潜ませた粗塩。ブルーチーズにかける蜂蜜。この命さえ危ぶまれる状況にさえ、心は甘く高鳴っていた。
2人の足が止まることもない。
それから、2人は無事に病院の入り口から逃げ出せた。這々の体で。さらに言うなら藤吾の背中に5本の爪痕が刻まれていた。
シャツ越しから掻かれたらしいが、爪は肉をざっくりと裂いて血を滲ませるほどに深い。汗が染みて涙が出そうだった。
それを桔平に訴えるも、返された言葉は一言。
「自業自得だろ」
ご尤もである。だが、やはり気がおかしいままの藤吾は壺を抱えたまま、桔平の家に向かった。
「壺を捨ててこい」と桔平に何度説得されても聞く耳を持つことはない。
「それ、食うのやめろよ」
「ここまで苦労したのに?嫌だね」
シャツの背中部は血で染められていた。シャツを着替えるよりも傷の手当てをするよりも前に、この奈良漬を賞味する気満々の藤吾に桔平はあからさまに嫌そうな顔をしていた
「何かあっても知らねえぞ」
シーツを剥がして、パカと陶器の壺を開けばツンとした発酵臭が鼻に抜ける。
奈良漬独特の塩気ある酒精が、桔平の部屋の中にふわりと漂う。向かい合った桔平はその風味が苦手なのか、きゅっと唇が引き絞られた。
壺の中に鎮座するきゅうりは、自宅のキッチンで丁寧に水気を抜き、日干しにし、手間暇かけて下処理されたものだ。しっかりとお手製の糠床に漬かったようだが味は未知数。何せ、死体安置所に安置されていた代物なのだ。不謹慎極まりないその一品を前に、緊張で唾を飲み込んだ。
「何かあって欲しいんだよ。じゃ、頂きまーす」
「その前に箸を貸して」と、藤吾なりに精一杯可愛く訴えるも、「無理」の一言で突っぱねられた。
なので素手を壺の中に突っ込む。しんなりとしたきゅうりはひんやりと冷たい。シワシワになったきゅうりの先端を躊躇を見せずに齧った。
ザクっと小気味のいい音を立てて、口の中に塩辛い風味が広がる。しかし、浸かりは浅い。コクも深みもいまいちだ。
やはり、たった三日程度では不十分だったのだろう。
「……大丈夫かよ」
「うん。うん、まあ食えるかなって感じ」
「そっかあ……」
桔平はそれ以上のことは突っ込まなかった。ここまで来たら止めても無駄と察したのだろう。クッションの上で正座しながら、しゃくしゃくと神妙な顔で咀嚼する藤吾の背後に桔平が移動した。
どうするのかと様子を伺っていれば、シャツが捲り上げられた。
「とりあえず消毒はしとくけど、帰ったらちゃんと手当てしろよ」
「……ありがと」
消毒液を染み込ませたコットンが当てられる。生傷に染みたが、触れてくれる手つきの優しさに身を任せた。
焼けるような消毒の痛みに思わず背中を震わせれば、労わるように傷に掌が重ねられた。
堪らず疼く痛みを無視して、背中でその手に擦り寄る。
「んで、明日は?」
桔平のその問いかけに、「え?」と間抜けな顔をして振り返る。しかしその真意を理解した藤吾はまたへらへらとした如何もな笑みを見せてピースを向けた。
「二つ目の忌み地、見晴らし丘の藤棚に行く」
立てた二本指が、二画目が刻まれた桔平の右目に反射していた。
「いいか?着いて行ってやるけど、万が一の時は置いてくからな」
「……はーいはいはい。分ーかってますって」
赤錆が浮いた正門は夜風に晒されてギイギイと不吉な音を響かせる。門の外塀には「仁川診療所」と書かれたプレートが磔にされている。その診療所の名前を知らなければ解読も難しい位に擦り減っていた。
形だけでもと門に巻きつけられたチェーンは左右に引っ張れば、簡単に解けて地面に落ちる。それを跨いで、敷地に入れば冷たい空気が肌を撫でた。
来訪者を拒む、じっとりとした空気に怖気つく。
だが、一度は来た場所だと平静を取り繕って、藤吾は先を急いだ。その後ろを桔平が片目を抑えながら追いかける。最初は目を暗闇に慣らそうとしているのかと思ったが、どうやら様子がおかしい。
「──桔平」
出入り口の扉を押し開け、いよいよ病院に足を踏み入れた。その頃には桔平の顔色は明らかに悪くなっているようだった。片目を抑えている指も震えている。
「痛えの?」
「いや、何か変な感じ。……疼くような痺れるような」
右目を押さえ続ける桔平の手首を掴み、そっと引き剥がす。抵抗はなかった。
窓から差し込む月明かりで、病院の中は意外にも明るい。だからこそ、彼の瞳の異変に藤吾は気づいてしまった。暗闇の中で、瞳に刻まれた「一」の文字が滲むような輝きを発していることに。そしてその輝きは徐々に増していく。
蛍火のような淡い輝き。その輝きと共に、何かの気配が近づいてくる。否、近づいているのではない。
廊下の奥に鎮座する闇。それが、何かを形作ろうとしていた。同時に生温い腐臭が漂った。
ギリギリギリと荒縄を締め上げるような軋む音が奥から響く。そうして鈍い軋みの後、つんざくような悲鳴が廊下を駆け抜けた。
──アイツだ。
「桔平!」
恐怖の表情のまま身動き一つしない桔平の腕を掴んだ。その場から引き離そうと遠慮ない力で、近くの病室へと引き摺り込む。
幾つものベッドが並ぶ大部屋のようだ。ベッドが多い分、隠れられる場所は多い。一番近いベッドの下に桔平を押し込み、藤吾も続いてベッドの下に身を潜ませた。
狭いその場所に男二人で隠れるには、密着する必要がある。藤吾はほとんど無意識に桔平を胸に抱き寄せていた。桔平も状況に恐怖しているのか。驚くほど大人しく、藤吾に身を寄せた。引き締まった筋肉質な体は、子犬のように小さく震えている。
こんな状況だと言うのに、その存在をいじらしく感じてしまった。
「……目が、焼けるみたいに熱い。アイツが近づいてきてから」
どうやら、あの怪異が近づくことで目に異変が生じるらしい。少しでも桔平のその焼けるような感覚が癒えるよう、藤吾は右目を手で覆った。
痙攣する瞼を撫でながら、大丈夫だと恋人のような距離感で囁く。その声に強張りながら桔平が頷いた。
ガラスを踏み締める音が近づいた。アレが近くに迫っている。
「大丈夫。そんなにしつこくないからきっと直ぐに──」
今ならキスをしても有耶無耶にできるんじゃないか。下心満載で顔を傾け、腕の中の桔平を見た。額にちゅっとする位なら事故を装えるかも、なんて。
しかし、そこにあったのは青白い顔。真っ赤に充血した白目は、脂を塗ったようにぬらぬらと不気味に輝いている。ボソボソに固まった長い黒髪の隙間から、恨みがましい視線を藤吾に送っていた。
藤吾の腕の中にいたのは桔平ではない。
「き──」
「オギャア」
腕の中の女の唇が開き、赤ん坊の鳴き声を上げた。まるで吹き替え音声のように瑞々しい赤子の鳴き声を発しながら、血走った瞳からボロボロと大粒の涙を流す。
乳臭い甘ったるい匂いで、胃の腑がきゅっと縮み上がった。
「……マジでごめんなさい!」
泣いている人を前に、動揺しない人間は多くはないだろう。藤吾もそうだ。身に覚えのない罪悪感のせいで思わず謝罪を口走る。
だが、恐怖による反射で腕の中の存在を突き飛ばした。その体は相手が女性だとしても異常に軽い。
突き飛ばした勢いでベッドの下から抜け出し、廊下に飛び出した。
「き、桔平!どこだ!?」
廊下は相変わらず薄暗い。しかし、その奥に桔平だけははっきり見えた。その背中に呼びかけても背中が遠ざかっていく。
──置いて行かれた?
そんな不安に駆り立てられながら、必死に後を追った。彼の名前を呼びながらバタバタと。騒がしく。その後ろから「オギャア」と泣き声が迫る。
こちらを顧みることない桔平と、気持ちの悪い泣き声を発する女の霊。それらに挟まれ、各々と一定の距離を保ったまま必死に走った。
「待てって!そっち地下──。クソッ!」
長い廊下を駆け続ける。最奥に辿り着けば、そこは2階に続く階段が待ち構えていた。その踊り場へと下る桔平が見えた。一度、こちらを振り返り藤吾と視線が合う。その右目の異様な発光が強まっていた。誘われる走行性の虫の如く、右目の放つ残光を追う。
地下一階に下りるも桔平の姿はそこにはなかった。だが、彼がどこに向かったのか薄々勘づいていた。この階に藤吾が足を運んだことがある。
パンパンに腫れたふくらはぎを引き摺って向かった先、そこは死体安置所だ。一階と異なり、窓のない地下は真っ暗だ。なのに桔平は迷うことなくそこに辿り着いていた。
そして彼は死体安置棚の一つを開けて佇んでいる。死体を安置する狭い箱をスマホで照らして覗き込む。どうやら所狭しと札が貼らているようだ。
そして、その中に一抱えできるくらいの壺が置かれている。陶器で作られた壺にもベタベタと古めかしい札が貼られ、異様な雰囲気を醸し出していた。
言うならば、それは祭壇だった。それも何かを崇めるためのものではなく封じるための、禍々しい気配が壺の中に止まっている。まるで血に飢えた獣を前にしたかのように、足が竦んだ。その壺を前に桔平は微動だにしない。
「おーい。大丈夫ー、じゃなそうか。もしかしなくても」
から元気で底抜けに明るい声をかける。だが桔平の表情は虚だった。無我の表情で瞬きすらしない。その人形のように感情の消えた顔を覗き込み、声をかける。しかし反応はない。
ならば、正気ではない藤吾がすることは一つ。激しい運動で乱れた呼吸を整えるために深呼吸を繰り返す。そうして、桔平の目の前で手を叩いて再三反応を伺った。
「よっしゃ反応なし」
それを確認すれば、桔平の顎をくいと掬い上げる。こちらに顔を傾かせる角度を取り唇を重ねた。
子供がするような、ただ唇同士を合わせるだけのキスだ。吐息を重ねたのはほんの数秒のこと。しかし、桔平の意識を呼び戻すのには成功したらしい。
顔の右側に激しい破裂音が爆ぜ、顔が横にブレる。ガチン!と歯が噛み合う音を立て、灼熱の痛みが襲った。思わず頬を抑える。
「よ、お帰り」
「ふざけるのも大概にしろよ!さっきから!」
突き飛ばすのも限界だったのか。いよいよ拳を握ったらしい。殴ったままの姿勢でふるふると桔平の体が震えている。
口の中に溢れる血の味を飲み込みながら、へらと力無い笑みを浮かべた。
「ふざけてねえよ。俺、好きなんだもん。桔平のこと」
藤吾の持つスマホのライトを除き、光源のない死体安置所で告白の言葉が湾曲する。
死の気配が一層濃い、この一室で一人取り残されたように桔平の顔がくしゃくしゃに歪んだ。
キスした形のいい唇が声にならない言葉を結ぶ。
その言葉を理解しながら無視して、藤吾は壁から幾つも突き出た内の一つの取っ手を握る。その取っ手には白い布が巻きつけられていた。数日前、ここを訪れた藤吾が目印に巻きつけたものだった。
「お、あったあった」
目印通り、死体安置棚の中には奈良漬が置かれていた。シーツに包まれたままのそれをヒョイと手に取る。
「目的のもんは手にしたし、後は脱出だけってわけ。行けそ?」
桔平は泣き出しそうな表情を崩さなかった。その理由だって藤吾は理解できる。その理由が自分にあることも。
ふざけた真似を演じながら、その罪悪感は常に藤吾の胸を炙っていた。
「……行ける」
桔平が不意に藤吾の手を握った。ドキンと胸が弾むのは、桔平のその仕草は恋する男心をくすぐったからだ。
「俺、さっきおかしかった、よな。だから……ここ出る前は握ってくれねえか。不安なんだ」
だが、それが桔平が想いに応えてくれたわけではないことは直ぐに理解させられた。
「俺のこと、好きなら頼むよ」
何もかも勘違いする前で良かったのかもしれない。追い詰められて憔悴していることが分かっただけ儲け物だ。萎んでいく心を押し殺しすのは慣れたもの。
じっとりと汗ばむ手を握り返して、力強く頷いた。
「俺のこと、存分に利用しなよ。それでも好きって約束するわ」
頼りなさげな手を引いて、死体安置所を出る。それだけで良かったのに、背後から届いた桔平の言葉に胸が引き裂かれそうだった。
「卑怯でごめん」
「──、それは俺が言うべきじゃんか」
その言葉に返事はない。何とも重い沈黙を抱えながら、真っ黒な廊下を戻る。階段に差し掛かる直前、再び暗闇が形を作る。
追いかけ回していたあの女性の怨霊だ。それが完全に形を練り上げるより前に、桔平の手を引いて走った。
「振り向くなよ」
持ち手もない壺を抱き抱え、片手で桔平の手を引いているせいで腕を前後に振ることができない。その不自由さに苦心しながら必死に階段を駆け上がる。
息が切れるが、立ち止まる選択肢はない。四肢が重たくて堪らなかった。
そんな藤吾の前に桔平が躍り出た。バテ始めた藤吾の代わって桔平が藤吾の腕を牽引する。引かれるまま、必死に足を前後に動かした。
彼はこういう男なのだ。置いていくとか言っておきながら、実際置いて行った方が確実に逃げられるのに、彼は情に負けて見捨てられない。
その人の良さがやっぱり好きだった。
「やっぱりさあ!お前のこと超好き!」
その言葉に返されたのは、焦りで血走る視線だった。場違いな告白に苛立たせてたとしても、その顔も好きだった。
恋に火照って汗ばむ背中に鋭い痛みが走る。ザクっと鋭く肉を抉る音が耳に届いても、恐怖さえ感じない。ドキドキ弾む恋情を前にして痛みはスパイスだ。チョコレートに潜ませた粗塩。ブルーチーズにかける蜂蜜。この命さえ危ぶまれる状況にさえ、心は甘く高鳴っていた。
2人の足が止まることもない。
それから、2人は無事に病院の入り口から逃げ出せた。這々の体で。さらに言うなら藤吾の背中に5本の爪痕が刻まれていた。
シャツ越しから掻かれたらしいが、爪は肉をざっくりと裂いて血を滲ませるほどに深い。汗が染みて涙が出そうだった。
それを桔平に訴えるも、返された言葉は一言。
「自業自得だろ」
ご尤もである。だが、やはり気がおかしいままの藤吾は壺を抱えたまま、桔平の家に向かった。
「壺を捨ててこい」と桔平に何度説得されても聞く耳を持つことはない。
「それ、食うのやめろよ」
「ここまで苦労したのに?嫌だね」
シャツの背中部は血で染められていた。シャツを着替えるよりも傷の手当てをするよりも前に、この奈良漬を賞味する気満々の藤吾に桔平はあからさまに嫌そうな顔をしていた
「何かあっても知らねえぞ」
シーツを剥がして、パカと陶器の壺を開けばツンとした発酵臭が鼻に抜ける。
奈良漬独特の塩気ある酒精が、桔平の部屋の中にふわりと漂う。向かい合った桔平はその風味が苦手なのか、きゅっと唇が引き絞られた。
壺の中に鎮座するきゅうりは、自宅のキッチンで丁寧に水気を抜き、日干しにし、手間暇かけて下処理されたものだ。しっかりとお手製の糠床に漬かったようだが味は未知数。何せ、死体安置所に安置されていた代物なのだ。不謹慎極まりないその一品を前に、緊張で唾を飲み込んだ。
「何かあって欲しいんだよ。じゃ、頂きまーす」
「その前に箸を貸して」と、藤吾なりに精一杯可愛く訴えるも、「無理」の一言で突っぱねられた。
なので素手を壺の中に突っ込む。しんなりとしたきゅうりはひんやりと冷たい。シワシワになったきゅうりの先端を躊躇を見せずに齧った。
ザクっと小気味のいい音を立てて、口の中に塩辛い風味が広がる。しかし、浸かりは浅い。コクも深みもいまいちだ。
やはり、たった三日程度では不十分だったのだろう。
「……大丈夫かよ」
「うん。うん、まあ食えるかなって感じ」
「そっかあ……」
桔平はそれ以上のことは突っ込まなかった。ここまで来たら止めても無駄と察したのだろう。クッションの上で正座しながら、しゃくしゃくと神妙な顔で咀嚼する藤吾の背後に桔平が移動した。
どうするのかと様子を伺っていれば、シャツが捲り上げられた。
「とりあえず消毒はしとくけど、帰ったらちゃんと手当てしろよ」
「……ありがと」
消毒液を染み込ませたコットンが当てられる。生傷に染みたが、触れてくれる手つきの優しさに身を任せた。
焼けるような消毒の痛みに思わず背中を震わせれば、労わるように傷に掌が重ねられた。
堪らず疼く痛みを無視して、背中でその手に擦り寄る。
「んで、明日は?」
桔平のその問いかけに、「え?」と間抜けな顔をして振り返る。しかしその真意を理解した藤吾はまたへらへらとした如何もな笑みを見せてピースを向けた。
「二つ目の忌み地、見晴らし丘の藤棚に行く」
立てた二本指が、二画目が刻まれた桔平の右目に反射していた。
