あれから半日以上が経過してから藤吾は保護された。
桔平の残された腕を握ったままの姿を見て、発見した警察官はおおよそを察したのだろう。
まず、警察官は千切れた桔平の腕を引き離そうと声をかけた。瞬間、気が触れたように藤吾は暴れ、必死の抵抗を見せた。
それを警察官は力尽くで抑え込み、食い込む指を一本ずつ開いて、引き剥がしていった。
断面の血は乾き切って、肉が腐り始めた甘酸っぱい匂いがした。それでも、唯一残された桔平の体だ。
それを奪われることに耐えきれないと、必死に藤吾は縋った。
「返せ」「物みたいに扱うな」
そう譫言のように繰り返す藤吾を痛ましそうに警察官が見た。しかし、桔平の腕は藤吾に返されることはなかった。
「桐島くん。お疲れ様でした」
藤吾にそう話しかけるのは、ベッド脇に置かれた丸椅子に座った先生だ。鎮静剤を打たれてぼやけた頭では、白衣を着た老齢の男が外科医か内科医か、あるいは精神科医なのか分からない。
だが、担当医であることは違いないらしい。ベッドに横たわりながら口を開く。カサカサに喉が渇いて舌が縺れた。
「桔平……。桔平は」
「大丈夫ですよ」
ベッドテーブルに置かれたグラスを手に取る。水が入ったそれを床へと叩きつけた。
大丈夫なわけがない。桔平は目の前で死んだ。
「何が大丈夫なんだよ!?あんな死に方して何が!何が!?」
渇いて切れた唇の端から血が流れる。細い血が顎に伝うのを感じながら、机に置かれたもの全てを薙ぎ倒す。
空のペットボトル。小さな花が活けられた小ぶりな花瓶。朝のニュース番組でやっているマスコットのぬいぐるみ。それら全てを両腕で払い除けて慟哭する。
助けられたと思ったのに、最後の最後に助けられなかった。
その絶望が胸に押し寄せて、テーブルに肘をついて頭を抱え込む。それでも抱え込み切れない悲しみのせいで、両指に絡んだ毛髪を引き抜いた。
「園田くんは、この土地を守って──」
担当医に目掛けて枕を投げつける。しかしそんなことには慣れっこなのか。最低限の動きで軌道から外れて枕を避けた。
「黙れ黙れ黙れ!!何が守った、だ。殺されたんだよ桔平は!」
藤吾の言葉を一つも理解してないように笑う。刻まれた口角の皺の影を深めて朗らかに。
「また、明日お話ししましょう。夕飯の後、お薬がありますから忘れずに服用をお願いします」
話を一方的に切り上げながら立ち上がる。振り返ることなく廊下に続く扉から出ていった。代わりに扉前に待機していたガタイのいい看護師が近づく。しかし何もしない。暴れたことへの牽制のつもりだろうか。
藤吾はベッドから立ち上がることなく下から睨みつけた。無力な藤吾にできたのはそこまでだった。
「今日の夜が、……あの子の弔日です」
看護師が低い声でこっそりと藤吾に告げた。
その言葉に大きく目を見開く。
何故それを教えるのか。看護師の真意を探ろうとしたが彼はそれ以上のことは話さない。淡々と床に散らばったものを拾って、ガラス片を片付けていく。
手際よく片付けを終え、ベッドテーブルの上にぬいぐるみを置いた。その下に折り畳んだコピー用紙らしきものを敷いて。
まるで藤吾以外の誰かに見られるのを嫌がるかのように。
看護師が出ていってすぐに藤吾はぬいぐるみ下の紙を開いた。
そこに書かれているものは、仁川病院の歴史だった。
コピー用紙にまとめられたそれを前に、ようやく先程の看護師が、何故気にかけてくれていたのかを思い出した。
顔を覚えたと思っていたのに、全く覚えていなかった。彼が桔平の兄だということに。
満月から少しだけ欠けた月の下、藤吾は学校に続く道を向かっていた。今日は靴を履いているが、足の裏が痛い。何せ足裏の皮全てがバナナの皮のように剥けていたのだ。
歩くだけで靴の中が湿っていくのは血だろうか。
それでも痛みを無視して藤吾は進む。数日前、藤吾と過ごした見晴らし丘の藤棚へと。
そこは、最後に足を運んだ時と変わらない。満開の藤が咲き乱れている。
そして藤の房を夜風に揺らす彼女が立っていた。青い月明かりの下でもその着物の色は分かる。浅葱色。
幽世で見たものと寸分変わらぬ色と柄だ。全てを察して藤吾はここに来た。彼女もそれを察していることだろう。彼女はここから全てを見通しているのだから。
「来ましたのね」
桔平の残された腕を握ったままの姿を見て、発見した警察官はおおよそを察したのだろう。
まず、警察官は千切れた桔平の腕を引き離そうと声をかけた。瞬間、気が触れたように藤吾は暴れ、必死の抵抗を見せた。
それを警察官は力尽くで抑え込み、食い込む指を一本ずつ開いて、引き剥がしていった。
断面の血は乾き切って、肉が腐り始めた甘酸っぱい匂いがした。それでも、唯一残された桔平の体だ。
それを奪われることに耐えきれないと、必死に藤吾は縋った。
「返せ」「物みたいに扱うな」
そう譫言のように繰り返す藤吾を痛ましそうに警察官が見た。しかし、桔平の腕は藤吾に返されることはなかった。
「桐島くん。お疲れ様でした」
藤吾にそう話しかけるのは、ベッド脇に置かれた丸椅子に座った先生だ。鎮静剤を打たれてぼやけた頭では、白衣を着た老齢の男が外科医か内科医か、あるいは精神科医なのか分からない。
だが、担当医であることは違いないらしい。ベッドに横たわりながら口を開く。カサカサに喉が渇いて舌が縺れた。
「桔平……。桔平は」
「大丈夫ですよ」
ベッドテーブルに置かれたグラスを手に取る。水が入ったそれを床へと叩きつけた。
大丈夫なわけがない。桔平は目の前で死んだ。
「何が大丈夫なんだよ!?あんな死に方して何が!何が!?」
渇いて切れた唇の端から血が流れる。細い血が顎に伝うのを感じながら、机に置かれたもの全てを薙ぎ倒す。
空のペットボトル。小さな花が活けられた小ぶりな花瓶。朝のニュース番組でやっているマスコットのぬいぐるみ。それら全てを両腕で払い除けて慟哭する。
助けられたと思ったのに、最後の最後に助けられなかった。
その絶望が胸に押し寄せて、テーブルに肘をついて頭を抱え込む。それでも抱え込み切れない悲しみのせいで、両指に絡んだ毛髪を引き抜いた。
「園田くんは、この土地を守って──」
担当医に目掛けて枕を投げつける。しかしそんなことには慣れっこなのか。最低限の動きで軌道から外れて枕を避けた。
「黙れ黙れ黙れ!!何が守った、だ。殺されたんだよ桔平は!」
藤吾の言葉を一つも理解してないように笑う。刻まれた口角の皺の影を深めて朗らかに。
「また、明日お話ししましょう。夕飯の後、お薬がありますから忘れずに服用をお願いします」
話を一方的に切り上げながら立ち上がる。振り返ることなく廊下に続く扉から出ていった。代わりに扉前に待機していたガタイのいい看護師が近づく。しかし何もしない。暴れたことへの牽制のつもりだろうか。
藤吾はベッドから立ち上がることなく下から睨みつけた。無力な藤吾にできたのはそこまでだった。
「今日の夜が、……あの子の弔日です」
看護師が低い声でこっそりと藤吾に告げた。
その言葉に大きく目を見開く。
何故それを教えるのか。看護師の真意を探ろうとしたが彼はそれ以上のことは話さない。淡々と床に散らばったものを拾って、ガラス片を片付けていく。
手際よく片付けを終え、ベッドテーブルの上にぬいぐるみを置いた。その下に折り畳んだコピー用紙らしきものを敷いて。
まるで藤吾以外の誰かに見られるのを嫌がるかのように。
看護師が出ていってすぐに藤吾はぬいぐるみ下の紙を開いた。
そこに書かれているものは、仁川病院の歴史だった。
コピー用紙にまとめられたそれを前に、ようやく先程の看護師が、何故気にかけてくれていたのかを思い出した。
顔を覚えたと思っていたのに、全く覚えていなかった。彼が桔平の兄だということに。
満月から少しだけ欠けた月の下、藤吾は学校に続く道を向かっていた。今日は靴を履いているが、足の裏が痛い。何せ足裏の皮全てがバナナの皮のように剥けていたのだ。
歩くだけで靴の中が湿っていくのは血だろうか。
それでも痛みを無視して藤吾は進む。数日前、藤吾と過ごした見晴らし丘の藤棚へと。
そこは、最後に足を運んだ時と変わらない。満開の藤が咲き乱れている。
そして藤の房を夜風に揺らす彼女が立っていた。青い月明かりの下でもその着物の色は分かる。浅葱色。
幽世で見たものと寸分変わらぬ色と柄だ。全てを察して藤吾はここに来た。彼女もそれを察していることだろう。彼女はここから全てを見通しているのだから。
「来ましたのね」
