その夜、藤吾はあの時と同じように仁川診療所の前にいた。あの夜と同じように、赤錆が浮いた正門は夜風に晒されてギイギイと不吉な音を響かせていた。
温い風が汗ばむ藤吾の肌を撫でる。伸ばした指は正門に貼られたプレートに触れた。
五年前よりも擦り減って、完全に文字が読めなくなった「仁川診療所」の文字を撫でる。
過去と同じように、形だけでもと門に巻きつけられたチェーンは左右に引っ張った。それは今回も簡単に解けて地面に落ちる。それを跨いで、敷地に入って巨大な古びた病棟を見上げる。
ここで、日奈子は子を喪った。
それを知った今となっては、恐怖よりも憐憫を覚える。2階の窓のカーテンが揺れる。その奥に動く影が見えた気がした。
彼女は今もそこにいるのだろうか。
「日奈子さん。久しぶり」
その声は彼女に届いただろうか。前よりも数センチ伸びた背で見上げて、手を振った。
しかし彼女の返事は待たない。ガラス片をスニーカーで踏み潰しながら、入り口に足を踏み入れた。奥から冷たい澱んだ空気が流れてくる。
彼女なりの歓迎かと皮肉なことを考えながら、顔を綻ばせた。
診療所の中は五年前と変化はない。迷うかもと思ったが、その心配は杞憂に終わりそうだ。
記憶を辿って、地下に続く階段を目指す。
割れた窓からは、欠けた月の光が差し込んで長い廊下を照らしていた。
月明かりで照らされた掲示板に『診療所閉鎖のお知らせ』と書かれた紙が張り出されている。以前は気づかなかったのだろう。
その紙は触れただけで粉々になりそうな程に劣化していた。
掲示板の前を通り過ぎて、その先に待ち構えていた階段を下りる。以前はここに辿り着くより前に、日奈子の霊に襲われたものだったが、今日は異常なほどに大人しい。
とは言っても、こちらを監視する気配だけはずっと感じていた。背後からピッタリとくっついてくるような、粘着質な視線をずっと浴びせられているのだ。
だが、それも恐れることはない。
スマホのライトを頼りに、地下へと進んでいく。埃と黴の匂いが増して鼻がムズムズした。
シャツの袖で鼻を抑え、淡々と進んでいけば容易く目的地へと到着してしまった。
当時は気づかなかったが、鉄扉の上には『遺体安置所』の文字が書かれている。その重い扉を開け、中に入るとあの時と同じじっとりとした冷たい空気が閉じ込められていた。
藤吾が残していったハンカチも結んだ形で残っている。
湿度温度、両方のバランスを備えたそこは保存食を管理するに相応しい。五年前と同じことを考えつつ、今日は奈良漬を作りに来たわけではない。
迷うことなく、棚の持ち手を引いた。左から二段目、上から三段目。その重い隠し扉を開けば、記憶と寸分変わらぬ水路が残っていた。あの時と同じように幾つもの骨が沈んでいる。
かつてこの土地に捧げられた犠牲者を流した、骨の川。
ここに桔平の右腕も流された筈だ。
そして……、この中に収められたに日奈子の子もいる。そう確信していた。
藤吾は迷わず、膝の深さもある水路に降りた。冷たい水がスニーカーとカジュアルパンツを濡らす。水は容赦なく体温を奪うも、義務感に突き動かされて藤吾は水に腕を突っ込む。
何年にも及ぶ犠牲者たちの大量の骨だ。
どれも同じように見える骨の中、小さな一つを拾い上げる。何度も何度も繋いだ手だ。分からないはずもない。
「見つけたよ。桔平」
小さな欠片になった桔平の骨を両手で包み、それをパンツのポケットに収めた。
少し窮屈だろうが冷たい水の中よりマシだろう。しかし、これで終わったわけではない。
再び冷たい水に腕を突っ込んだ。すれば、指に鋭い痛みが走り思わず腕を抜く。劣化した骨が尖っていたのだろうか。濡れた指の腹がざっくりと切れて血が滲んだ。溢れた血を舌で舐め、腕を再び突っ込み土のぬかるみを探る。
骨がいくつも重なった中で、彼女の子を探すのは不可能だろう。しかし藤吾の心に迷いはない。指や掌を切りながら、夥しい量の骨を掘り進む。底を求めて土ごと掻き分けていく中、無念の声が聞こえた。
「寂しい」
「寒いよ」
「ここから出して」
犠牲者たち縋り付く声は鼓膜に届いているのか。あるいは幻聴か。それさえも定かではない。
藤吾はとっくに自分がおかしくなっているつもりだ。だから、恐れを持たず黙々と続ける。
そうして指はついに何かを捉えた。それを離さないよう指の腹で押さえつけながら掬い上げる。
それはそれは、小さな壷だった。蓋の部分は樹脂で塗り固められているのか、どうやっても開かない。中身は分からないが、これこそ彼女の探している子であると、確信していた。
壺の中から赤ん坊の鳴き声がか細く響いている。
「日奈子さん、この子をずっと探してたんでしょ」
壺を抱えて水路から上がる。そうして彼女を見ないようにしながら安置所の扉を出た。
壺を手渡すつもりだったのに、彼女は何も理解できていないようだ。ただ悪意のままに追いかけてくるばかり。その冷たい害意に昔抉られた背中に受けた傷を思い出した。焼けるように痛みが残った5本線の爪痕。それを覚えているからこそ、足が勝手に逃げ出した。
ビタンと湿った肉を叩きつける音が追いかけてくる。
ビタン、ビタ、ビタビタ、と徐々にスピードを上げて走る藤吾に追いつこうとしていた。執念の強さが足の速さに比例している。その勢いに圧倒され、恐怖心が上回った。
このままだと追いつかれるのも時間の問題だろう。一階に上がると同時に、一番近くの病室へと飛び込んだ。
樹脂で作られたはずの床には、埃や虫の遺骸の層が生まれ、歩く度に靴底がふかふかするのが気持ち悪かった。
だが、そんな不衛生な床に藤吾は手をついた。胸に壺を引き寄せて、匍匐全身でベッドの下に移動する。
金切り声が部屋に入ってきた。
──俺っていっつもこうだよなあ。
いつもいつも、ああすれば良かったこうすれば良かったと後悔するような選択ばかりしているような気がする。今回だって、この場所に戻らずに桔平を忘れてそれなりの人生を生きれば良かったのだ。
だが、そうしなかった。自分の意思で日積市へと戻って、桔平の死に場所に足を運んで……彼と死のうとした。
──この土地に取り憑いているのは、自分自身。
──自分の死を願うのも、自分自身だった。
「なあ、桔平」
窓から覗く満月を見上げる。やけに目に染みる淡い光だ。
「やっと一緒に死ねるかな」
ずるっと臍の緒を引いて歩く足の前に、藤吾は覚悟して這い出た。彼女が何かをするより先に、胸に抱いていた壺を地面に叩きつける。
不衛生な塵が舞い上がる。その上に黄ばんだ骨が、陶器の破片と散らばった。
「オギャア」
日奈子の未練から五災厄は生まれた。
骨でもいいから我が子を抱き締めたいと願った彼女の未練は、今晴らされたことになるのだろう。病室を出る直前、一回だけ振り向いた。そこには、愛しそうに赤ん坊を抱く浅葱色の着物の日奈子が見えた……気がした。
走って走って、藤吾は病院を抜け出した。回収できた骨は一つだけ。桔平の失った部分の10%にも満たないような小さな骨だ。
だからこそ、藤吾は期待していた。
「なら、絶対に俺の腕を取り戻して。できなかったら一緒に死んで貰うぞ」
桔平の言葉に嘘がないことを信じているからだ。
「桔平ー!俺を殺してくれー!」
恋と希望に浮かれた声は、皆が寝静まっただろう深夜の日積市に高々と響く。その不埒な大声は、五回忌を迎えている園田家にまで届いていた。
「お前は本当にバッカじゃねえの!」
そうして戻ってきたのは藤棚だった。意外にも広範囲の活動ができる桔平と、病院後はここに待ち合わせると約束をしていたためここに足を運んだのだ。
先程の藤吾の叫びは桔平の耳にもしっかり届いていたらしい。出会い頭に罵倒されるが、藤吾の表情はニッコニコと満面の笑みを浮かべていた。
はいこれ、と手渡す骨はたった一欠片。これが彼に手掛けられる理由になると、疑いもしない澄んだ瞳で桔平を見つめていた。
「無事に失敗したんで、ぶち殺してください!」
藤棚のベンチの上で正座をして土下座をする。霊に土下座をするなんて命乞い以外に有り得ないシチュエーションだろうに、実のところは真逆だ。
殺されたくて仕方ない藤吾は桔平に何度も頭を下げる。
「んじゃ、殺してやる前に行こう」
ベンチに腰を下ろしていた桔平が立ち上がる。その視線は頭上に咲き続けている藤の花を見ていた。
「学校行く約束、俺も果たせてなかったからな」
温い風が汗ばむ藤吾の肌を撫でる。伸ばした指は正門に貼られたプレートに触れた。
五年前よりも擦り減って、完全に文字が読めなくなった「仁川診療所」の文字を撫でる。
過去と同じように、形だけでもと門に巻きつけられたチェーンは左右に引っ張った。それは今回も簡単に解けて地面に落ちる。それを跨いで、敷地に入って巨大な古びた病棟を見上げる。
ここで、日奈子は子を喪った。
それを知った今となっては、恐怖よりも憐憫を覚える。2階の窓のカーテンが揺れる。その奥に動く影が見えた気がした。
彼女は今もそこにいるのだろうか。
「日奈子さん。久しぶり」
その声は彼女に届いただろうか。前よりも数センチ伸びた背で見上げて、手を振った。
しかし彼女の返事は待たない。ガラス片をスニーカーで踏み潰しながら、入り口に足を踏み入れた。奥から冷たい澱んだ空気が流れてくる。
彼女なりの歓迎かと皮肉なことを考えながら、顔を綻ばせた。
診療所の中は五年前と変化はない。迷うかもと思ったが、その心配は杞憂に終わりそうだ。
記憶を辿って、地下に続く階段を目指す。
割れた窓からは、欠けた月の光が差し込んで長い廊下を照らしていた。
月明かりで照らされた掲示板に『診療所閉鎖のお知らせ』と書かれた紙が張り出されている。以前は気づかなかったのだろう。
その紙は触れただけで粉々になりそうな程に劣化していた。
掲示板の前を通り過ぎて、その先に待ち構えていた階段を下りる。以前はここに辿り着くより前に、日奈子の霊に襲われたものだったが、今日は異常なほどに大人しい。
とは言っても、こちらを監視する気配だけはずっと感じていた。背後からピッタリとくっついてくるような、粘着質な視線をずっと浴びせられているのだ。
だが、それも恐れることはない。
スマホのライトを頼りに、地下へと進んでいく。埃と黴の匂いが増して鼻がムズムズした。
シャツの袖で鼻を抑え、淡々と進んでいけば容易く目的地へと到着してしまった。
当時は気づかなかったが、鉄扉の上には『遺体安置所』の文字が書かれている。その重い扉を開け、中に入るとあの時と同じじっとりとした冷たい空気が閉じ込められていた。
藤吾が残していったハンカチも結んだ形で残っている。
湿度温度、両方のバランスを備えたそこは保存食を管理するに相応しい。五年前と同じことを考えつつ、今日は奈良漬を作りに来たわけではない。
迷うことなく、棚の持ち手を引いた。左から二段目、上から三段目。その重い隠し扉を開けば、記憶と寸分変わらぬ水路が残っていた。あの時と同じように幾つもの骨が沈んでいる。
かつてこの土地に捧げられた犠牲者を流した、骨の川。
ここに桔平の右腕も流された筈だ。
そして……、この中に収められたに日奈子の子もいる。そう確信していた。
藤吾は迷わず、膝の深さもある水路に降りた。冷たい水がスニーカーとカジュアルパンツを濡らす。水は容赦なく体温を奪うも、義務感に突き動かされて藤吾は水に腕を突っ込む。
何年にも及ぶ犠牲者たちの大量の骨だ。
どれも同じように見える骨の中、小さな一つを拾い上げる。何度も何度も繋いだ手だ。分からないはずもない。
「見つけたよ。桔平」
小さな欠片になった桔平の骨を両手で包み、それをパンツのポケットに収めた。
少し窮屈だろうが冷たい水の中よりマシだろう。しかし、これで終わったわけではない。
再び冷たい水に腕を突っ込んだ。すれば、指に鋭い痛みが走り思わず腕を抜く。劣化した骨が尖っていたのだろうか。濡れた指の腹がざっくりと切れて血が滲んだ。溢れた血を舌で舐め、腕を再び突っ込み土のぬかるみを探る。
骨がいくつも重なった中で、彼女の子を探すのは不可能だろう。しかし藤吾の心に迷いはない。指や掌を切りながら、夥しい量の骨を掘り進む。底を求めて土ごと掻き分けていく中、無念の声が聞こえた。
「寂しい」
「寒いよ」
「ここから出して」
犠牲者たち縋り付く声は鼓膜に届いているのか。あるいは幻聴か。それさえも定かではない。
藤吾はとっくに自分がおかしくなっているつもりだ。だから、恐れを持たず黙々と続ける。
そうして指はついに何かを捉えた。それを離さないよう指の腹で押さえつけながら掬い上げる。
それはそれは、小さな壷だった。蓋の部分は樹脂で塗り固められているのか、どうやっても開かない。中身は分からないが、これこそ彼女の探している子であると、確信していた。
壺の中から赤ん坊の鳴き声がか細く響いている。
「日奈子さん、この子をずっと探してたんでしょ」
壺を抱えて水路から上がる。そうして彼女を見ないようにしながら安置所の扉を出た。
壺を手渡すつもりだったのに、彼女は何も理解できていないようだ。ただ悪意のままに追いかけてくるばかり。その冷たい害意に昔抉られた背中に受けた傷を思い出した。焼けるように痛みが残った5本線の爪痕。それを覚えているからこそ、足が勝手に逃げ出した。
ビタンと湿った肉を叩きつける音が追いかけてくる。
ビタン、ビタ、ビタビタ、と徐々にスピードを上げて走る藤吾に追いつこうとしていた。執念の強さが足の速さに比例している。その勢いに圧倒され、恐怖心が上回った。
このままだと追いつかれるのも時間の問題だろう。一階に上がると同時に、一番近くの病室へと飛び込んだ。
樹脂で作られたはずの床には、埃や虫の遺骸の層が生まれ、歩く度に靴底がふかふかするのが気持ち悪かった。
だが、そんな不衛生な床に藤吾は手をついた。胸に壺を引き寄せて、匍匐全身でベッドの下に移動する。
金切り声が部屋に入ってきた。
──俺っていっつもこうだよなあ。
いつもいつも、ああすれば良かったこうすれば良かったと後悔するような選択ばかりしているような気がする。今回だって、この場所に戻らずに桔平を忘れてそれなりの人生を生きれば良かったのだ。
だが、そうしなかった。自分の意思で日積市へと戻って、桔平の死に場所に足を運んで……彼と死のうとした。
──この土地に取り憑いているのは、自分自身。
──自分の死を願うのも、自分自身だった。
「なあ、桔平」
窓から覗く満月を見上げる。やけに目に染みる淡い光だ。
「やっと一緒に死ねるかな」
ずるっと臍の緒を引いて歩く足の前に、藤吾は覚悟して這い出た。彼女が何かをするより先に、胸に抱いていた壺を地面に叩きつける。
不衛生な塵が舞い上がる。その上に黄ばんだ骨が、陶器の破片と散らばった。
「オギャア」
日奈子の未練から五災厄は生まれた。
骨でもいいから我が子を抱き締めたいと願った彼女の未練は、今晴らされたことになるのだろう。病室を出る直前、一回だけ振り向いた。そこには、愛しそうに赤ん坊を抱く浅葱色の着物の日奈子が見えた……気がした。
走って走って、藤吾は病院を抜け出した。回収できた骨は一つだけ。桔平の失った部分の10%にも満たないような小さな骨だ。
だからこそ、藤吾は期待していた。
「なら、絶対に俺の腕を取り戻して。できなかったら一緒に死んで貰うぞ」
桔平の言葉に嘘がないことを信じているからだ。
「桔平ー!俺を殺してくれー!」
恋と希望に浮かれた声は、皆が寝静まっただろう深夜の日積市に高々と響く。その不埒な大声は、五回忌を迎えている園田家にまで届いていた。
「お前は本当にバッカじゃねえの!」
そうして戻ってきたのは藤棚だった。意外にも広範囲の活動ができる桔平と、病院後はここに待ち合わせると約束をしていたためここに足を運んだのだ。
先程の藤吾の叫びは桔平の耳にもしっかり届いていたらしい。出会い頭に罵倒されるが、藤吾の表情はニッコニコと満面の笑みを浮かべていた。
はいこれ、と手渡す骨はたった一欠片。これが彼に手掛けられる理由になると、疑いもしない澄んだ瞳で桔平を見つめていた。
「無事に失敗したんで、ぶち殺してください!」
藤棚のベンチの上で正座をして土下座をする。霊に土下座をするなんて命乞い以外に有り得ないシチュエーションだろうに、実のところは真逆だ。
殺されたくて仕方ない藤吾は桔平に何度も頭を下げる。
「んじゃ、殺してやる前に行こう」
ベンチに腰を下ろしていた桔平が立ち上がる。その視線は頭上に咲き続けている藤の花を見ていた。
「学校行く約束、俺も果たせてなかったからな」
