呪いは皿の上で

 あれから数年が経過した。藤吾は病気も怪我もなく生きていた。
 桔平が死んだら、生きていく意味がないとさえ思っていたのに、のうのうと藤吾は生きていた。
 食べ、排泄し、寝て。人間らしい生活を繰り返し、藤吾は気付けば21歳だった。
 桔平を失ってからいよいよ空っぽになった藤吾は、することもなくて勉強に明け暮れた。心の中に空いたものを、情報で埋めるようにひたすらに勉学に励んだ。
 結果、地方の国立大学に合格することになった。大学への進学をきっかけに日積市を出て、今に至る。

 日積駅のバス停のベンチに腰を下ろし、バスを待っていた。夏の日差しは容赦なく肌を炙って、チリチリと痛いくらいだ。
 吹き出す汗を手の甲で拭ってスマホを覗く。時刻は12時。一番日が高い時間だ。遠くで正午を知らせる学校のチャイムが聞こえる。
 その音はひどく懐かしいものだった。数年前まで、桔平と毎日のように聞いていた高校のチャイムだ。
 その音で記憶が呼び戻される。桔平と共に過ごした高校生活のことを。部活や勉強に明け暮れた、学生らしい思い出が蘇る。だと言うのに、記憶の最後を締めるのは桔平の惨たらしい最期だった。
 血と肉の欠片になって、きちんと弔われることさえなかった。

 あの時、自分にできたことはなかっただろうか。そんなことを幾度と考え、今も考える。
 しかし、どうやっても彼を救う余地などなかったと結論に至ってしまう。
 彼が助かる道があったのだとすれば……藤吾が想いを寄せなければ良かった。それだけだ。
 彼が死んだ悲しみと喪失感は、時と共に薄れていく。なのに後悔と自己嫌悪ばかりは、刻まれた傷のように今もくっきりと残っていた。
 
 ふっと気付けば、バスが目の前に止まっていた。慌てて立ち上がるが扉が閉められる。ぼんやりと発進するバスを見送り、もう一度ベンチに腰を下ろした。
 自分の体温なのに、座り直して感じるその熱は不愉快だった。位置をずらして座り直したが……気分が優れない。
 その理由はバス停にやってきた高校生たちにあった。彼らが着る制服は、藤吾が通っていた高校のものだったからだ。
 制服に基づく記憶は、桔平に帰結する。
 苦い後悔が再び押し寄せて、藤吾はバス停から離れていった。
 どうやら、今日から夏休みらしい。学制服が点々と駅に向かっていくのを、落ち着かない心地で通り過ぎていく。
 聞こえる賑やかな声の中、聞き慣れた声が届いた。

「フジ」

 人混みの中、足を止めた。実に迷惑そうに藤吾を大回りに皆んなが避けていく。
 だが、藤吾はその声の主をその場で探した。目を凝らして辺りを見渡す。

「こっち」
 
 明確な意思を持った声が呼びかける。その姿は見えない。だが、方向だけは分かった。
 駅のロータリーを駆け抜け、その先に続く道を進む。
 呼びかける声の名前を呼ぼうとして、思わず口を手で覆う。どうしてか、名前を呼べなかった。呼んだ瞬間、彼がいなくなってしまうような嫌な予感がして、無言で声に従った。
 こっち、こっち、と呼ばれるがまま、犬のようについていく。その道が続く先にあるのは、藤吾が元々向かおうとしていた場所だ。
 バスで数十分はかかる距離を徒歩で、それもこの酷暑の中行くのは自殺行為かもしれない。それでもいいと藤吾は思っていた。
 だが、その声の主は違うらしい。
 山に続く傾斜に差し掛かった、そのタイミングで何かがこちらへごろごろと転がり落ちてくる。それを両手でキャッチした。

「……飲めっての?気が利いてんじゃん」

 それは、不思議なくらいキンキンに冷えたサイダーだった。転がってきたせいで砂に塗れているが、あの夏を過ごした藤吾が今更構うはずもない。
 ペットボトルの蓋を開けて、それを口にしようとした瞬間、愉快そうな声が坂の向こうから聞こえた。
 サイダーが勢いよく噴き上がる。それを予期していたのだろう。幼稚な悪戯をしかけた声の主は、「ザマアミロ!」と笑っていた。
 
「桔平!おいふざけんな、お前!」

 ボコボコと噴き上がるサイダーは止まらない。蓋ごと口を抑えても、冷たい泡が指の隙間から溢れていく。
 いよいよどうしようもなくなって、手首まで濡らしながら一気にサイダーを煽る。パチパチと駆け抜けていく甘い味に、藤吾の心は一気に引き戻されていった。
桔平と過ごしていた、学生の頃へと。
 サイダーで喉が潤ったおかげで、坂を一気に駆け上る。レポートの締め切りに追われ、運動なんてここ最近まともにしていなかったのに息切れせずに登り切れた。
 足も羽が生えたように軽い。

「早くこいよ!」

 容赦なく軽口が続く。その声は八俸山に続く道からだ。
 かつて、桔平が死んだあの場所から呼んでいる。
 しかし、藤吾の中に迷いはない。呼ばれるがまま足を山道に踏み込んだ。その直前にバス停の脇にあった、石碑を見る。
 そこには何もなかった。あるのは黒く焼けた粉々の破片だけ。

「桔平!なあ、俺のこと恨んでる!?」

 太陽が反射した土が白くて目が痛い。目を細めながら、より傾きが激しくなる傾斜を進んでいく。
 そうして問うた藤吾の声に返ってくる言葉はない。
 鬱蒼と茂った草木から生き物の気配もまるでなかった。あの時と同じ、不穏な気配を感じながら藤吾はもう一度声をかけた。

「恨まれてもさあ、それもいいよ! だってそれなら俺たち、一生お互いのこと考えてられるじゃん!」

 返事はない。鳥どころか蝉一匹すら鳴かない、嫌な静けさだ。日が陰って一瞬暗くなる。その隙に、藤吾は目を開いて走った。
 その先にあるのはかつての炭鉱だ。桔平と共に爆発を引き起こした、日積市の呪いのきっかけとなった場所。
 しかし、そこは封じられていた。あの爆発で天井を支えていた木枠や柱が崩れたらしい。「立ち入り禁止」と書かれた黄色と黒のバリケードが設置されていた。
 バリケードを横に押し除け、坑道の中へと足を踏み込む。だが、数歩進んで断念した。天井が崩れて道が塞がっている。
 赤黒い土に掌で触れながら、なお話し続けた。

「今も、俺は桔平のこと好きだよ。世界で一番」

 ざらざらとした土に触れて弄る。一度掘り起こされたように柔らかい。その土の中に見つけた。まるで藤吾に見つかるのを待っていたとでもいうのか。
 容易く見つかったそれは辰砂だった。表面が蕩けた飴のようにぬらぬらと蠱惑的に輝いている。

「……、くだらねえよな」

 苺でも摘むように、開けた口の中へと近づける。覚えのある鉄臭さが口と鼻の粘膜を貫く。

「本当にくだらないよ。お前」

 パシンと音を立てて手が弾かれた。その勢いで手にしていた辰砂を取り落とす。「あ」と間抜けた声を発している間にも、赤い欠片は炭坑の中を転がって、闇の中へと紛れてしまった。

「……そう思うなら邪魔しなければいいのによ」

 どこまで行っても情けない声だ。へなへなに言葉尻が震えて、涙が出そうになる。溢れないだけで、眼球の上に涙が膜を張って視界がぼやけた。

「……久しぶり」
「おう」

 あの頃と何も変わらない桔平がそこに居た。
  男性的ながら甘さのある顔立ちも、少しだけ幼さのある大きな瞳も、自分よりも少し大きな背丈も、バスケ部員らしい大きな手も、筋肉がついたスラっとした長身も。
 藤吾が愛したままの姿の桔平が、少しだけ照れ臭そうに立っていた。

「なあ、チューしていい?」

 ドンっと軽く肩を小突かれた。
 触れられたことに驚いたが、すぐに納得した。忌地で藤吾を襲ったあれらは傷を負わせることができるのだから、彼もそうなのだろうと。




「ふーん、あのフジが国立大にねえ〜」

 2人は炭坑から出た。聞かれるがままに藤吾は近況を桔平に話していた。
 桔平に促されて外に出るもその日差しはきつい。眩しさと暑さに顔を顰め、2人はバス停のベンチに座りながら、会話を続けていた。
 バス停に書かれた時刻表は何も書かれていなかった。藤吾が街を出ている間に、八俸山に続くバスは廃止されたらしい。
 しかしそれも当然だろう。炭坑は崩れ、犬塚もない。ただただ不穏な噂が残るだけの場所に何の価値もない。少なくとも、藤吾以外からすれば。

「てっきり、調理系の専門学校か栄養士の方に進むと思ってた」

 藤吾が通うのは経済学だった。普段の勉強に追いつくのに必死で、レポートもこなすだけで精一杯。それが自分に向いていると感じる瞬間はなかった。
 どれほど知識を詰め込んでも、理解ができても楽しいとは思えない。そんな勉学に励んでいることを、左側に座る桔平に打ち明ける。
 大学生になれず死んだ彼に語るには酷だろうかと思っていた。しかし存外、桔平は気にしている様子はない。
 好奇心旺盛に質問を重ねたり、苦労する藤吾の話に嬉しそうに相槌を打ってくれた。

「……なるべく、ここから遠いとこに行きたかったんだよ」

 「そうか」と桔平が瞼を閉じて頷く。
 あれからも母親との関係が良好になることはなかった。ヒステリックで不安定な母親を置いて家を出るのは、ほんの少しの罪悪感は感じた。
 しかし、それよりもこの土地から少しでも早く離れたい気持ちが強かったのだ。ここは桔平との思い出が多すぎる。
 それを毎日のように思い出すことに耐えられなかった。

「だけど料理はしてる。毎日自炊してんだって、ほらほら」

 ここを離れた理由が桔平であること。それが彼の罪悪感を刺激しないかが心配になって慌てて言葉を続けた。スマホで撮った料理の写真を見せる。
 アスパラと菜の花のペペロンチーノ。茄子の揚げ浸し。イワシの南蛮揚げ。そこには色とりどりの料理が並んでいた。
 誰に見せるわけでも、食べさせるわけでも無い。一人分の料理が小さな画面に収まっていた。

「よかった」

 心底安堵したといった様子だ。優しいままの彼はずっと気にかけてくれていたのだろう。

「けど、肉が食えなくなったのは俺のせいか?」

 藤吾から顔を背けるように俯いた。その言葉にぎくりと肩が跳ねる。
 野菜や魚料理ばかりが並ぶ画面から桔平は察してしまったのだろう。あの血肉と撒き散らした凄惨な死が、藤吾の心に傷を負わせていることを。
 そして、食事を愛する舌の上に自らの肉片を乗せてしまっただろうことにも。

「違います〜。ダイエットしてるんです〜」

 だから精一杯おどける。昔はあんなに得意だったのに、上手くおちゃらけることができた気がしなかった。
 無理矢理に陽気な声を上げて、自分の腹を掴む。無駄な肉なんてほとんどないから、シャツを弛ませて脂肪を演出した。
 
「変わらねえなあ」

 少しだけ寂しそうに、だけど懐かしそうに桔平が笑った。

「なあ、元気いっぱいなら一つだけ頼んでもいい?」
「いいぜ。俺との仲だろ」

 隣に座っていた桔平が立ち上がる。ふわりと夏の湿った風に吹かれ、シャツの袖が揺れた。
 桔平の右腕は肘から先が無かった。

「俺の腕、アイツらから取り戻して欲しいんだ」

 消えた腕部分を左手で摩る。そこにあるべき存在を探すかのよう。その仕草が無性に悲しくて、もちろんと言おうとした言葉が出てこない。
 だから無言で頷いた。ちゃんと意味が伝わるように、力強く何回も。

「そのために帰ってきたんだよ」

 今日は、彼が死んで五回忌だった。
 だから藤吾は帰ってきたのだ。何かが直感していた。ここに戻れば彼に会えると。

「好きだから、何でもする。俺のこと利用しなよ」

 頭の悪い犬のような忠誠心を見せる藤吾に、桔平が左手でチョップする。頭の上にストンと落とされた手刀は優しかった。

「なら、絶対に俺の腕を取り戻して。できなかったら一緒に死んで貰うぞ」
「え、あらやだ。それって告白?」

 嬉しそうな笑みが藤吾の顔いっぱいに広がる。そうして両腕を突き上げてガッツポーズをするのだった。そんな藤吾を前に、桔平は呆れたように溜息を吐くのだった。

「やっぱり変わらねえなあ。お前」

 その言葉に藤吾はピースを向ける。勝ち誇ったかのように。

「そう簡単に変わってたまるかよ」