「学校、久々だ」
人の気配のない深夜の校舎だ。散々不法侵入を繰り返してきた藤吾は、今更抵抗なんてものはない。閉まった正門に足をかけ、なんとか乗り越えて侵入した。
桔平も同じく、正門をよじ登る形で侵入するのだった。
「体ないんだから、そのまま通れるんじゃねえの?」
ふんっと鼻を鳴らし、シャツの汚れを左手で払う真似まですれば桔平はこう返すのだった。
「こういうのは雰囲気なんだよ」
廊下も教室も、随分と広く感じるのは生徒がいないせいだろうか。一人分の足音を立て、暗い廊下を進む。その隣には桔平がいた。
彼はあの夏から高校に来ることはなかった。だからだろうか、桔平は見るもの一つ一つを懐かしんでいるように見えた。廊下の壁を指でなぞり、窓のサッシに触れ、消火栓の赤いライトを覗き込む。まるで好奇心旺盛な猫のよう。
そんな彼の邪魔をしないよう、藤吾は黙って見守っていた。
「着いたぞ」
二階に位置する、2年C組。二人が通っていた教室だ。
教室の窓際。その後ろから2列という、教室の中で最も立地がいい場所が二人のかつての席だった。
当然、今はその席は別の誰かが座っている。見知らぬ布のバッグが机の傍にかけられていた。
「なっつかしい〜。この席、夏は日差しきつくてしんどかったけど……風吹くと気持ちよかったんだよな」
誰の席であっても今この瞬間は関係ない。そんな暴論のまま藤吾は椅子を引いて座った。少しの気後れもなく、頬杖をつきながら窓際を見る。
そこから見えるのは校庭だ。春には植えられている桜がよく見えた。今ここから見えるのは、月明かりに照らされた仄暗い肯定ばかりで面白いものはない。
だが、向かいには桔平がいる。一緒に教室に通っていた時のように、背もたれを抱えるように背面を向いて座っていた。
そのまま腕を伸ばして、藤吾は窓を全開にする。もわっとした熱気を払う爽やかな風がカーテンを揺らした。
「覚えてる?フジと初めて話した時のこと」
桔平と話すようになったのは、確かピカピカの一年生の頃だ。席替えがきっかけで席が近くなって、会話が増えていったのは覚えているが……、はっきりとしたきっかけを藤吾は思い出せずにいた。
あんなに好きだと熱烈にアピールしておいて、そのきっかけを思い出せないのは気まずい。だから藤吾はカスカスの頭から必死に記憶を辿る。
だが思い出せるのは、彼と仲良くなって以降のことばかりだった。
何も言わず、必死に思い出そうとする藤吾を見抜いた桔平が笑った。少し意地悪げに口角を上げ、藤吾の額を小突く。
「体育の後、体調悪くなって教室で寝てた時のことだよ」
こんな風に、と桔平が机に突っ伏す姿勢を再現する。
そんなことがあったような、無かったような。はっきりとしない記憶を辿りながら、続く桔平の言葉に耳を傾ける。その声は不思議なくらいに穏やかだった。
「どんどん気持ち悪くなって、いよいよヤバいってタイミングで梅干し食わせてきたじゃん。いらねえって言ったのに、無理やり口の中に突っ込んできて……」
「あー……、やべ。思い出してきた」
そこまで聞いて、ようやく藤吾は思い出してきた。
確か、あの日は夏前なのに異様に暑い日だった。
体育の後は移動教室にも関わらず、桔平は机から動かないままでいたのだ。机の上に水溜まりができるほど多量の汗をかく桔平を心配して、声をかけた記憶が脳裏に蘇る。
彼がその時、飲んでいたのは水だった。ペットボトル二本を空にした状態で、ぐったりとしていたことから塩分不足だろうと判断し、弁当に詰めていた梅干しを摘み上げる。
「やめろ」「いらない」と本気で拒絶をしている様子だったが、死なれるよりはと無理に口に押し込み咀嚼させた……ことを思い出して、藤吾は頭を抱えた。
「俺、マジで変わらねえなー……」
「本当にな。まあ、あの梅干しは美味かったけどさ」
そんな強引なきっかけだったにも関わらず、桔平は藤吾と友人になってくれたのだ。やはり彼はイイヤツなのだろう。
そして、あの梅干しは初めて自分の手で漬けたものだった。それを無理やりとは言え、口にさせていたことがなんとなく嬉しい。塩分を美味と感じる状況だったとはいえ、美味かったと評されたこともだ。
「あの頃は楽しかったな」
揺れる白いカーテンの向こう側に見えるのは青空だ。分厚い入道雲が山の向こうから顔を覗かせる、目に痛いほどの日差しが強いそんな昼下がり。
朝食なんてとっくに消化されて腹ペコで、腹の音を鳴らして受ける退屈な授業。
当然そんなものは幻想だ。見えるのは青白い月に照らされた、無味無臭の教室と校庭。過去にしか存在しない青い記憶を辿り、藤吾は呟いた。
「今はつまらないのか?」
答えるまでもない。桔平がいなくなったあの夏から、藤吾の受容体は麻痺した。
母親がヒステリーを起こそうが、目の前で電車に誰かが飛び込もうが、自分の手首をお試しで刻んでみようが、何も感じなかった。
素直に頷く。
「……つまらないっていうのは、ちょっと違くて」
心の中に穿たれた穴は塞がらない。こうして桔平と再び邂逅しても、その穴はぽっかりと空いたままだった。その穴に吹き込む風の冷たさがただ虚しい。
「寂しいんだよ、ずっと」
何をしても埋まらない心の穴は、日が経つごとに直径も深さも広がっていく。手遅れになる前に何かで埋めようと藤吾も努力した。
しかし、その穴は手を施すよりも早くに縁を崩していく。
最早、藤吾の手に負えなかった。虚しい寂しいと叫ぶ声だけが穴の底から聞こえている。その声を耳にしたとて、藤吾に出来ることは日々をやり過ごすだけだった。
「……フジ」
バサっと音を立てて翻るカーテンで一瞬、桔平の姿が隠れる。その向こうから優しい声で藤吾を呼んだ。
カーテンの向こうから何かが差し出される。当てずっぽうで口元を狙ったのか、唇を割って歯に固いものが当たった。ガチっという音から一歩遅れて遅れて、じんわりと歯茎が疼く。
「アーンしろよ」
それは桔平の骨だった。それを藤吾の口に宛てがっている。
その意図は図りきれない。だが、理由を聞くのは無粋な気がして、前歯を食い込ませた。
──しかし、噛み砕けない。歯の根が震えてただ甘く噛むだけの時間が続く。
「……無理」
顔を背け、骨から口を外す。どうしてもできなかった。
「無理だよ。俺には──」
桔平の一部を口にし、咀嚼することに抵抗があった。
唯一残った桔平の体を口にして、消化したら今度こそ桔平が無くなってしまう。存在が消えてしまうという恐怖に耐えられなくなってしまった。
「俺も、フジと一緒に過ごした時間はすごい楽しかった。お前に振り回されるのだって悪い気はしなかったよ」
高校生から時が進んでいないのに、その声はひどく年上のように感じられた。
過去を懐かしむ声に胸が締め付けられる。
「だから、食って」
顔をまともに見ようとすれば涙が溢れるだろう。少しの強がりで、藤吾は強く瞼を閉じた。
奥歯を噛み締め、覚悟を決めて瞼を開いた。
涙でぼやける視界の中、桔平の左手首を優しく掴む。口元に引き寄せて差し出された骨を喰んだ。
乾いた骨は口に含むと水分を奪われ、粘膜が吸い付く。劣化してボロボロになった骨は、簡単に前歯で削れた。
舌の上に乗った骨の粉を唾液に包んで嚥下する。
「どうよ。俺の味は」
正直、問われても何の味も匂いもしなかった。だが、彼の一部を取り込んでいくという充足感だけがあった。覚悟の前には、彼を食すことへの恐怖はもうなかった。
だから藤吾はしっかりと桔平の目を見て答える。
「世界一、美味しいよ」
パキンっと骨が半ばで折れた。乾いた骨髄が口腔内で唾液と混ざり合う。
会話をせずとも、彼の望みが胃の中から全身に伝わっていく。桔平の望みをようやく藤吾は叶えることができそうだった。
「海が見える場所に住みたいとか、そんなロマンティックな奴だったっけか」
「もう山にはうんざりなんだって」
彼はここに留まり続けることに辟易としていたのだ。初めて知る桔平の感情に心が揺れた。
それでも骨を咀嚼し続ける。残りはもう僅かだ。だが桔平の声は消えることはない。
「ここを出て、海の見える街に住む。約束するよ」
最後の一欠片。それを桔平が藤吾の口の中に押し込んだ。
「長生きしろよ。連れてくのはその後だ」
最後の一欠片を桔平の言葉と一緒に呑み込んだ。
食事にどれだけの時間をかけていたのか、東の空が明るくなり始めている。そこに桔平はもういない。教室に座るのは藤吾だけだった。
「桔平」
胃袋の位置を弄り撫でる。見えずとも、桔平はそこにいる。
藤吾が死ぬまで一つになったのだ。
「海を見に行こうか」
藤吾の言葉に頷くように、腹が鳴った。
人の気配のない深夜の校舎だ。散々不法侵入を繰り返してきた藤吾は、今更抵抗なんてものはない。閉まった正門に足をかけ、なんとか乗り越えて侵入した。
桔平も同じく、正門をよじ登る形で侵入するのだった。
「体ないんだから、そのまま通れるんじゃねえの?」
ふんっと鼻を鳴らし、シャツの汚れを左手で払う真似まですれば桔平はこう返すのだった。
「こういうのは雰囲気なんだよ」
廊下も教室も、随分と広く感じるのは生徒がいないせいだろうか。一人分の足音を立て、暗い廊下を進む。その隣には桔平がいた。
彼はあの夏から高校に来ることはなかった。だからだろうか、桔平は見るもの一つ一つを懐かしんでいるように見えた。廊下の壁を指でなぞり、窓のサッシに触れ、消火栓の赤いライトを覗き込む。まるで好奇心旺盛な猫のよう。
そんな彼の邪魔をしないよう、藤吾は黙って見守っていた。
「着いたぞ」
二階に位置する、2年C組。二人が通っていた教室だ。
教室の窓際。その後ろから2列という、教室の中で最も立地がいい場所が二人のかつての席だった。
当然、今はその席は別の誰かが座っている。見知らぬ布のバッグが机の傍にかけられていた。
「なっつかしい〜。この席、夏は日差しきつくてしんどかったけど……風吹くと気持ちよかったんだよな」
誰の席であっても今この瞬間は関係ない。そんな暴論のまま藤吾は椅子を引いて座った。少しの気後れもなく、頬杖をつきながら窓際を見る。
そこから見えるのは校庭だ。春には植えられている桜がよく見えた。今ここから見えるのは、月明かりに照らされた仄暗い肯定ばかりで面白いものはない。
だが、向かいには桔平がいる。一緒に教室に通っていた時のように、背もたれを抱えるように背面を向いて座っていた。
そのまま腕を伸ばして、藤吾は窓を全開にする。もわっとした熱気を払う爽やかな風がカーテンを揺らした。
「覚えてる?フジと初めて話した時のこと」
桔平と話すようになったのは、確かピカピカの一年生の頃だ。席替えがきっかけで席が近くなって、会話が増えていったのは覚えているが……、はっきりとしたきっかけを藤吾は思い出せずにいた。
あんなに好きだと熱烈にアピールしておいて、そのきっかけを思い出せないのは気まずい。だから藤吾はカスカスの頭から必死に記憶を辿る。
だが思い出せるのは、彼と仲良くなって以降のことばかりだった。
何も言わず、必死に思い出そうとする藤吾を見抜いた桔平が笑った。少し意地悪げに口角を上げ、藤吾の額を小突く。
「体育の後、体調悪くなって教室で寝てた時のことだよ」
こんな風に、と桔平が机に突っ伏す姿勢を再現する。
そんなことがあったような、無かったような。はっきりとしない記憶を辿りながら、続く桔平の言葉に耳を傾ける。その声は不思議なくらいに穏やかだった。
「どんどん気持ち悪くなって、いよいよヤバいってタイミングで梅干し食わせてきたじゃん。いらねえって言ったのに、無理やり口の中に突っ込んできて……」
「あー……、やべ。思い出してきた」
そこまで聞いて、ようやく藤吾は思い出してきた。
確か、あの日は夏前なのに異様に暑い日だった。
体育の後は移動教室にも関わらず、桔平は机から動かないままでいたのだ。机の上に水溜まりができるほど多量の汗をかく桔平を心配して、声をかけた記憶が脳裏に蘇る。
彼がその時、飲んでいたのは水だった。ペットボトル二本を空にした状態で、ぐったりとしていたことから塩分不足だろうと判断し、弁当に詰めていた梅干しを摘み上げる。
「やめろ」「いらない」と本気で拒絶をしている様子だったが、死なれるよりはと無理に口に押し込み咀嚼させた……ことを思い出して、藤吾は頭を抱えた。
「俺、マジで変わらねえなー……」
「本当にな。まあ、あの梅干しは美味かったけどさ」
そんな強引なきっかけだったにも関わらず、桔平は藤吾と友人になってくれたのだ。やはり彼はイイヤツなのだろう。
そして、あの梅干しは初めて自分の手で漬けたものだった。それを無理やりとは言え、口にさせていたことがなんとなく嬉しい。塩分を美味と感じる状況だったとはいえ、美味かったと評されたこともだ。
「あの頃は楽しかったな」
揺れる白いカーテンの向こう側に見えるのは青空だ。分厚い入道雲が山の向こうから顔を覗かせる、目に痛いほどの日差しが強いそんな昼下がり。
朝食なんてとっくに消化されて腹ペコで、腹の音を鳴らして受ける退屈な授業。
当然そんなものは幻想だ。見えるのは青白い月に照らされた、無味無臭の教室と校庭。過去にしか存在しない青い記憶を辿り、藤吾は呟いた。
「今はつまらないのか?」
答えるまでもない。桔平がいなくなったあの夏から、藤吾の受容体は麻痺した。
母親がヒステリーを起こそうが、目の前で電車に誰かが飛び込もうが、自分の手首をお試しで刻んでみようが、何も感じなかった。
素直に頷く。
「……つまらないっていうのは、ちょっと違くて」
心の中に穿たれた穴は塞がらない。こうして桔平と再び邂逅しても、その穴はぽっかりと空いたままだった。その穴に吹き込む風の冷たさがただ虚しい。
「寂しいんだよ、ずっと」
何をしても埋まらない心の穴は、日が経つごとに直径も深さも広がっていく。手遅れになる前に何かで埋めようと藤吾も努力した。
しかし、その穴は手を施すよりも早くに縁を崩していく。
最早、藤吾の手に負えなかった。虚しい寂しいと叫ぶ声だけが穴の底から聞こえている。その声を耳にしたとて、藤吾に出来ることは日々をやり過ごすだけだった。
「……フジ」
バサっと音を立てて翻るカーテンで一瞬、桔平の姿が隠れる。その向こうから優しい声で藤吾を呼んだ。
カーテンの向こうから何かが差し出される。当てずっぽうで口元を狙ったのか、唇を割って歯に固いものが当たった。ガチっという音から一歩遅れて遅れて、じんわりと歯茎が疼く。
「アーンしろよ」
それは桔平の骨だった。それを藤吾の口に宛てがっている。
その意図は図りきれない。だが、理由を聞くのは無粋な気がして、前歯を食い込ませた。
──しかし、噛み砕けない。歯の根が震えてただ甘く噛むだけの時間が続く。
「……無理」
顔を背け、骨から口を外す。どうしてもできなかった。
「無理だよ。俺には──」
桔平の一部を口にし、咀嚼することに抵抗があった。
唯一残った桔平の体を口にして、消化したら今度こそ桔平が無くなってしまう。存在が消えてしまうという恐怖に耐えられなくなってしまった。
「俺も、フジと一緒に過ごした時間はすごい楽しかった。お前に振り回されるのだって悪い気はしなかったよ」
高校生から時が進んでいないのに、その声はひどく年上のように感じられた。
過去を懐かしむ声に胸が締め付けられる。
「だから、食って」
顔をまともに見ようとすれば涙が溢れるだろう。少しの強がりで、藤吾は強く瞼を閉じた。
奥歯を噛み締め、覚悟を決めて瞼を開いた。
涙でぼやける視界の中、桔平の左手首を優しく掴む。口元に引き寄せて差し出された骨を喰んだ。
乾いた骨は口に含むと水分を奪われ、粘膜が吸い付く。劣化してボロボロになった骨は、簡単に前歯で削れた。
舌の上に乗った骨の粉を唾液に包んで嚥下する。
「どうよ。俺の味は」
正直、問われても何の味も匂いもしなかった。だが、彼の一部を取り込んでいくという充足感だけがあった。覚悟の前には、彼を食すことへの恐怖はもうなかった。
だから藤吾はしっかりと桔平の目を見て答える。
「世界一、美味しいよ」
パキンっと骨が半ばで折れた。乾いた骨髄が口腔内で唾液と混ざり合う。
会話をせずとも、彼の望みが胃の中から全身に伝わっていく。桔平の望みをようやく藤吾は叶えることができそうだった。
「海が見える場所に住みたいとか、そんなロマンティックな奴だったっけか」
「もう山にはうんざりなんだって」
彼はここに留まり続けることに辟易としていたのだ。初めて知る桔平の感情に心が揺れた。
それでも骨を咀嚼し続ける。残りはもう僅かだ。だが桔平の声は消えることはない。
「ここを出て、海の見える街に住む。約束するよ」
最後の一欠片。それを桔平が藤吾の口の中に押し込んだ。
「長生きしろよ。連れてくのはその後だ」
最後の一欠片を桔平の言葉と一緒に呑み込んだ。
食事にどれだけの時間をかけていたのか、東の空が明るくなり始めている。そこに桔平はもういない。教室に座るのは藤吾だけだった。
「桔平」
胃袋の位置を弄り撫でる。見えずとも、桔平はそこにいる。
藤吾が死ぬまで一つになったのだ。
「海を見に行こうか」
藤吾の言葉に頷くように、腹が鳴った。
